KemaAkeの全国城めぐり

甲府城 こうふじょう
別名 舞鶴城
形態 平山城
築城年 文禄・慶長年間(1590年代))
築城者 浅野長政
主な城主 浅野氏、徳川氏、柳沢氏
所在地旧国名 甲斐
所在地 山梨県甲府市丸の内1-5-4
アクセス ●徒歩によるアクセス
JR中央本線 甲府駅から徒歩5分
アクセスレベル ●徒歩でのアクセスレベル
☆☆☆☆☆
概要 甲府城は武田氏滅亡後に甲斐を支配した徳川家康が、躑躅ヶ崎館に変わる甲斐の拠点として平岩親吉に命じて築城を始めた。天正18年(1590年)、完成を前に豊臣秀吉が天下統一を果たし、徳川家康が関東に転封となると、豊臣秀吉の甥である羽柴秀勝をはじめ、加藤光泰、浅野長政ら豊臣家臣が次々と入城し築城が続けられ、浅野長政・幸長父子によって完成をみた。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後は再び徳川氏の城となり、慶長8年(1603年)には家康の九男である徳川義直が城主となり江戸に最も近い親藩の城となりました。その後、宝永元年までは、徳川忠長(二第将軍秀忠の二男)、徳川綱重(三代将軍家光の三男)などの徳川家直系が城主となり、その後は幕府側用人として有名な柳沢吉保が城主となる。享保9年(1705年)に柳沢氏が大和郡山へ転封となると、甲斐一国は幕府領となり幕末を迎える。豊臣時代は関東の徳川家康への牽制として、徳川時代には関東を守る要として重要な役割を果たした。戊辰戦争時には近藤勇率いる新撰組が甲府確保のため甲府城へ進軍するが、薩長軍が先に甲府を占領したことで、江戸幕府の組織的防衛が困難となり、徳川家の降伏につながったとも言われる。現在は周辺の市街化により往時の三分の一ほどの規模になっている。
城内案内図など 城内案内図
登城日 2008/10/12
撮影カメラ RICOH Caplio R6
みどころ 関東周辺では珍しい見事な高石垣郡

登城記
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山手御門1

現在、甲府城跡は中央本線により南北に分断されており、甲府駅のホームから石垣を見ることができます。かつて甲府城には南側の追手御門、北側の山手御門、西側の柳御門の三つの門があり、そのうち北側の山手御門が平成19(2007年)に発掘調査に基づき野面積みの石垣と建物が木造復元されました。山手御門は高麗門と渡櫓門で枡形を形成しています。写真は山手御門外側の高麗門で、幅約5メートル、高さ約6メートルの大きさです。
山手御門2

山手御門内側の渡櫓門です。幅約14メートル、高さ約11メートルの大きさです。
山手御門と稲荷櫓、天守台

山手御門と中央本線の向こう側にある稲荷櫓、天守台を一緒に撮影しました。
稲荷櫓1

山手御門から中央線を挟んで南側は石垣が残り、舞鶴城公園として整備されています。平成16年(2004年)に稲荷曲輪にあった稲荷櫓が木造復元されました。稲荷櫓を載せる石垣は高さ約14メートル、櫓の高さは約11メートルあり、下から見上げると結構な高さがあります。このとき石垣も合わせて修復されたましたが、痛みが激しく表面に見える石材はほとんど修復対象となりました。痛んで割れた石材は裏栗石などに再利用されています。稲荷櫓の内部は甲府城から出土した瓦や甲府城関係の資料を展示しています。
稲荷櫓2

同じく稲荷櫓です。
天守台

天守台です。実際に天守が建っていたかは不明です。少なくとも江戸時代を通して天守はなかったため、建っていたとしたらそれ以前の織豊系の古い形式の天守が建っていたのではないかと言われています。
天守台の矢穴

天守台にあった矢穴です。矢穴は大きな石を割るために開けた穴のことで、ここに楔を打ちこんで、石を割りました。
鉄門跡

天守曲輪と本丸をつなぐ鉄門跡です。大きな石材が使用されており、築城当時の礎石が残されています。ここでひとつ疑問が…普通、天守曲輪は本丸より内側にありそこに天守台があるはずなのに、甲府城案内図を見ると天守曲輪の内側に本丸がありそこに天守台があります。なぜこのような構造になったのでしょうか?
稲荷曲輪門

稲荷曲輪と鍛治曲輪をつなぐ稲荷曲輪門です。甲府城は享保12年(1727年)に大火にあい、多くの建物を焼失しましたが、稲荷曲輪門は焼けずに明治初年まで残っていました。平成11年(1999年)に復元されました。写真のとおり、大変窮屈な場所に建っており、軍勢を通りにくくするという城門本来の役割を十分果たしています。
石切場跡

鍛治曲輪にある石切場跡です。甲府城の石垣のための石材を切り出していました。もともと甲府城のある丘は一条小山と呼ばれており、この山を整形して城が築かれました。この石切場だけで甲府城の全ての石材をまかなったとは思えませんが、石材を現地調達していたとは驚きです。
鍛治曲輪から天守曲輪、本丸を望む

鍛治曲輪から天守曲輪、本丸を望む。三重になった石垣が見事です。
一の堀

一の堀です。かつて一の堀は甲府城中央の内城部分をぐるっと囲んでいましたが、現在は南側のこの部分が残るのみです。
鍛治曲輪門

鍛治曲輪と楽屋曲輪をつなぐ鍛治曲輪門です。明治のはじめまで残っていました。平成8年(1996年)に復元されました。楽屋曲輪には現在山梨県庁が建っています。
内松陰門

屋形曲輪と二の丸のつなぐ内松陰門です。明治の初めまで残っていました。平成11年(1999年)に復元されました。

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