佐賀城 さがじょう |
別名 | なし |
形態 | 平城 |
築城年 | 慶長13年(1608) |
築城者 | 鍋島直茂・勝茂 |
主な城主 | 鍋島氏 |
所在地旧国名 | 肥前 |
所在地 | 佐賀県佐賀市城内2-18-1 |
アクセス |
●徒歩によるアクセス JR長崎本線、佐賀駅下車。 佐賀駅バスセンター3番のりばから市営バス【6】佐賀城跡線に乗車、約10分で佐賀城跡バス停に到着。 |
アクセスレベル |
●徒歩でのアクセスレベル ☆☆☆☆☆ |
概要 |
●安土桃山時代 佐賀城はもとも村中城と呼ばれ、戦国時代後期の九州三大勢力の一つ、龍造寺隆信の居城であった。天正12年(1584年)に隆信が島津・有馬連合軍に敗れ戦死すると、家臣の鍋島直茂が徐々に龍造寺家の実権を握るようになる。このころから直茂は村中城の改修を考えていたが、主家に憚り、計画は実施されなかった。 ●江戸時代 徳川幕府成立後、実施的な佐賀藩主となっていた直茂は慶長13年(1608)から村中城の修築工事に取り掛かる。慶長16年(1611)に修築工事は完成、城名を佐賀城と改める。この修築工事により広大な水堀が造られ、内堀の幅は80メートルにも及んだ。各所に石垣が築かれ、五重天守が建てられるなど、近世城郭として整備された。 江戸時代を通して幾度かの大火に見舞われ、享保11年(1726)の火災では、天守を含めた本丸の建物のほとんどが消失した。そのため新たに二の丸に御殿を築き、二の丸が藩政の中心となった。しかし天保6年(1835)の火災で二の丸が焼失、再び本丸に御殿を築いた。現存する鯱の門はこのとき築かれたものである。 ●明治時代以降 明治7年の(1874)佐賀の乱では、江藤新平を中心とした反乱軍に一時占拠された。その後、本丸御殿は裁判所などとして使用されていたが、御座間をのぞいて大正9年(1920)ごろに解体された。城内には佐賀県庁などの公共施設が建てられた。 ●戦後 平成16年(2004)、本丸御殿を木造復元し佐賀城本丸歴史館として一般に公開。 |
遺構 |
普請:石垣、土塁、堀、 作事:鯱の門と続き櫓、御座間 天守:天守台のみ残る |
登城日 | 2011/08/09 |
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1. 鯱の門 |
2. 本丸御殿外観1 |
3. 本丸御殿外観2 |
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御座の間から見た屯之間、外御書院、御料理間です。左の切妻造りの建物が屯之間、中央の奥まった建物が外御書院、左側の建物が御料理間です。かつては屯之間の右側に長局や請役所など多くの建物があり、現在、建物遺構の一部を平面表示しています。 |
4. 本丸御殿内部1 |
5. 本丸御殿内部2 - 御座間 |
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御座間は本丸御殿の中で唯一現存する建物で、藩主鍋島直正の居室でした。昭和33年(1958)に近くの大木公園に移築され、公民館として使用されていましたが、本丸御殿の復元にあわせてもとの場所に再移築されました。 最移築にあたっては、公民館として活用するために改造された部分を、建設当時の姿に忠実に復元しています。そのため所々に公民館時代の名残として穴や傷の跡などが残っています。 |
6. 南西隅櫓跡 |
城の地図: |
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本丸の南西隅には櫓台が復元されています。しかし実際に櫓は建てらていなかったようです。石垣は切込接ぎで、五角形の切石を組み合わせた亀甲乱積という手法で積まれています。 櫓台に登ると、幅70メートルの内堀や、本丸を囲む土塁を見ることができます。本丸を囲む西側の土塁は、外側のみ石垣が積まれ、内側は土塁となっています。佐賀城は総石垣の城ではなく、主要部以外は土塁造りの城でした。 |
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7. 天守台 |
城の地図: |
本丸北西隅には天守台があります。慶長14年(1609)に建てられた五層の層塔型天守が、享保11年(1726)の消失までそびえていました。その後天守は再建されず現在に至ります。この天守台は特殊な構造となっており、本丸に入口を設けず、二の丸から入るようになっていました。 |
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