KemaAkeの全国城めぐり

金沢城 かなざわじょう
別名 尾山城
形態 平山城
築城年 天正8年(1580)
築城者 佐久間盛政
主な城主 佐久間氏、前田氏
所在地旧国名 加賀
所在地 石川県金沢市丸の内
アクセス ●徒歩によるアクセス
JR北陸本線 金沢駅東口から黒門口まで徒歩20分
城までの道順は城の地図の青線を参照してください。

金沢駅からバスも出ていますが、そんなに遠くないようなので歩きました。道沿いには日本三大市場のひとつである近江町市場もあるため、ぶらぶらするのも良いと思います。
アクセスレベル ●徒歩でのアクセスレベル
☆☆☆☆
概要 金沢城の城地には、戦国時代には加賀一向一揆の拠点の浄土真宗寺院、尾山御坊があった。天正8年(1580)に織田信長の命を受けた柴田勝家らが加賀に侵攻、尾山御坊を占領した。尾山御坊には柴田勝家の甥、佐久間盛政が入り、一向一揆の反撃に備え、堀や土塁の整備を行い、名を金沢城と改めた。天正10年(1582)の本能寺の変の後、柴田勝家とともに佐久間盛政は羽柴秀吉に滅ぼされる。このとき秀吉に服属した前田利家は加賀の本領安堵とともに、佐久間盛政の旧領を与えられ金沢城に入った。利家は天正15年(1587)から、キリシタン大名であった高山右近を招き、大がかりな城の整備に取り掛かった。このとき、石垣の構築、大手口の付け替え、天守の造営などが行われ、金沢城は近世城郭となった。その後、金沢城は幾度なる火災と地震に襲われ、その修復および老朽化にともなう再築を繰り返した。明治維新後、廃藩置県により金沢城の城地は、陸軍省の所管となり、歩兵第七連隊が置かれた。明治14年(1881)には、失火により残されていた御殿や門、櫓などそのほとんどを失い、石川門、三十間長屋を残すのみとなった。第二次大戦後、昭和24年(1949)からは金沢大学丸の内キャンパスが置かれていたが、平成8年(1996)に金沢大学は移転。石川県が国からこの地を取得し、金沢城址公園として整備が進められ、現在に至る。
城内案内図など 城内案内図(1200x1200)
登城日 2010/04/30
撮影カメラ RICOH CX1
みどころ 現存建物の石川門や三十間長屋など。海鼠壁や鉛瓦、置唐破風の石落としなども金沢城の特徴です。石垣にも他の城には見られない技法が使われており興味深いです。

登城記
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。各写真の下の赤○、青○は、城の地図と対応しています。赤はその場所を示し、青はその写真の撮影場所を示します。

大手堀
城の地図:青1

大手堀です。金沢城で唯一現存する外堀で、大手堀の西端には黒門跡、東端には尾坂門跡があります。
大手堀の石垣

大手堀の石垣です。上段の石垣は寛政11年(1799)の地震で崩れたものを翌年修築したもので、尾坂門を形成する石垣になります。この尾坂門から河北門を経由して本丸に至るのが大手筋になります。下段の石垣は創建時のものと考えられています。
尾坂門跡
城の地図:赤1

尾坂門跡です。高山右近の指導により、現在の黒門跡から大手口をこの尾坂門に移したと伝えられています。写真のように大きな櫓台石垣が残っていますが、櫓門が記載された資料はなく、棟門が設けられていたようです。
新丸広場から見た河北門と菱櫓
城の地図:青2

新丸広場から見た河北門と菱櫓です。尾坂門の内側は新丸跡で、かつては作事所などがありました。写真左側の門が河北門、右側の三重櫓が菱櫓です。
前田利家の銅像
城の地図:赤2

前田利家の銅像です。尾坂門跡から白鳥堀跡に設けられた白鳥路を行くと石川門の下に出ます。あまり目立たない場所にこの銅像が建っていました。黄金に輝く兜がまぶしいです。
石川門
城の地図:赤3

石川門です。石川門は金沢城の搦手門で、石川郡の方向を向いているため、この名前で呼ばれるようになりました。石川門の向いには、日本三名園のひとつ、兼六園があります。兼六園は前田家が造った大名庭園で、その広さは金沢城に匹敵します。このことから戦略的な性格も有していたとも考えられています。
百間堀跡
城の地図:青3

百間堀跡です。現在は埋め立てられ道路となっていますが、金沢城で最も幅が広く規模の大きい外堀でした。石川門は百間堀に面して設けられており、百間堀には土橋が架かっていました。
石川門の渡櫓門

石川門の渡櫓門です。石落としにも意匠をこらし、置唐破風とすることで建物に気品を与えています。石川門は表門、渡櫓門、櫓、続櫓など8棟の建物で形成されており、いずれも重要文化財に指定されています。現在の建物は、金沢城が全焼した宝暦9年(1759)の大火の後、天明8年(1788)に再建されたものです。石川門をはじめとした金沢城の建物の特徴として、海鼠(なまこ)壁、随所に見られる置唐破風の石落とし、鉛瓦の三つが上げられます。
石川門、枡形から見た櫓

石川門、枡形から見た櫓です。金沢城の特徴のひとつである海鼠壁を用いています。海鼠壁は中塗りした土壁の上に、平瓦を張り、目地を漆喰で塗り固めたものです。目地の漆喰の形がナマコに似ていることからこう呼ばれています。
鉛瓦

鉛瓦です。石川門の表門のもので、前田氏の家紋「加賀梅鉢」が彫られています。鉛瓦も金沢城の特徴のひとつです。屋根の下地に木で瓦の形を作り、その上に鉛板を張っています。鉛を瓦に使用した理由としては、「加重の軽減」「戦闘時に鉛を溶かして銃弾にするため」といったもっともらしい説から、「加賀藩で鉛が余ったから」など諸説あります。通常の瓦では北陸の厳しい寒さで割れてしまうため、その対策として採用された可能性もありそうです。
石川門、枡形から見た渡櫓門

石川門、枡形から見た渡櫓門です。
石川門、枡形の石垣

石川門、枡形の石垣です。明和2年(1765)の改修時のものと考えられており、左側は打ち込みハギ、右側は切り込みハギで積まれています。同じ場所で違う積み方をした珍しい例です。面白いことに、文化年間に書かれた文書には「左右違い分けて積むのはおかしい」などと記載されています。
三の丸から見た石川門

三の丸から見た石川門です。石川門の内側は三の丸になります。
河北門
城の地図:赤4

河北門です。河北門は三の丸の北面に位置し、金沢城の実質的な正門です。石川門、橋爪門と共に金沢城三御門と呼ばれていました。天正12年(1584)に前田利家が河北門から末森城に出陣したという伝説もあり、金沢城創建当初から存在し大手の役割を果たしていたと考えられています。宝暦9年(1759)の大火での焼失後、三御門のなかで最も早く再建されました。明治15年(1882)頃に撤去されましたが、平成22年に復元されました。
河北門、二の門

河北門、二の門です。渡櫓門形式で、外観は石川門とほぼ同じですが、幅約27メートル、奥行き約8メートルと一回り大きく、大手筋に置かれた正門にふさわしい規模となっています。
三の丸から見た河北門、二の門

三の丸かたら見た河北門、二の門です。かつては河北門、石川門、橋爪門の金沢城三御門が三の丸を囲んでいました。
河北門、一の門とニラミ櫓台および五十間長屋群

河北門、一の門とニラミ櫓台および五十間長屋群です。手前の高麗門が河北門、一の門でその右側がニラミ櫓台です。宝暦の大火以前には、ニラミ櫓台の上に石川門と同様に二層の櫓がありましたが、焼失後は土塀のみとなりました。焼失後の姿を復元しています。奥の長大な櫓は五十間長屋で、一の門の左上には小さく橋爪門、一の門が見えます。
橋爪門続櫓、五十間長屋、菱櫓
城の地図:赤5

橋爪門続櫓、五十間長屋、菱櫓です。三の丸に入るとこの光景が目の前に広がり、そのスケールに圧倒されます。左から橋爪門続櫓、五十間長屋、菱櫓で、平成13年(2001)に復元されました。中央の五十間長屋は橋爪門続櫓と菱櫓を結ぶ二層の多門櫓で、普段は倉庫となっていましたが、戦闘時には三の丸を守る砦となりました。各所に置唐破風の石落としを設け、格子窓は鉄砲狭間となります。一間は約1メートルで、五十間長屋は66メートルほどの長さがあるため、古い建物にありがちな誇大表記というわけではないようです。
菱櫓

菱櫓です。菱櫓は二の丸で一番高い櫓で、尾坂門、河北門、石川門を一望することができ、三の丸、新丸を監視する役目を持っていました。その名のとおり菱型をしており、真正面から見上げると違和感を感じますが、ゆがんで見えるからでしょうか。
菱櫓の石落とし

菱櫓の石落としです。金沢城の石落としは他の城と異なり、唐破風で飾り、表面に銅版を貼るなど意匠にも工夫がこらされています。また、格子窓を設けることで鉄砲狭間にもなります。特に菱櫓の石落としは、唐破風の他に千鳥破風も用いられており一層華やかです。
橋爪門続櫓と橋爪門、一の門

橋爪門続櫓と橋爪門、一の門です。橋爪門続櫓はその名のとおり橋爪門に付随し、三の丸で戦闘が起きたときの指揮所になりました。橋爪門は金沢城三御門のひとつで、高麗門の一の門が復元されています。
二の丸から見た橋爪門続櫓、五十間長屋、菱櫓

二の丸から見た橋爪門続櫓、五十間長屋、菱櫓です。左から菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓です。こうやってみるとこれらの建物が二の丸東面の守りを一手に担っていたことが伺えます。二の丸には千畳敷と呼ばれる豪華な御殿が建てられ、藩庁として利用されていました。儀式の場である「表向」、藩主が日常政務を行う「御居間廻り」、妻子や奥女中の生活の場である「奥向」の三つの空間に仕切られていました。
菱櫓、内部から見た石落とし

菱櫓、内部から見た石落としです。内部から見ると、三面に鉄砲狭間となる格子窓が設けられているのがよくわかります。
菱櫓三層目から見た河北門と石川門

菱櫓三層目から見た河北門と石川門です。
五十間長屋の二層目内部

五十間長屋の二層目内部です。
橋爪門続櫓の内部

橋爪門続櫓の内部です。橋爪門続櫓の内部は吹き抜けとなっており、武器や食料を二階にあげるための荷揚げ場だったと考えられています。この吹き抜け空間を利用し、昔の構造を変えることなくエレベータを設置しています。
極楽橋

極楽橋です。二の丸と本丸の間の空堀に架けられ、その名前は尾山御坊の時代から伝わったものとも伝えられています。奥に見えるのは三十間長屋です。
三十間長屋
城の地図:赤6

三十間長屋です。当初は食器類を収めた倉庫でしたが、江戸時代後期には武器・弾薬を収めていたようです。宝暦9年(1759)の大火での焼失後、長く再建されませんでしたが、安政5年(1858)に再建され、現存しています。重要文化財に指定されています。
三十間長屋の石垣

三十間長屋の石垣です。切り込みハギで積まれていますが、表面の縁取りだけをきれいにそろえ、内側を荒いままにしておく「金場取り残し積み」という技法が用いられています。初めて見る技法なので思わず撮影しました。写真では少しわかりづらいですね…
黒門跡
城の地図:赤7

黒門跡です。二の丸から本丸に入る正門で、鉄板を貼った扉がつけられていたことからこの名前で呼ばれるようになりました。現在は石垣のみを残していますが、かつては渡櫓が設けられ、本丸正門にふさわしい重厚な門でした。
戌亥櫓跡
城の地図:赤8

戌亥櫓跡です。本丸の北西角にあります。西と北に石落としがついた二層の櫓でした。おそらく石川門の櫓と同じような形だったのでしょう。
戌亥櫓跡から見た五十間長屋郡と石川門

戌亥櫓跡から見た五十間長屋群と石川門です。
二の丸と本丸の間の空掘

二の丸と本丸の間の空掘です。中央の橋は極楽橋です。
鶴丸倉庫
城の地図:赤9

鶴丸倉庫です。嘉永元年(1848)に立て替えられた武具土蔵で、重要文化財に指定されています。全国の城郭内土蔵の中で最大のもので、腰の石貼りや窓周りなどにも意匠がこらされています。明治以降は、軍隊の被服倉庫として利用されましたが、基本構造は創建時のままです。
丑寅櫓跡
城の地図:赤10

丑寅櫓跡です。東の丸の北東角にあります。櫓台の石垣は野面積みで、文禄元年(1592)築造と考えられ、金沢城最古の石垣です。櫓は宝暦9年(1759)の大火での焼失後、再建されませんでした。
東の丸跡
城の地図:赤11

東の丸跡です。現在、本丸と東の丸周辺は木々が生い茂る森となっています。本丸にはかつて利家が築いた五層天守と御殿がありましたが、慶長7年(1602)に焼失。その後天守代用として、御三階櫓が建てられてましたが、これも宝暦9年(1759)の大火で焼失してしまいました。 ちなみに金沢城の建物には一切鯱が使われていません。幕府に遠慮したのでしょうか。
辰巳櫓跡
城の地図:赤12

辰巳櫓跡です。東の丸の東南角にあります。長屋を備えた櫓が立っていましたが、宝暦9年(1759)の大火での焼失後は再建されませんでした。石垣は明治の改修により改変されてしまい、ほとんど残っていません。宝暦の大火でたくさんの建物が焼失してしまったんですね。
東の丸北面石垣

東の丸北面石垣です。野面積みの石垣で、城内で最も古い技法が用いられています。金沢城創建時のものと考えられています。この石垣の上が丑寅櫓跡になります。
水の手門跡
城の地図:赤13

水の手門跡です。百間堀に面しています。かつては堅固な枡形門でした。
二の丸北面石垣
城の地図:青4

二の丸北面石垣です。形や大きさをそろえた割り石が積まれ、打ち込みハギの中でも最も完成されたものといわれています。加賀藩の石垣技術者、後藤彦三郎は「城内でも指折りの石垣」と絶賛しています。この写真の奥に菱櫓があります。
裏口門跡
城の地図:赤14

裏口門跡です。
土橋門跡
城の地図:赤15

土橋門跡です。奥には切手門が見えます。
土橋門跡石垣

土橋門跡石垣です。土橋門の土台で、切り込みハギで積まれています。写真中央の六角形の石(亀甲石)は水に親しむ亀を表し、防火の願いが込められています。文化年間の大火でも、この石のおかげで土橋門は焼失を免れたとか。
切手門
城の地図:赤16

切手門です。切手門の内側は数奇屋敷跡です。奥の洋館は旧第六旅団司令部です。
数奇屋敷石垣

数奇屋敷石垣です。数奇屋敷には藩主の側室たちの住まいがありました。石垣は切り込みハギで積まれ、多くの刻印を見ることができます。長方形に加工した石を積んでいるため、レンガ積みのようです。
玉泉院丸庭園に面した石垣
城の地図:赤17

玉泉院丸庭園に面した石垣です。玉泉院丸は金沢城の西に位置しています。玉泉院丸には回遊式の庭園があり、これらの石垣を借景にした造りとなっていました。借景とするため、趣向を凝らした切り込みハギの石垣を見ることができ、普通の石垣と異なった印象を受けます。
色紙短冊積み石垣

玉泉院丸庭園に面した石垣の中でも、この辺りの石垣は特に趣向を凝らしており、色紙短冊積み石垣と呼ばれています。最上部に黒色の石を使ったV字型の石樋を組み込み、落水の背景となる石垣中央には、三つの縦長石を段違いに配置するなど、庭園に面した場所ならではの意匠となっています。
玉泉院丸跡
城の地図:赤18

玉泉院丸跡です。前記した回遊式の庭園がありました。
申酉櫓下石垣

申酉櫓下石垣です。ここでは異なる時期の打ち込みハギの石垣を見ることができます。右側は自然面を残す割り石を積み上げた慶長期の石垣で、もとは石垣の角の部分でした。左側は加工の進んだ石材を用いた寛永頃の石垣です。城郭整備の過程をうかがうことができます。
切り込みハギの断面模型

切り込みハギの断面模型です。金沢城には表面だけしか見えない石垣の断面模型があります。切り込みハギは江戸時代初期(元和期)以降に多用されるようになった技法で、丁寧に加工した切石を隙間なく積んでいます。本丸への入り口など、城の重要な部分の石垣に用いられました。
打ち込みハギの断面模型

打ち込みハギの断面模型です。打ち込みハギは関ヶ原の合戦以降に多用されるようになった技法で、石の表面に出る角や面をたたき、平たくすることで石同士の隙間を減らして積んでいます。初期の野面積みより高く、急な勾配で積むことが可能です。
いもり堀
城の地図:青5

いもり堀です。いもり堀は金沢城の南西を囲む外堀で、江戸時代には幅が広いところで40メートル、深さが10メートルありました。印象深い名前ですが、由来ははっきりしていません。明治時代に埋め当てられ、戦後はテニスコートとして利用されていましたが、平成22年(2010)に復元されました。奥に見える石垣は鯉喉櫓台です。
鯉喉櫓台
城の地図:赤19

鯉喉櫓台(りこうやぐらだい)です。櫓台となっていますが、櫓は建っていなかったと考えられています。明治時代にいもり堀の埋めたてと同時に上部が撤去されましたが、平成10年(1998)からの発掘調査で、埋没していた約10メートルの高さの石垣が確認されました。その残存部に約5メートルの積み増しを行い平成22年(2010)に復元されました。
本丸南面の高石垣

本丸南面の高石垣です。打ち込みハギの石垣で、かつては頂上まで一段で、高さが約22メートルある、城内随一の高石垣でした。明治時代に改変が行われ現在の姿になりました。写真の最も高い石垣の上は、辰巳櫓跡になります。いもり堀沿いには写真のような高石垣が延々と続いています。
地図が表示されない場合は、F5キーでページを更新してください。


より大きな地図で 金沢城 を表示


前の城へ TOP 北陸の城 次の城へ