KemaAkeの全国城めぐり
小諸城
こもろじょう
別名酔月城、白鶴城、穴城、鍋蓋城 三の門
形態平山城
築城年天文23年(1554)、慶長末期(1614-15)
築城者武田信玄、仙石久秀
主な城主武田氏、仙石氏、徳川氏、松平氏、青山氏、酒井氏、西尾氏、石川氏、牧野氏
所在地旧国名信濃
所在地長野県小諸市丁311
アクセス しなの鉄道小諸駅
↓徒歩(約5分)
三の門または大手門
アクセスのしやすさ☆☆☆☆☆
概要 武田信玄の軍師、山本勘助が拡張整備を行った城。城が城下町より低い位置にあり別名「穴城」とも「鍋蓋城」と呼ばれる。
年表
●室町時代以前
平安時代末期、木曾義仲の部将、小室太郎光兼が、現在の城地の東側に館を築く。
鎌倉時代、大井光為が鍋蓋城の出城として、現在の二の丸に乙女城を築く。
●戦国時代
天文23年(1554)、武田信玄、乙女城を攻略。小諸城の築城を行う。
●安土桃山時代
天正10年(1582)、織田信長により武田氏滅亡。小諸城に滝川一益が入る。本能寺の変後、徳川氏が信濃を支配、徳川氏の城となる。
天正18年(1590)、小田原攻めの功績により、仙石久秀が五万石で小諸城に入る。仙石氏により近世城郭化が行われる。
●江戸時代
元和8年(1622)、仙石忠政、信濃上田に転封となる。以後江戸時代中期まで松平氏、青山氏、酒井氏が城主となる。
元禄15年(1702)、牧野康重が小諸城に入る。以後明治維新まで、牧野氏が城主を務める。
●明治時代以降
明治13年(1880)、本丸に懐古神社を創建し、城地を懐古園とする。
遺構 普請:石垣、堀
作事:大手門、三の門
天守:なし
案内図など 城内案内図(1590x1320)
縄張図(古絵図)(2000x1450)
登城日2012/11/4
感想など 小諸城の第一印象は、しなの鉄道の車窓から見た三の門です。そのあまりの近さに驚かされます。 それもそのはず、三の門はしなの鉄道線路の地下道出入り口の目の前にあるのです。 三の門の写真から私が想像していたのは、長い小路の突き当りに瀟洒な三の門が建っているイメージでした。 地下道の目の前にあるのを見て、正直なところ少しがっかりしました。 また、紅葉シーズンであったため、想像以上の人の多さに驚きました。桜の名所でもあるため、春の人出も相当なものでしょう。
小諸城は戦国時代に武田信玄の軍師である山本勘助と武田家きっての築城名人、馬場信房の手によって築かれた城です。 浅間山の田切地形を匠に利用した巨大な空堀と、城の中心部へ向かうほど標高が低くなっていくのが特徴です。 この特徴から別名「穴城」とも呼ばれています。 三の門の前に立つと、周囲を崖に囲まれ、門の向こうへ向かって下り坂になっているのがはっきりとわかります。 また、仙石氏の時代に整備された野面積みの石垣が数多く残されているのが印象的です。基本は土造りで、主要部のみ石垣 なのかと思いきや、かなりの部分が石垣になっています。織豊系の城らしく石垣は野面積みで、縄張りの輪郭も曲線的になっています。
登城記 各写真は大きな写真にリンクしています。各写真の下の番号は城の地図と対応しています。赤い番号は写真の撮影対象の場所を示し、青い番号は写真の撮影場所を示します。
1. 大手門
大手門正面 撮影対象1
北西から見た大手門
大手門扉
大手門礎石
大手門裏面
大手門鯱
三の丸跡石垣
大手門内部
大手門は小諸城の正門で、三の丸北側に位置し、四の門とも呼ばれていました。 慶長17年(1612)に築かれた、仙石氏時代の建物です。
一見すると石垣の上に櫓を渡した渡櫓門のように見えますが、石垣と門が一体化していない楼門となっています。 柱を外に見せる真壁造で、格子出窓を設けるなど、素朴ながらも趣きのある建物で、内部も居館形式となっています。 また、当時このあたりではまだ珍しかった瓦葺きの建物であったため、「瓦門」とも呼ばれていました。
明治維新後は民間に払いげられ、私塾や料亭として使用されていました。そのため、かなり改変がされていましたが、 平成3年(1991)に小諸市に寄付され、平成20年(2008)に解体修理を完了し、江戸時代の姿に復元されました。
このような華美な装飾をはぶいた質実剛健な建築は、青森県の弘前城の諸門とともに楼門の現存例として非常に貴重なものです。
左右に残る石垣は三の丸の石垣で、現在はこの大手門周辺を覗いて、ほとんどが失われています。
2. 三の門
三の門正面1 撮影対象2
三の門正面2
懐古園の大扁額
三の門石垣
三の門潜戸
三の門側面
三の門は二の丸の東側に位置し、仙石久秀により大手門と同じ時期に築かれました。 大手門からは三の丸などの曲輪に囲まれた細い通路を進み、右に曲がった突き当りに位置していました。 現在この通路は完全に市街地となっていますが、残っていればさぞ良い雰囲気だったことでしょう。
仙石久秀が築いた三の門は入母屋造り檜皮葺の櫓門でしたが、寛保2年(1742)の大洪水により流出し、現在残るのは明和2年(1765)に再建された門です。 真壁造、格子出窓を全面に配置し、寄棟造りの屋根と相まって、非常に雅やかな雰囲気の門となっています。内部は大手門と同様、居館形式となっています。 正面に掲げられた大扁額は、徳川宗家16代当主の徳川家達によるもので、明治維新後、懐古神社創建時に掲げられたものです。
最大の特徴は屋根の形で、他の城では城門の屋根はほとんどが入母屋造か切妻造がですが、三の門は寄棟造となっています。 このような寄棟造の城門というのは他に例がないのではないでしょうか。
3. 二の門跡
二の門跡正面 撮影対象3
二の門跡裏面
三の門の先はしばらくするとゆるやかな登り坂になっており、その突き当りに二の門がありました。 檜皮葺の渡櫓門で、大手門に匹敵する規模だったようです。
4. 二の丸跡
二の丸跡入り口 撮影対象4
二の丸跡入り口(正面)と南丸跡石垣(右)
二の門の右側は二の丸跡になります。小諸城築城以前はこのあたりに前身である乙女城がありました。 関が原の戦いの際には、中山道を進む徳川秀忠軍がここに本陣を置き、上田城攻略の指揮をとりました。
現在は木々が生い茂っていますが、かつては城内でも有数の眺めの良い曲輪で日本アルプスを見渡すことができました。 そのためか要人を招く場所になっていたようです。
5. 黒門橋と黒門跡
黒門橋 撮影対象5
黒門跡礎石
二の門跡から北の丸と南の丸の間の通路を進むと、黒門橋があります。 黒門橋は本丸とその他の曲輪を仕切る空堀に架けられた橋です。 有事の際には、内側に橋を引き込むことができる算盤橋という形式であったという伝承があります。 黒門橋の先には黒門がありました。棟門あるいは薬医門の簡素な門だったようです。 この先通路は二手に別れ、左に進むと本丸上段へ、右に進むと天守台下を経由して馬場に至ります。
6. 本丸跡
本丸北東隅の石垣
本丸北面の石垣
北西から見た天守台 撮影対象6
紅葉と天守台
南西から見た天守台
天守台入り口
天守跡
懐古神社 撮影対象7
小諸城の本丸は田切地形の特徴である深い谷に囲まれています。 本丸は本丸御殿と天守台のある上段、馬場や焔硝蔵がある下段の二段に分かれており、周囲の石垣がほぼ残されています。 石垣は野面積みで、隅は算木積を意識していますが、まだ完成形には至っていません。 かえってそれが苔むした石垣と相まって古風な趣を醸し出しています。 また、地形の制約もあるのでしょうが、織豊系城郭の特徴である曲線的な縄張りとなっています。

●天守台
天守台は本丸上段の北西隅に位置しており、本丸上段から張り出したよくある形式になっています。 仙石久秀が三重天守を築きましたが、寛永3年(1626)に落雷により焼失、その後再建されることはありませんでした。 天守跡には礎石らしき石材は残されていませんが、地中に埋まっているのか撤去されたのかはわかりません。

●懐古神社
本丸上段の本丸御殿跡には懐古神社があります。 明治13年(1881)に小諸城跡を懐古園として整備した際に建立されました。 小諸城を最後に収めた牧野氏の歴代藩主と、城内の鎮守神として祀られていた天満宮・火魂社を合祀しています。
7. 水の手不明御門跡
水の手不明御門跡 撮影対象8
水の手展望台からの眺め
本丸下段の北西隅には水の手不明門跡があります。この門は小諸城の搦手門にあたり、間口2.7メートルの門がありました。 搦手門のとなり、尾根の突端には一見すると櫓台のような小さな石垣に囲まれた高台がありますが、ここは搦手防衛のための曲輪だったようです。 現在、この曲輪の上には水の手展望台が設けられ、眼下に千曲川の流れを望むことができます。 ここから千曲川を見下ろすと、小諸城と城下町が河岸段丘上の高所に築かれたこと、そして後ろ堅固の縄張りであることを実感出来ます。
8. 空堀
木谷 撮影対象9
北谷 撮影対象10
小諸城は河岸段丘上に築かれており、周囲を多くの谷に囲まれています。北谷と南谷の間が城の中心部となっています。 これらの谷は深く急峻で、非常に堅固な空堀となっています。崖の法面には加工が施されており、崖崩れ等に備えていたようです。 現在、北谷には酔月橋、木谷には白鶴橋が架けられています。 木谷の向こう側にはかつて御城米蔵がありましたが、現在は動物園になっています。
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