米子城 よなごじょう |
別名 | 久米城、湊山金城 |
形態 | 平山城 |
築城年 | 応仁年間から文明年間(1467〜1487)頃 |
築城者 | 山名宗之 |
主な城主 | 山名氏、尼子氏、吉川氏、中村氏、加藤氏、池田氏 |
所在地旧国名 | 伯耆 |
所在地 | 鳥取県米子市久米町 |
アクセス |
●徒歩によるアクセス JR山陰本線 米子駅から二の丸枡形虎口まで15分 城までの道順は城の地図の青線を参照してください。 |
アクセスレベル |
●徒歩でのアクセスレベル ☆☆☆☆ |
概要 |
米子城は伯耆国守護山名教之の配下、山名宗之によって応仁年間から文明年間(1467〜1487)に、飯山(いいのやま)に築かれた平山城である。一時、尼子氏の支配を受けるが、天正19年(1591)に毛利氏の武将、吉川広家が入城する。広家は飯山の隣の湊山に新たな主郭の築城を開始し、米子城最初の天守を築いた。 関ヶ原の戦い後、広家が岩国に転封となると、中村一忠(かずただ)が18万石で入城する。一忠は引き続き城の築城を行い、慶長7年(1602)に完成した。このとき、広家が築いた天守の横に新たな天守を築き、広家が築いた天守を副天守とした。これにより、米子城は全国でも稀な二つの天守が並立する城となった。 その後、加藤氏、池田氏と城主は転々とするが、寛永9年(1632)に池田光仲が因幡・伯耆二国の鳥取藩主となると、米子城は鳥取藩の支城となり、家老の荒尾氏が幕末まで城を預かった。明治になると他の城と同様に、山頂の二つの天守をはじめとした全ての建物が取り壊された。 |
登城日 | 2010/08/09 |
撮影カメラ | RICOH CX1 |
みどころ | 山頂の石垣群は見ごたえありです。本丸からの眺めも抜群です。 |
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。各写真の下の赤○、青○は、城の地図と対応しています。赤はその場所を示し、青はその写真の撮影場所を示します。 |
城の地図:青1 |
湊山全景です。湊山は標高約90メートルの山で、山頂に米子城の本丸があります。写真左側の見切れている山は標高約52メートル飯山で、ここに山名宗之によって築かれた中世の米子城がありました。現在は写真のように、湊山と飯山の間には国道9号線が通っています。米子城は本丸のある湊山、中世米子城のあった飯山、内膳丸がある丸山の三つ小高い山と、その周りに堀をめぐらして縄張りとしました。現在堀はすべて埋め立てられています。 |
城の地図:赤1 |
二の丸枡形虎口です。 |
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二の丸枡形虎口の枡形です。城主の行列の供揃いや、武士を集めるときの集合場所に使われました。東西25メートル、南北22メートルの大きさがあります。 |
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二の丸枡形虎口の石垣です。高さは2メートル以上あり、大きな石で積まれています。 |
城の地図:赤2 |
旧小原家長屋門です。昭和28年(1953)に寄贈され、市内西町の小原家にあったもを現在地に移築しました。江戸時代中期の建物で、米子市内に現存する唯一の武家建築として貴重なものです。 |
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本丸の石垣群です。旧小原家長屋門を過ぎ、10分ほど山を登ると視界が開け本丸の石垣群が現れます。 |
城の地図:赤3 |
副天守台です。ここには吉川広家が築いた四層の天守が建てられていました。私の見たところでは、本丸の石垣群で最も高いのがこの副天守台の石垣でした。 |
城の地図:赤4 |
鉄御門(くろがねごもん)跡です。天守の入り口を固めるため、鉄張りの堅固な門が築かれていました。間口約12メートル、奥行き約4.5メートルで、案内版には二階建てとありますが、米子城の絵図を見ると一階建てになっています。右側の石垣は副天守台です。 |
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本丸跡です。米子城の本丸は大きく二段に分かれており、天守、副天守があるのは上の段になります。天守曲輪といったところでしょうか。写真は上の段の様子で、奥に見えるのは水手御門跡です。 |
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天守の礎石です。 |
城の地図:赤5 |
副天守台から見た天守台です。 |
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天守台と周辺の石垣です。写真のように、米子城の石垣は、あまり高い石垣を築かずに、低い石垣を何段か積み重ねて築いているのが特徴のようです。石垣は打ち込みハギで築かれています。 |
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天守台からの眺めです。写真左から中海、中央に米子市街、中央奥に日本海、右奥に中国最高峰の大山を一望することができます。 |
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水手御門跡です。かつては、ここから山麓の船小屋へ続く道がありました。 |
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本丸下の段から見た天守台周辺の石垣です。 |
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本丸下の段から見た天守台です。二段の低い石垣の上に、天守台が築かれていることがわかります。 |
城の地図:赤6 |
内善丸入り口です。内膳丸は高さ役52メートルの丸山の山頂にある曲輪で、中村氏時代の家老、横田内膳正村詮が担当して構築したことからこの名前で呼ばれています。二重櫓数棟の武器庫がありました。 |
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内膳丸から見た本丸の石垣群です。 |
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