KemaAkeの全国城めぐり

松山城 まつやまじょう
別名 勝山城、金亀城
形態 平山城
築城年 慶長7年(1602年)
築城者 加藤嘉明
主な城主 加藤氏、蒲生氏、松平氏
所在地旧国名 伊予
所在地 愛媛県松山市丸の内1丁目
アクセス ●徒歩によるアクセス
JR予讃線 松山駅から徒歩45分(天守閣まで) 山の入り口までは徒歩20分
アクセスレベル ●徒歩でのアクセスレベル
☆☆☆☆
概要 松山城の築城者は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に従軍し、戦功により伊予20万石を与えられた加藤嘉明である。慶長7年(1602年)に伊予正木(現愛媛県松前町)から道後平野の中央にある勝山に城郭を移すため工事に着手した。翌慶長8年(1603年)に嘉明は伊予正木から勝山に移り、新たに松山という名称が付けられ、以後勝山の城は松山城と呼ばれることになる。その後も工事は続けられ寛永4年(1627年)に一応の完成をみた。当時の天主は五重で威容を誇っていたと伝えられる。しかし工事が完成する直前の寛永4年(1627年)2月に嘉明は会津へ転封されてしまい、その後、蒲生氏郷の孫忠知が入国するが、寛永11年(1634年)に病没し、嫡子がいないため蒲生氏は断絶となる。その後寛永12年(1635年)に松平定行が15万石で伊予に封じられ以後松平氏が明治維新まで城を治めた。
登城日 2009/05/07
撮影カメラ RICOH R10
みどころ 天守閣を含む、21棟にも及ぶ重要文化財。特に天主群は比較的新しい建物でありながら、古風な造りをしており面白いです。

登城記
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二之丸史跡庭園と本丸

大洲城を後にして、午後1時過ぎにJR松山駅に到着しました。駅前の通りを真っ直ぐ進むと城山に突き当たります。松山の街はJR松山駅前より、お城の近くにある伊予鉄道の松山市駅前のほうが賑やかで、今日の宿も松山市駅の近くにあります。例のごとく荷物をホテルに預けていざ城(山登り)へ。写真は三の丸にある愛媛県美術館の前から撮影しました。山麓にある多門櫓は松山城二之丸史跡庭園のもので、向こう側が二ノ丸になります。山の上は左から乾櫓、天守閣群、馬具櫓、太鼓櫓です。
道沿いの石垣1

ここからは城山の山登りになります。今回は県庁裏登城道から登ります。坂道の途中いたるところに写真のような石垣があります。ちなみに先ほどご紹介した松山城二之丸史跡庭園は時間の都合上見学することができませんでした。残念。やはり松山城クラスのお城となると丸一日見学時間がほしいところです。
道沿いの石垣2

同じく道沿いの石垣。
揚木戸門跡

坂道を登り始めて15分ほどでロープウェイ乗り場がある長者ヶ平に到着。さらに5分ほど登ると揚木戸門跡に出ます。ここからが本丸南腰郭になります。揚木戸門は慶長年間、松山城創建のころ門があった場所で、西の大手門ともに大手の守りを固めていました。ここでは右側の石垣の高さに驚きました。
揚木戸門跡手前から隠門続き櫓を見上げる

揚木戸門跡手前から高石垣の上にある隠門続櫓を撮影。櫓と比較することで石垣の高さがおわかりいただけると思います。石垣は打込みハギで積まれています。この積み方は関ヶ原の戦い以降に盛んに用いられるようになったもので、野面積みより高く、急な石垣を積むことができます。松山城は関ヶ原の戦いの後に築城が始まったので、この打込みハギが標準規格となっています。
大手門跡から見上げる

大手門跡から撮影しました。左から太鼓櫓、戸無門、その上が筒井門西続櫓です。
大手門跡から天守閣を望む

大手門跡から中ノ門跡への坂道から撮影。松山城のパンフレットにも載っているアングルです。中央に天守閣、石垣の上の二階櫓は太鼓櫓です。
戸無門

戸無門です。本丸大手を固める重要な門です。慶長年間に創建された高麗門で昭和10年(1935年)に国宝に指定されましたが、法改正により重要文化財となりました。重要な門らしいのですが、名前が示すとおり昔から戸が無かったようで、扉を取り付けた痕跡もありません。重要な門なのに扉が無いとは…不思議です。
戸無門の瓦

戸無門の瓦です。苔むした(?)瓦が良い雰囲気です。
筒井門

戸無門を過ぎるとすぐ筒井門があります。本丸大手の正面という重要ポジションの守りを担当しています。加藤嘉明による築城時に元の居城であった正木城から移されたものと伝えられています。昭和15年(1940年)に国宝に指定されましたが、昭和24年(1949年)に火災により消失。現在の門は昭和46年(1971年)に古い資料に基づき復元したものです。
隠門

筒井門と並んで隠門(かくれもん)があります。筒井門とともに本丸大手の正面を守り、さらに筒井門の側面防御を行う門です。慶長年間の建築物といわれ松山城の櫓門の中では最も古い時代のものになります。昭和15年(1940年)に国宝に指定されましたが、昭和25年(1950年)に法改正により重要文化財となりました。
隠門と筒井門を内側から見る

筒井門と隠門を内側から撮影。左側が筒井門、右側が隠門となります。隠門上部の櫓は隠門続櫓で重要文化財になっています。この隠門続櫓も一度国宝に指定されていますが法改正により重要文化財となりました。
太鼓門

筒井門と隠門の次は太鼓門です。太鼓櫓から連続して、塀と櫓でつながっており筒井門と隠門を突破した敵に備えています。昭和15年(1940年)に国宝に指定されましたが戦災により焼失。昭和47年(1972年)に古い資料に基づいて復元されました。
内側から見た太鼓門

内側から見た太鼓門です。
馬具櫓

太鼓門の内側が松山城の本丸になります。本丸にはこれまでの櫓とは雰囲気が違う櫓があります。馬具櫓です。見てのとおり鉄筋コンクリート製で、スピーカも付いておりちょっと浮いています。松山城唯一の鉄筋コンクリート製の復元櫓です。戦災で焼失するまでは国宝だったそうです。
本丸から見た天守閣群

本丸は長細い形をしており太鼓門から見て奥に天主群があります。天主群が立っている石垣の上を本壇と呼んでいます。写真右から天守閣、中央の二階櫓が小天主、木に隠れていますが、左の二階櫓が南隅櫓になります。小天主と南隅櫓以外は全て重要文化財です。松山城の建物の多くは屋根が直線で造られていることが特徴です。
天守閣のアップ

天守閣のアップです。右から一ノ門南櫓、天守閣、小天主です。一ノ門南櫓は重要文化財に指定されています。
一ノ門

一ノ門です。扉つきの高麗門で、本壇への入り口に当たるので一ノ門と呼ばれています。この門を攻めると小天主をはじめとした三方から射撃されることになります。天明4年(1784年)に天守閣とともに焼失し、1786年(天明6年)に再建されました。一度国宝に指定されていますが、法改正により重要文化財になっています。
内側から見た一ノ門

一ノ門を内側から撮影しました。奥にあるのが小天主です。
二ノ門

一ノ門の次は二ノ門です。薬医門形式の門で、一ノ門と同じく天守閣をはじめ三方から射撃されることになります。一ノ門と同じく天守閣とともに焼失後、再建されました。例のごとく、一度国宝に指定されましたが、法改正により重要文化財となりました。
二ノ門の小さい扉

門左側の小さな扉のアップです。さすがに年季が入っており板の隙間から向こう側が見えています。
三ノ門

二ノ門の次は三ノ門です。高麗門形式の門で、一ノ門と同じく天守閣とともに焼失後、再建されました。やはりこの門も一度国宝に指定されましたが、法改正により重要文化財になっています。なお、松山城に現存する建物のほとんどが一度国宝に指定された後、法改正により重要文化財に格下げになっています。重要文化財でも十分貴重ですが、元々国宝だったと聞くと少し残念です。松山城には他にも筋鉄門、仕切門、竹紫門など多くの門があります。
中庭から見た小天守

三ノ門、筋鉄門を過ぎると、天守閣、小天主、隅櫓それらをつなぐ渡櫓に囲まれた中庭に出ます。写真は小天主で、二層二階の櫓です。松山城のほかの櫓と異なり、二層目が下見板張りでないのが特徴です。一ノ門と同じく、天守閣とともに焼失後、再建されましたが、昭和8年(1933年)放火により再び焼失。昭和43年(1968年)に復元されました。しかし、放火で焼失とは…実にもったいないです。
中庭から見た南隅櫓

南隅櫓です。
中庭から見た北隅櫓

北隅櫓です。南隅櫓と北隅櫓はどちらも二層二階の櫓で、二ノ丸、三ノ丸の監視を行っていました。この二つの櫓も一ノ門と同じく天守閣とともに焼失後、再建されましたが、昭和8年(1933年)放火により小天守閣とともに再び焼失しました。このとき天守閣が焼失を免れたのは不幸中の幸いでした。天災ならともかく放火ではやりきれないですから…
天守閣群への玄関

天守閣群への玄関になります。今は通行止めになっています。お殿様が松平氏なので瓦に三つ葉葵が使われています。三つ葉葵があるお城は現存12天守のある城では松山城だけです。
北隅櫓二階から天守閣を見る

北隅櫓二階から天守閣を撮影。天守閣は三層三回の層塔型で黒船来航の翌年に再建された江戸時代最後の完全な城郭建築です。黒船来航が嘉永6年(1853年)なので、約160年前の建物ということで、比較的新しいです。蒸気船が太平洋を走っていた時代ですからね。ですが非常に古風に感じるのは、寛永16年(1639年)に建てられた天守閣を忠実に再現したからでしょうか?
北隅櫓二階から乾櫓方面を見る

北隅櫓二階から乾櫓方面を撮影。右から野原櫓、乾櫓、乾門です。こちら側が本丸の搦手に当たります。
小天守二階から天守閣を見る

小天守二階から天守閣を撮影。松山城の天守閣はずんぐりとした印象を受けますが、加藤嘉明が築城した5層天守用の石垣をそのまま使って無理やり3層天守を建てたからとも言われています。また松山城は加藤嘉明による創建時、建物はすべて白漆喰だったようですが、松平定行による改修の際に「白漆喰が剥げ落ちて見苦しいから」下見板張りに変えたという伝説(?)があります。
小天守二階から一ノ門を見る

小天守二階から一ノ門を撮影。
小天守二階内部

小天守二階内部です。
天守閣三階内部

小天守、隅櫓を見学したので、天守閣に移動します。写真は天守閣三階内部です。松山城の天守閣には各階に床の間が設けられており、畳を敷けるようになっています。通常天守閣は普段生活をする場所ではありませんが、松山城では天守閣を再建した安政元年(1854年)には本丸御殿がなかったようで、天守閣が御殿としての役割も持っていたのではないかという説もあります。
天守閣の扉

天守閣の扉です。鉄製の無骨な扉です。
紫竹門と小天守、大天守

本壇を後にして、搦手方面に向かいます。写真は紫竹門と小天守、大天守です。大手と搦手の仕切りをなす門で高麗門形式です。この門も天明4年(1784年)に天守閣とともに焼失し、嘉永期に再建されたもので重要文化財となっています。
紫門から南隅櫓と小天守を見上げる

紫竹門から見上げた南隅櫓と小天守です。
野原櫓

野原櫓です。本丸の北、西北を守る重要な二階櫓で騎馬櫓とも呼ばれていました。慶長年間の建造物で、その造りは戦国時代の望楼の面影を残すものとして貴重です。一度国宝に指定されましたが、法改正により重要文化財となりました。
乾櫓と乾門

乾櫓です。搦手を守る二階櫓で、本丸の西北隅に位置することからこの名が付きました。正木城から移築された建物と伝えられ、松山城で最も古い時代の建物のひとつです。一度国宝に指定されましたが、法改正により重要文化財となりました。左に見えるのは乾門です。
外側から見た乾門

乾門を外側から撮影しました。搦手を守る門で正木城から移築された建物と伝えられています。国宝に指定されましたが、戦災のため焼失し、昭和57年(1982年)に復元されました。
乾門から本壇を見上げる

乾門前から本壇を撮影しました。手前の二階櫓が南隅櫓で、奥が小天守です。
本丸下から野原櫓、乾櫓を見上げる

本丸下、東側には道があります。そこから撮影しました。手前が野原櫓、奥が乾櫓になります。櫓と比較して石垣の高さが際立ちます。
艮門

艮門です。本壇の東に当たり、この方面を守るとともに、揚木戸門や乾門が攻撃を受けた際、ここから出撃して側面を突く戦法を考えていたようです。

長編登城記となりましたが、松山城は見所が多くご紹介できていないところがたくさんあります。これはもう一度登城しないといけませんね。今度は一日かけてゆっくり見学します。ちなみに帰りは歩き疲れてしまったのでロープウェイで山を下りました 。


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