KemaAkeの全国城めぐり
KemaAkeの全国城めぐり
能島城
のしまじょう
別名なし 能島全景
形態水城
築城年応永26年(1419)
築城者村上雅房
主な城主村上氏
所在地旧国名伊予
所在地愛媛県今治市宮窪町宮窪
アクセス 村上水軍博物館
↓船(約10分)
南部平坦地桟橋
アクセスのしやすさ
概要
-----------歴史------------
能島城は瀬戸内水軍として有名な三島村上氏のひとつ、能島村上氏の居城である。 村上雅房によって応永26年(1419)に築かれたとされる。 戦国時代になると村上武吉が毛利氏と行動をともにし、織田信長と木津川口で戦っている。 秀吉による天下統一事業が進む中、武吉は秀吉への協力を拒み小早川隆景に攻撃され、能島城を明け渡している。 天正16年(1588)の海賊停止令の後、能島城は廃城となった。江戸時代以降は無人となっていたため、遺構が良く残されている。

---------構造・特徴--------
瀬戸内海の島々には村上氏を始めとした海賊たちによって数多くの城が築かれていた。 これらは海上交通の要衝に設けられ、城であると同時に関所や物流拠点の役割を果たしていた。 これらを総称して水軍城と呼ぶ。 海賊は瀬戸内海を航行する船から関料を徴収し、関料を払った船の航行の安全保証や水先案内をすることで、瀬戸内海の秩序を保つ役割を果たしていた。 水軍城の典型例がこの能島城で、周囲720mの能島全体と属島である鯛崎島を城域としている。 瀬戸内海のほぼ中央に位置する能島は、地形の影響で周囲の潮流が非常に激しく、天然の要害となっている。 曲輪は本丸、二之丸、三之丸、出丸などがあり、これらを造る際に発生した土砂で埋め立てた海岸埋立地などもある。 小さな島ではあるが、島全体を城域としているのは世界的にも珍しい。
遺構 普請:曲輪
作事:現存せず
天守:なし
登城日2017/3/12
感想など
とあるスマホの位置情報ゲームのオフィシャルツアーでの登城です。 これまで能島は桜の季節のみ上陸が許されていたそうですが、最近は島に上陸できるクルーズもあるそうです。 ただこういうのはなかなか一人では利用しづらく、なによりもしまなみ海道に公共交通機関で行くのが大変なので、このツアーは良い機会でした。
能島城を訪れる際は対岸の村上水軍博物館が拠点となります。まずはここで予備知識を蓄えてから向かうと良いでしょう。 能島までのクルーズ時間は10分ほどで、島に近づくと中世城郭らしき曲輪や法面が見えてきます。 周囲の潮流は激しく、海というより川、しかもかなりの急流といった趣で、この島に城を構えた理由が実感できます。
城自体の構造は島にあるということを除けば小規模な中世城郭です。目立った石垣はありません。 ただそこは水軍城ということで、陸の城には見られない特徴的な遺構がたくさんありました。
自分が関東住まいということで、これまであまり海上交通というものに馴染みがなかったのですが、 能島城から瀬戸内海を航行する大きな船を見ていると、今も昔も海上交通が非常に重要なものだと認識できました。

登城記
1. 村上水軍博物館
撮影場所1 村上水軍博物館
村上水軍博物館
村上水軍博物館前の港
村上水軍博物館前の港
能島城への登城拠点となるのがこの村上水軍博物館です。 しまなみ海道には鉄道が通っていないため、福山駅、尾道駅、新尾道駅、今治駅のいずれかから路線バスと高速バスの乗り継ぎで「村上水軍博物館」で下車となります。 外観はなかなかユニークで安宅船を彷彿とさせます。
「村上水軍博物館」となっていますが、内部では「村上海賊」として説明がされています。「水軍」のような特定の大名に属した組織ではなかったためです。 戦国時代は室町幕府が統治能力を失っていたため、海の秩序を保つ自警団的な役割を「海賊」が果たしていました。
そのため現在は村上海賊を「Murakami Pirate」ではなく「Murakami Kaizoku」として英訳するように努め、 無法者である「Pirate」と瀬戸内海の「Kaizoku」は別モノだということを広く宣伝しているそうです。
2. 南部平坦地周辺
撮影場所2 能島全景
能島全景
桟橋から見た三之丸
桟橋から見た三之丸
南部平坦地の護岸
南部平坦地の護岸
史跡能島城跡の石碑
史跡能島城跡の石碑
能島の船着場は島南部の平坦地にあり、ここから島に上陸します。 ここは三之丸、本丸、東南出丸に三方を囲まれた埋立地で、築城時に丘陵部を削った残土で埋め立てた場所になります。 城内で最も大きい区画であり、岸壁は石積みで護岸されています。 この石積みの上部は近世のものですが、海に浸かっている下部には当時の石積みが残っているそうです。 岸壁沿いにからは木柱が多数出土しており、当時の桟橋の一部と考えられています。
これらのことから南部平坦地は物資の荷揚げや軍事演習等に使用された多目的ヤードであったと考えられています。 能島城全般に言えることですが、堀や土塁といった防御施設は一切なく海そのものが天然の防御施設となっていたことが伺えます。
もっとも能島は非常に狭い島なのでまともに防御施設を造るのは敷地的にかなり難しかったのではないかと思います。
3. 三之丸周辺
撮影場所3 三之丸の先端
三之丸の先端
三之丸から見た本丸
三之丸から見た本丸
三之丸から見た南部平坦地
三之丸から見た南部平坦地
撮影場所4 三之丸と伯方・大島大橋
三之丸と伯方・大島大橋
三之丸は能島西部に位置する曲輪です。能島城唯一の大型礎石建物の跡が確認されており、重要な役割を果たした施設と考えられています。 一枚目写真の辺りには掘立柱建物があったようで、物見となる井楼と考えられています。 この井楼から現在の伯方・大島大橋方面からの船の出入りを監視していたようです。 また鍛冶関連の遺構らしきものも確認されています。
4. 本丸・二之丸・東南出丸周辺
東南出丸と鯛崎島
東南出丸と鯛崎島
撮影場所5 本丸から見た三之丸
本丸から見た三之丸
矢びつ
矢びつ
撮影場所6 東南出丸から見た鯛崎島
東南出丸から見た鯛崎島
本丸では小さな掘立柱建物の跡が確認されており、三之丸と同様に井楼があったと考えれています。 また素焼きの器(かわらけ)の破片が1万点以上出土しており、儀礼や宴会の場であったと考えられています。
二之丸は本丸を囲む帯曲輪で、いくつかの掘立柱建物の跡が確認されており、住居か倉庫であったと考えられています。
東南出丸は能島南側に突出した曲輪で、掘立柱建物の跡が確認されています。 向かいに位置する鯛崎島とこの東南出丸の間に橋が掛けられていたという伝承もありますが、橋の跡は確認されていません。
矢びつはユニークな名前の曲輪ですが、伝承では矢びつ対岸の鵜島に向けてここから弓矢の稽古をしていた場所と伝えられています。 確かに弓で狙うにはちょうど良い距離のような気がします。
鯛崎島は能島の南側すぐそば、能島よりさらに小さな島です。いつのころからか弁財天が祀られており、現在も小さな社が建てられています。 ここからも掘立柱建物の跡と、土器や陶磁器が見つかっており、能島南側の守りのための城に取り込まれたものと考えられています。
5. 能島周囲の海岸
撮影場所7 矢びつ付近の潮流その一
矢びつ付近の潮流その一
矢びつ付近の潮流その二
矢びつ付近の潮流その二
撮影場所8 船だまり
船だまり
船だまり付近のピット
船だまり付近のピット
能島周囲を船で回ると各所で川のような激しい潮流を見ることが出来ます。 この潮流が能島の重要な防御施設であり、この潮流があるからこそ村上海賊が、瀬戸内海の水先案内人として重要な役割を担っていたのでしょう。
能島北部の小さな砂浜は船だまりと呼ばれ、海岸沿いの岩場に多数の穴が残っています。 かつてはこの穴に木柱が建てられ、その上に板を渡して桟橋を形成していたと考えられています。 このような穴が能島北側・東側の岩場に数多く残っており、島の半分を桟橋が取り囲んでいたと思われます。

城の地図
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