KemaAkeの全国城めぐり

浜松城 はままつじょう
別名 出世城
形態 平山城
築城年 永正年間(1504年-1520年)
築城者 今川貞相
主な城主 徳川家康、堀尾吉晴、水野忠邦
所在地旧国名 遠江
所在地 静岡県浜松市中区元城町100-2
アクセス ●徒歩によるアクセス
JR東海道本線 浜松駅から徒歩20分
アクセスレベル ●徒歩でのアクセスレベル
☆☆☆☆
概要 前身である曳馬城は今川貞相が永正年間(1504年-1520年)に築城したといわれる。その後、今川氏の支城として、家臣である飯尾氏が支配していたが、桶狭間の戦い後の今川氏の衰退を見て飯尾連竜が謀反を起こす。しかし、今川氏の攻撃を受け陥落寸前となるり、和議勧告を受け駿府に出向いたところ連竜は謀殺されてしまう。その後は飯尾氏の残党が守っていたが、今川家から独立した徳川家康に永禄11年(1568年)に攻略される。元亀元年(1570年)家康は武田氏に備えるため、本拠地を岡崎城から曳馬城に移した。その際、曳馬では「馬を引く」ということで縁起が悪いため浜松に改名した。元亀3年(1573年)、家康はこの城を素通りしようとした武田信玄に三方ヶ原で戦いを挑み惨敗している。天正14年(1586年)に家康は駿府城に本拠を移しす。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の命令により家康が関東に転封されると、秀吉家臣の堀尾吉晴が入城するが、関ヶ原の戦いの功績により松江に転封される。江戸時代になると、徳川譜代大名が次々と入城し、幕府の重職についている。このことから別名「出世城」の名前で呼ばれる。城主には天保の改革を行った水野忠邦がいる。
登城日 2008/09/13
撮影カメラ RICOH Caplio R6
みどころ 有名な野面積み石垣があります

登城記
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「若き日の徳川家康公」

掛川城を目指して在来線で出発したのですが、車内の路線図を見ていると、掛川から浜松までが思いの他近いことに気づき、浜松まで足を伸ばすことにしました。浜松駅から20分ほど歩くと浜松市役所があり、その横に浜松城の入り口があります。入り口の先には「若き日の徳川家康公」と題された銅像があります。このあたりが浜松城の本丸になります。現在、浜松城は市街化が進み、遺構は本丸の一部の石垣のみとなっています。二の丸には浜松市役所や小学校などが建てられています。
天守曲輪の石垣1

本丸から天守曲輪の石垣を撮影しました。浜松城の石垣は野面積みで、特に牛蒡積みといわれる工法で詰まれています。牛蒡積みは自然石の大きい面を内側にして積む工法です。内側には栗石を詰め、されに砂利を入れてあるため、水はけがよいのが特徴です。表面の隙間には詰石をし、非常に荒々しく、粗雑に見えますが、堀尾吉晴のころに築かれたものと考えられ、四百年の風雪に耐え当時の姿をとどめています。
天守曲輪の石垣2

同じく天主曲輪の石垣です。
天守門跡と天守閣

先ほどの写真の階段を登ると天守曲輪の表門である、天守門跡に着きます。このあたりの石垣は大きな石で積まれており、城内で最も堅固に造られています。石垣に使用されているのは珪岩がほとんどですが、そのほかには石灰岩や結晶片岩などが使用されています。
天守

天守閣です。昭和33年(1958年)に復興天守として天守台の上に鉄筋コンクリートで造られました。天守台より一回り小さくなっています。浜松城には天守台はありますが、実際には江戸時代を通じて天守が築かれることはありませんでした。天守の地下には現在は枯れていますが、井戸があります。
天守台の石垣

天守台の石垣をアップで撮影。
埋門跡

埋門跡です。天守曲輪の裏門に当たります。

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