KemaAkeの全国城めぐり

富山城 とやまじょう
別名 安住城、浮城
形態 平城
築城年 天文12年(1543)
築城者 神保長職(じんぼう ながもと)
主な城主 神保氏、佐々氏、前田氏
所在地旧国名 越中
所在地 富山県富山市本丸1-62
アクセス JR北陸本線、富山駅
↓徒歩(約10分)
富山市郷土博物館(模擬天守)
アクセスのしやすさ ☆☆☆☆☆
概要 ●室町時代
富山城は天文12年(1543)ごろに越中守護代の神保長職が家臣の水越勝重に命じて築城したとされる。神保長職は永禄3年(1560)に上杉謙信により富山城を追われ、その後は上杉氏と一向一揆の間でこの城をめぐって奪い合いが繰り返された。
●安土桃山時代
天正6年(1578)に神保長職の子、神保長住(ながずみ)が織田信長の後ろ盾で富山城に入城した。しかし天正10年(1582)に長住は失脚、替わって佐々成政が富山城主となった。だが成政の統治も長く続かず、天正13年(1585)に豊臣秀吉により富山城は落城、破却された。
●江戸時代
越中一国が前田家に与えられると、前田利長が大改修を行い、隠居城として富山城を復活させた。しかし慶長14年(1609)に建物の主要部が焼失してしまったため、替りに高岡城を築き、富山城には家臣の津田義忠が城代として入城した。
寛永16年(1639)に前田利常の次男、前田利次が10万石で分家し、富山藩が成立、富山城はその居城となった。万治4年(1661)には幕府の許可を得て、富山城を本格的に修復し、合わせて城下町の整備が行われた。以後富山前田氏の居城として明治維新を迎える。
●明治時代以降
明治4年(1871)の廃藩置県により廃城となり、城の建物のほとんどが解体された。また城の周囲の水堀も一部を残して昭和37年までに順次埋め立てられ、本丸と西の丸を残すのみとなった。
昭和29年(1954)に鉄筋コンクリート造りの模擬天守が建てられ、富山郷土博物館として現在に至る。
遺構 普請:石垣、掘、土塁
作事:千歳御門
天守:昭和29年築、鉄筋コンクリート造の模擬天守
登城日 2011/11/12

登城記
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1. 天守
南東から見た天守
城の地図:撮影対象1
南から見た天守
富山城の天守は昭和29年(1954)に鉄筋コンクリートで造られた模擬天守です。富山城に天守が建てられたという記録はなく、建てられている場所も本丸の鉄御門跡の石垣上になります。
外観は彦根城や犬山城などの現存天守を参考に設計され、望楼型の三重四階で、二重二階の小天守が西側に続いています。この模擬天守は戦後の復興天守のさきがけとなり、内部は富山市郷土博物館となっています。
昭和29年築ということで、かなり老朽化が進んでいましたが平成15年(2003)から二年間をかけて耐震改修工事および内装を一新しました。以前は外壁がだいぶ黒ずんでいたようですが、これにより美しい白壁が蘇りました。
天守最上階
西から見た天守
2. 本丸鉄御門跡
本丸鉄御門跡
城の地図:撮影対象2
本丸鉄御門跡の鏡石
天守最上階から見た本丸鉄御門跡
本丸鉄御門は本丸の南に位置し本丸大手となっていた門です。本丸の大手ということで、藩主の力を誇示するための巨大な鏡石が六つ石垣に積まれています。
枡形虎口ではなく食い違い虎口となっています。
3. 本丸搦手門跡
本丸搦手門跡
城の地図:撮影対象3
本丸搦手門は本丸の東に位置しており、門の周りの石垣が現在も残されています。
富山城は主要な門の周りのみに石垣が積まれ、その他の部分は土塁で構成されていました。天守の東面にも石垣がありますが、これは昭和以降に築かれたものです。
4. 松川(旧神通川)
松川(旧神通川)
城の地図:撮影対象4
松川は富山城の北側を流れる川でかつての神通川になります。神通川は大きな川で富山城の北側を守る掘の役割を果たし、川越しに見る富山城は水に浮いたように見え、浮城とも呼ばれました。
富山の街中を大きく東に蛇行していた神通川は、明治時代に水害対策のため蛇行部分を短絡する工事が行われ、旧本流を埋め立て川幅を細くし松川と名を改めました。埋立地には県庁や市役所などの施設が建てられ現在に至ります。
写真集
本丸南面の掘
本丸南面の掘
本丸鉄御門跡前から見た天守
本丸鉄御門跡前から見た天守
天守の鯱
天守の鯱
本丸北東角の石垣
本丸北東角の石垣

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