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地元の城初掲載です。今回は自宅から歩いての登城となります。アクセスには箱根板橋駅から徒歩と書いてありますが、最寄り駅としてはもうひとつ、JR東海道線の早川駅があります。しかし、箱根板橋駅からのルートのほうが、早川を渡ったりと散歩気分が味わえるのでこちらをを掲載しました。石垣山一夜城入口までは農道となっており、周りには段々にミカン畑が広がっています。この農道は舗装されていますが、かなり急で、運動不足の私にはなかなか堪えました。
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この農道には、ところどころに写真の「石垣山に参陣した武将たち」と題した案内板が立っています。私は堀秀政、伊達政宗、宇喜多秀家、徳川家康、羽柴秀次、千利休、淀殿、豊臣秀吉の8人を確認しました。山登りの合間の一休みの良いお供になります。この他にも長曽我部元親や、小早川隆景などそうそうたる面々がはるばる小田原城を囲みにきたのですから、天下統一の総仕上げとしての小田原攻めの重要性がうかがえます。ちなみに私の通っていた中学校の場所には織田信長の次男、織田信雄の陣があったそうです。
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坂道を登り終えると、現東口に到着します。かつての東口外門に当たり、正面には大手門に続く階段がありましたが、幾度もの大地震で石垣は崩れています。ですが、どことなく道の名残は感じられます。江戸時代以降、神奈川県西部を襲った大地震は関東大震災を含め5回あり、これだけ大地震にあっていればこうなってしまうのも仕方がないでしょう。現地案内板によるとここも園路になっているのですが、いかにも危ないので迂回しました。
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東口の左側は南曲輪になります。だいぶ崩れてはいますが、石垣の稜線を追うことができます。
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東口の右側に整備された園路を登ると、二の丸になります。二の丸は本丸と並んで最も広い曲輪になります。伝承によると、馬屋が置かれており、本丸寄りには馬洗い場と呼ばれた湧水がったようです。井戸曲輪に向かう道の横には、櫓台の跡が残っており、他の曲輪にも櫓台の跡が確認されています。
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二の丸から本丸東面の石垣を撮影しました。夕方になってきたので、完全な逆光で写真が暗くなってしまいました。二の丸は広々としており、真冬の寒さの中、キャッチボールをしている子供たちがいました。
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本丸北門です。高台状の張り出しと、掘り込んだ桝形で独特の虎口を形成していました。掘り込んだ桝形は原型を留めていませんが、高台状の張り出しは名残が残っています。この名残から大規模な門であったことが想像できます。
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本丸北門を上ると標高255メートルの本丸が広がっています。本丸からは建物の礎石や、瓦片が発見されており、それなりの建物があったと考えられています。それなりとはいっても、当時の小田原城は中世城郭であり、城の建物にほとんど瓦は使用されていませんでした。北条側の使者が京都に行った際、瓦葺の町並みを見て驚いたという逸話もあるほどで、北条側にとっては驚くに値するものだったのではないでしょうか。
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本丸には展望台が設けられ、小田原市街を見下ろすことができます。真冬で空気も澄んでおり、天気も良かったため遠くまで見渡すことができました。
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前の写真のズームです。写真中央やや下に小田原城の天守が写っています。ここから小田原城天守までの直線距離は約3キロメートル。北条氏時代の小田原城本丸はこれより左側に位置していたため、さらに近かったはずです。まさに小田原城内まるみえで、秀吉がこの山に城を築いた理由がよくわかります。
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天守台跡です。木々が茂り、かつ周りが崩れているため、「これが天守台?」というくらいの広さしかありません。本丸より若干高くなっていることで、天守台らしさは感じられます。ここにどのような天守が建っていたかは全くの謎で、本によっては五層の大規模な天守が描かれていたり、小型の天守が描かれていたりして、想像に任せるしかないようです。私としては、このとき秀吉はすでに大坂城を造っていることから、小さな天守では満足せず、五層の大きな天守を造ったのではないかと想像します。ですが、それだけ大きいと造っている途中に北条側に気付かれてしまいそうですね…
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西曲輪です。西曲輪は秀吉の城の特徴である、山里曲輪的な役割を果たしていたという説があります。山里曲輪とは茶室や庭園を設けた曲輪です。小田原攻めの際、茶会を行ったという記録もあり、このあたりで千利休が茶を立てていたのかもしれません。
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西曲輪の北側にある、天守台のものと思われる崩れた石垣です。
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南曲輪です。ここも崩れた石がゴロゴロしています。
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二の丸の北東には井戸を守るために築かれた井戸曲輪があり、石垣山一夜城で最も見事な石垣が残っています。もともと沢のようになっていた地形を利用し、北側、東側に石垣で壁を築き曲輪としています。井戸は二の丸から25メートルも下がったところにあり、一見すると、井戸を中心に大きな穴を掘ったように見えます。
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井戸を主体として、これほどの規模で曲輪が形成されるのは大変珍しく、中央に立つと周囲の高石垣に圧倒されます。周囲は静かで、草木の音がするのみ…往時の様子を想像するのに最適な場所です。
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井戸曲輪の石垣です。初期の石垣らしく比較的小さな石が、ほとんど整形されずに積まれた、野面積みの石垣です。築城から420年、幾度もの大地震にあいながらも往時の状態をとどめています。築城に際しては西国から穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石工集団が呼ばれたことが記録に残っています。穴太衆は織田信長の安土城の石垣も手がけたことで有名な、石垣造りのプロ集団です。
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井戸曲輪の中央には、この曲輪の存在理由となる井戸があります。井戸としての形は留めていませんが、今でも水を湛えていることに驚きました。
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南曲輪南面の石垣です。、南曲輪の石垣は保存状態が良く、他の場所と比較して、大きい石が使用されているようです。写真左側の道のあたりは、かつては大掘切で、堀を挟んで出曲輪がありました。
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最後は南曲輪北東隅の隅石です。かなり大きな石で、角に加工が加えられているようでした。
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