KemaAkeの全国城めぐり

二条城 にじょうじょう
別名 なし
形態 平城
築城年 慶長6年(1601)
築城者 徳川家康
主な城主 徳川氏
所在地旧国名 山城
所在地 京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
アクセス 京都駅
↓京都市バス、9・50・101系統(約20分)
二条城前
アクセスのしやすさ ☆☆☆☆☆
概要 ●安土桃山時代
二条城は関が原の戦いで勝利した徳川家康が、翌慶長6年(1601)から京都における儀礼用施設として築城に着手した。
●江戸時代
慶長9年(1603)、征夷大将軍となった家康は、完成したばかりの二条城の御殿(現二の丸御殿)で、征夷大将軍祝賀の儀を行なった。このころの城域は現在の二の丸東側に相当していた。 慶長11年(1606)までには二条城で最初の天守が完成している。
慶長16年(1611)、家康は二条城の御殿、虎の間にて豊臣秀吉の遺児、秀頼との会見を行なっている。一説ではこのとき成長した秀頼の姿を見た家康は、徳川家の将来を危ぶみ、豊臣家を滅ぼすことを決意したとも言われる。 慶長19年(1614)、大阪の陣が勃発すると、二条城は大御所となった家康の本営となり、二条城から大阪に向かって出陣をしている。
寛永元年(1624)には後水尾天皇の二条城への行幸が決まり、三代将軍徳川家光はこれに備え城の大拡張を行った。これにより現在の本丸を含めた城域の西側半分が築かれ、現在の形となった。
●幕末
文久2年(1862)、十四代将軍徳川家茂の上洛に備え城の改修が行われた。これは寛永11年(1634)の家光上洛以来、使用されずに荒れ果てていたためである。このとき二の丸御殿はほぼ現在の姿となっている。
慶応3年(1867)、十五代将軍徳川慶喜が二条城大広間にて大政奉還を発表。これにより徳川幕府は約260年の歴史に幕を閉じた。
●明治時代以降
明治時代になると二条城は京都府庁や、陸軍の施設として使用される。明治17年(1884)に宮内省の所管となり「二条離宮」と改称され、 大正天皇即位の大典の饗宴場として二の丸御殿が使用された。
昭和14年(1939)には宮内省より下賜され、以来「元離宮二条城」と呼ばれることになる。
平成6年(1994)、京都の他の寺社仏閣とともに世界遺産に登録された。
遺構 普請:石垣、堀
作事:二の丸御殿、東大手門、北大手門、西南隅櫓、東南隅櫓など
天守:天守台のみ残る
登城日 2012/1/18

感想など
京都の市街地にあるため、バスで行くもよし、地下鉄で行くもよし、タクシーで行くもよしでアクセスのしやすさは満点です。
私のように城に傾倒していない普通の方から見ると、天守がないため”がっかり観光地”のひとつとして数えられることもある二条城ですが、二の丸御殿は一見の価値があります。 金銀に彩られた障壁画は見事で、滅亡後150年がたった今でも、徳川幕府の威光を感じることができます。城というよりも徳川家の京都宮殿といった感じでしょうか。
また、徳川家康の征夷大将軍祝賀の儀、家康と秀頼の会見、後水尾天皇行幸、大政奉還など多くの歴史を紡いできた舞台でもあります。 特に二の丸御殿虎の虎の間では、約400年前に家康、秀頼、加藤清正のそうそうたる面々がそこに座っていたと思うと感じ入るものがありました。
難点としては、世界的観光地であるためとにかく人が多いことでしょうか。私は幸いにも世間様が仕事のときにまとまった休みを取り登城することができました。 そのため以前休日に来た時よりもかなり人は少なかったです。それでも他の城に休日に行った時と同じくらいの人は居ますが…

登城記
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。各写真の下の番号は城の地図と対応しています。赤い番号は写真の撮影対象の場所を示し、青い番号は写真の撮影場所を示します。
1. 東大手門
東大手門正面
城の地図:撮影対象1
東大手門の潜戸
東大手門の電灯
東大手門と番所
東大手門は二条城の正門にあたる渡櫓門です。寛永3年(1626)の行幸の際も、後水尾天皇は東大手門から入城しています。この時は渡櫓門を単層の高麗門に造り変えていたようです。 これは門の上に人が乗る渡櫓門では、下を通る天皇に失礼に当たると気遣ったものと考えれています。この時だけ門を造り変えていたことから、天皇行幸の重要性と幕府の意気込みを感じることができます。
また、離宮時代の名残として洋風の電灯も残されています。
城の正門でありながら、枡形を設けず厳しい造りになっていないのは、城の北東に位置する京都御所に対しての配慮からでしょうか。
2. 番所
番所
城の地図:撮影対象2
番所の瓦
東大手門の脇には番所があります。徳川将軍不在時(最もこの状態が普通だった)は幕府から派遣された「二条在番」と呼ばれる武士たちが、城の宿直・警備に当たっていました。 在番は一組50人で構成され、二条城には二組が常駐し、毎年4月に他の組と交代していました。この番所は、在番の詰所で寛文3年(1663)に建てられたもので、現存する城郭の番所は全国的にも少なく貴重な建物です。 他には掛川城に番所が残っています。
3. 唐門
唐門と土塀
城の地図:撮影対象3
唐門正面
唐門南側の彫刻
唐門は二の丸御殿の正門で、まっすぐ進むと二の丸御殿の玄関である車寄に続いています。檜皮葺の四脚門で、慶長8年(1603)に建造され、寛永3年(1626)の改修により現在の姿になりました。
絢爛豪華という言葉の見本のような門で、表側には龍や虎、側面には獅子、裏面には仙人と鳳凰など表側も裏側も所狭しと極彩色の彫刻が施されています。門と言うよりは大きな工芸品のようだと言われるのも納得です。
龍の彫刻
虎の彫刻
唐門北側の彫刻
4. 二の丸御殿
二の丸御殿正面
城の地図:撮影対象4
二の丸御殿の車寄唐破風
二条城の二の丸御殿は武家風書院造の代表的な御殿建築で、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の六棟が南東から北西にかけて並んでいます。部屋数は33、800畳余りの広さがあります。
内部は部屋の目的に応じて狩野派の手による様々な障壁画で飾られています。 欄間の彫刻や長押、釘隠しなども金飾鮮やかで豪華そのものです。唐門も含めて、徳川家が並々ならぬ力を入れて「式典の城」を築いたことが伺えます。
現在の二の丸御殿は、二条城創建時の御殿を寛永期に改造したものになります。このとき大広間は上段・中段・下段の三室構成から、上段・下段の二室構成に改められたようです。また城自体も、大御所である徳川秀忠と、将軍家光が同時に在城できるように本丸御殿が築かれるなどの大修築が行われています。 このように二条城が最も整備されたのは寛永期であり、二の丸御殿、本丸御殿を始めとした殿舎、天皇の行幸御殿、五重の層塔型天守、各所に隅櫓などが立ち並んでいました。 しかし、その後多くの殿舎が仙洞御所などに移築され、幾度かの火災のため、二の丸御殿以外の建物の多くが消失するなど、寛永期以降はずいぶんと衰退したようです。
そのため幕末の将軍家茂上洛時はだいぶ荒れ果てていたようで、二の丸御殿の修理や、本丸仮御殿の造営などが行われました。
二の丸御殿の車寄彫刻
二の丸御殿大広間の入母屋
二の丸庭園から見た二の丸御殿
5. 本丸櫓門と廊下橋
本丸櫓門正面
城の地図:撮影対象5
本丸櫓門と廊下橋
二条城の二の丸と本丸はこの廊下橋で接続されています。かつては橋の上に二階廊下が造られた二層構造で、この二階廊下を通れば一度も外に出ず、二の丸と本丸を行き来することができました。
廊下橋は後水尾天皇の行幸に合わせて造られたもので、天皇が一度も外に出ることなく本丸に入ることが可能となりました。また、本丸と二の丸に分かれて宿泊する、大御所秀忠と将軍家光の往来を配慮したものでもあったようです。
廊下橋は貞享4年(1687)に撤去されましたが、幸いな事にすべての部材が二条城内に保管されており、当時の姿そのままに再建することが可能なようです。是非とも再建していただきたいものです。
本丸から見た本丸櫓門
6. 本丸御殿
本丸御殿
城の地図:撮影対象6
家光による寛永の大拡張で造られた本丸御殿は、天明8年(1788)に京都市中を襲った大火により消失しています。現在の本丸御殿は京都御苑内にあった旧桂離宮御殿を明治27年(1894)に移築したものです。
この建物は弘化4年(1847)頃に建てられたもので、宮御殿として完全な形で残る貴重なもので、重要文化財に指定されています。残念ながら内部は非公開です。
7. 天守台
本丸から見た天守台
城の地図:撮影対象7
西橋からみた天守台
本丸の南西角には天守台があります。高さは約21メートルほどです。寛永の大拡張の際、徳川家康の造った伏見城天守を移築し、五重五階の層塔型天守が造られました。また、天守台の天端石には鉄砲狭間が見られることから、穴蔵が埋められていることがわかります。
建築にあたっては、「大阪城より豪華に」との指示が出ていたようで、天守内部はこの頃には珍しく、障壁画などで飾られていたようです。これも後水尾天皇の行幸を意識したものでしょう。ただ面積はあまり広くないため、江戸城天守や大阪城天守のような巨大な天守ではなかったようです。
8. 旧二条城の石垣
旧二条城の石垣
城の地図:撮影対象8
二の丸の片隅、本丸から西橋を渡ったほぼ正面に旧二条城の石垣が移築展示されています。旧二条城は織田信長が室町幕府十五代将軍足利義昭のために築いた城で、現在の二条城の北東に位置していました。旧二条城は義昭の御所に当たるものでしたが、 最初期の天守を持つ城で、城郭史において重要な城です。残念なことに本格的な発掘は行われていません。
この石垣は地下鉄烏丸線の工事で発見されたものです。石垣は犬走りをはさんで上下二段に分れています。石材も石垣の建築技術が発達した二条城と異なり、ほとんど加工されていない小さな自然石がそのまま使用されているようです。 また、石垣には石仏、板碑、礎石も使われています。
二条城内でも目立たない場所にあるのでご注意を。
9. 本丸西門
本丸西門
城の地図:撮影対象9
10. 土蔵
土蔵
城の地図:撮影対象10
11. 北中仕切門
北中仕切門
城の地図:撮影対象11
12. 南中仕切門
南中仕切門
城の地図:撮影対象12
13. 二の丸御殿台所の土蔵
二の丸御殿台所の土蔵1
城の地図:撮影対象13
二の丸御殿台所の土蔵2
14. 西大手門
西大手門
城の地図:撮影対象14
御所の反対側に当たる西大手門は、東大手門、北大手門と異なり枡形を形成しています。
15. 北大手門
北大手門
城の地図:撮影対象15
16. 西南隅櫓
西南隅櫓
城の地図:撮影対象16
17. 外堀の石垣
外堀の石垣
18. 南門
南門
城の地図:撮影対象17
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