小田原 歴史的町名碑めぐり その一

生まれも育ちもずっと小田原の私ですが、物心がついたときには小田原の街中のあちこちに昔の地名を記した、この石碑が建っていました。これまでなんとなく眺めてきた石碑ですが、全部でどのくらいの数が有るのだろうと思っていました。最近、小田原市のサイトでこの石碑の場所を網羅した資料を見つけたので、街中めぐりも兼ねて全てを写真に収め、町並みを記録しようと思い立ちました。

市のサイトによると、昭和60年度から設置を初め、105カ所にあるようです。同じ町名で複数の石碑となっている場合もあり、町名の数はこれより少ないです。
石碑はかつての小田原城惣構の内側に点在しており、広範囲に広がっています。
小田原駅周辺に長年住んでいますが、実はまだ足を踏み入れたことのない場所が多いことに驚きながら、写真を撮っていきたいと思います。

なお、石碑の掲載順番は私が巡った順番となります。

001 大新馬場(おおしんばば)2017/02/11撮影
「地名の起りは、南隣の中新馬場と区別するため新たにこの名がついたと考えられる。江戸時代の藩主稲葉氏の「永代日記」の天和二年(一六八二)3月の記録に「竹花町に近く新馬場があり、足軽小屋を設けた」とあるのは、この大新馬場のことと思われる。」

001-01-01_大新馬場

001-01-01_大新馬場

001-01-02_大新馬場

001-01-02_大新馬場

002 渋取(しぶとり)2017/02/11撮影
「古い時代の渋取は、花ノ木の北方の広い区域を示す地名であった。ところが、天正十八年(一五九〇)の豊臣秀吉の小田原攻めに備え、北条氏が小田原城惣構(そうがまえ)を築いたとき、渋取は惣構の内側と外側に分断された。この地域は内側の渋取で、江戸時代のはじめは町人地であったが、稲葉氏の時代に武家地に変えられ、その範囲も「渋取口」付近の極く限られた区域を指すようになった。」

002-01-02_渋取

002-01-02_渋取

002-01-01_渋取

002-01-01_渋取

003 中新馬場(なかしんばば)2017/02/11撮影
「地名の起こりは、古くはここが馬場に利用されていたためと考えられる。稲葉氏時代(一六三二~八五年)にはここに十二軒ほどの藩士屋敷があったが、幕末には大久保藩士の屋敷として約十六軒に増えている。」

003-01-01_中新馬場

003-01-01_中新馬場

003-01-02_中新馬場

003-01-02_中新馬場

004 七枚橋(しちまいばし)2017/02/11撮影
「抹香町から大新馬場に通ずる道路と護摩堂川とが交差するところに、七枚の切石を並べて作った石橋があり、「七枚橋」といわれていたという。後にこれが付近の地名となった。」

004-01-01_七枚橋

004-01-01_七枚橋

004-01-02_七枚橋

004-01-02_七枚橋

005 花ノ木(はなのき)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代の花ノ木は、主として蓮乗院の寺地であった。江戸時代にはその一部が武家地などに変わった。」

005-01-01_花ノ木

005-01-01_花ノ木

005-01-02_花ノ木

005-01-02_花ノ木

006-01 新宿町(しんしくちょう)2017/02/11撮影
006-02 新宿町(しんしくちょう)2017/02/11撮影
「江戸時代前期、城の大手口変更によって東海道が北に付け替えられた時にできた新町。町は、藩主帰城の時の出迎場であったほか、郷宿(ごうやど-藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)や茶店があり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。」

006-01-01_新宿町

006-01-01_新宿町

006-01-02_新宿町

006-01-02_新宿町

006-02-01_新宿町

006-02-01_新宿町

006-02-02_新宿町

006-02-02_新宿町

007-01 古新宿町(こしんしくちょう)2017/02/11撮影
007-02 古新宿町(こしんしくちょう)2017/02/11撮影
「この町は、もと新宿町と呼ばれていたが、江戸時代前期、東海道が町の北寄りにつけかえられたとき、新たな東海道沿いに町ができ、これを新宿町としたため、この町を古新宿町と改めた。千度小路とともに漁業の中心地であった。」

007-01-01_古新宿町

007-01-01_古新宿町

007-01-02_古新宿町

007-01-02_古新宿町

007-02-01_古新宿町

007-02-01_古新宿町

007-02-02_古新宿町

007-02-02_古新宿町

008 鍋町(なべちょう)2017/02/11撮影
「この町の規模は、はっきりしないが、古新宿町と新宿町の一部を含む小町だった。小田原北条氏時代から町には鍋などを作る鋳物師(いもじ)が多く住んでいたので、この名がついたといわれている。」
鍋町付近には、早川浄水跡の碑があります。
「昔、西方の板橋村で早川を分水して山門町を通り、旧東海道を疏通して鍋町の屋並に沿って東に流れ新宿から山王松原江戸口の連池に入った。」

008-01-01_鍋町

008-01-01_鍋町

008-01-02_鍋町

008-01-02_鍋町

008-01-03_鍋町

008-01-03_鍋町

009 十王町・抹香町(じゅうおうちょう・まっこうちょう)2017/02/11撮影
「十王町は、別にこの付近の武家地も含んで抹香町とも呼ばれた。地名の由来は、十王堂(閻魔堂・えんまどう)のほか近くに寺が多く、線香の煙がいつもたえなかったからと言われている。」

009-01-01_十王町・抹香町

009-01-01_十王町・抹香町

009-01-02_十王町・抹香町

009-01-02_十王町・抹香町

010 唐人町(とうじんちょう)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代、中国人が遭難して小田原に漂着し、その中の四十余人が許されてこの地に居住したので、「唐人村」と呼ばれていたことが、唐人町の名称と関係があるものと考えられている。唐人町の通りは、寛永年間(一六二四~四三年)、将軍家光の上洛に先立ち、小田原城大手門に至る御成道(おなりみち)として新設されたもので、その東端には土塁をともなった柵門(黒門)が設けられていた。」

010-01-01_唐人町

010-01-01_唐人町

010-01-02_唐人町

010-01-02_唐人町

011-01 万町(よろっちょう)2017/02/11撮影
011-02 万町(よろっちょう)2017/02/11撮影
「町名は古くから「よろっちょう」とよばれた。町内には、七里役所という紀州(和歌山)藩の飛脚継立書(ひきゃくつぎたてじょ)があった。江戸時代末期には、旅籠(はたご)が五軒あり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。」

011-01-01_万町

011-01-01_万町

011-01-02_万町

011-01-02_万町

011-02-01_万町

011-02-01_万町

011-02-02_万町

011-02-02_万町

012 高梨町(たかなしちょう)2017/02/11撮影
「東海道から北へ向かう甲州道の起点に当たり、古くから商家、旅籠(はたご)が並んでいた。町の中央南寄りには下(しも)の問屋場(人足や馬による輸送の取継ぎ所)が置かれ、中宿町の上(かみ)の問屋場と十日交代で勤めていた。」

012-01-01_高梨町

012-01-01_高梨町

012-01-02_高梨町

012-01-02_高梨町

013-01 青物町(あおものちょう)2017/02/11撮影
013-02 青物町(あおものちょう)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代、町内に野菜の市(いち)が開かれていたのでこの名がついたといわれ、商人の多い町であった。東京の日本橋にあった青物町は、徳川家康のころ江戸の町づくりのため、この土地の人たちが移り住んだ町といわれる。」

013-01-01_青物町

013-01-01_青物町

013-01-02_青物町

013-01-02_青物町

013-02-01_青物町

013-02-01_青物町

013-02-02_青物町

013-02-02_青物町

014-01 宮前町(みやのまえちょう)2017/02/11撮影
014-02 宮前町(みやのまえちょう)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代には上町・下町に分かれていたと伝えられている。町の中央に城主専用の入口、浜手門口高札場(幕府の法令などを掲示する場所)があり、江戸時代末期、町内には本陣一、脇本陣二、旅籠(はたご)が二十三軒あって、本町とともに宿場町の中心であった。
宮前町には小田原宿に四軒あった本陣のうちの筆頭で、町年寄も勤めた清水金左衛門の本陣がありました。この本陣の敷地面積はおよそ二四〇坪で、大名や宮家などの宿泊に当てられました。明治天皇もここに五回ほど宿泊しており、それを記念した石碑が残されています。

014-01-01_宮前町

014-01-01_宮前町

014-01-03_宮前町

014-01-03_宮前町

014-02-01_宮前町

014-02-01_宮前町

014-02-02_宮前町

014-02-02_宮前町

015-01 宮小路(みやこうじ)2017/02/11撮影
「町名の由来は、松原神社の門前にあたるためといわれている。この横町は、神社の門前から東へ伸び、青物町に至るまでの通りをいう。」
宮小路にある松原神社は、小田原北条氏時代から江戸時代に至るまで、小田原城主から崇敬され、小田原宿の総鎮守とされた神社です。創建の時期は不明ですが、かつては鶴の森明神、松原大明神と呼ばれてました。
ここには可愛らしい亀をかたどった石があります。これは小田原の海岸に現れた大亀に由来するもので、これを吉兆として氏康は松原神社に参詣し舞を奉納しました。翌年、日本三大夜戦のひとつ、河越夜戦で北条氏康は寡兵で敵を打ち破り、関東制覇に大きな一歩を踏み出しました。

015-01-01_宮小路

015-01-01_宮小路

015-01-02_宮小路

015-01-02_宮小路

015-01-03_宮小路

015-01-03_宮小路

お城EXPO 2017 開催します

注目

昨年12月、クリスマスの真っ只中、みなとみらい21という絶好の立地で、全国のお城ファンが集まる記念すべき第一回お城EXPOが開催されました。
このお城EXPO、なかなか好評だったようで、今年も開催されることになりました。

昨年に引き続き、またしても株式会社東北新社様からの告知依頼が来ました。
このような粗末なサイトにお声がけ頂けるとは嬉しい限りです。今年も微力ながら告知に協力させていただきます。
というわけで…

お城EXPO 2017 開催決定!
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開催日は12/22(金)、23(土)、24(日)の三日間で場所はパシフィコ横浜です。
プログラム内容は以下となります。

<テーマ展示>
・日本100名城&続日本100名城写真展
・厳選城絵図展
・城めぐり観光情報ゾーン
・エンタメステージ
・ワークショップ&セミナー
・お城のジオラマ模型展
・熊本城復興支援コーナー
・城下町 物販ブース
・お城EXPOフォトコンテスト
・イベントステージ
・お城シアター ほか

<厳選プログラム>
お城のスペシャリストたちが登壇する、ここでしか聞けない貴重な講演会、フォーラム、トークショー

またしても近場での開催ということで助かりました。
今年のお城EXPOでも私が楽しみにしているのは、お城会のセレブの方々が集まる厳選プログラムです。
登壇されるのは以下の方々を始めとした、お城ファンならばご存知であろう方々。

戦国時代といえばこの方 … 小和田哲男先生
数多くの天守復元を手がけ、私の愛読書「城の作り方図典」の著者 … 三浦正幸先生
後北条氏関係のディープな書籍を多数著作 … 黒田基樹先生
芸能界随一のお城通 … 春風亭昇太師匠
最近のお城番組で引っ張りだこ … 千田嘉博先生

厳選プログラム入場料とは別料金が必要ですが、相変わらずの豪華キャストなので十分な価値があると思います。
私としては全ての厳選プログラムを見たいのですが、そうするとテーマ展示をゆっくり見る時間が取れません。次回からは少し空き時間があると嬉しいですね。
今年は以下の厳選プログラムは絶対に見ようと思っています。
色々と面白いお話が聞けそうで、今から楽しみです。
22日は仕事ですが、私は22日は有給休暇をとって参加します!

22日(金) 13:30~14:30 「中世の続日本100名城について」中井均
22日(金) 17:00~18:00 「戦国の城の魅力と見どころ」小和田哲男
23日(土) 11:00~12:00 「三大名城について考える」春風亭昇太、萩原さちこ
23日(土) 12:30~13:30 「江戸始図から見た江戸城」千田嘉博
これは最近発見された徳川家康時代の江戸城の絵図にまつわる講演ですね。非常に興味があります。
23日(土) 14:30~16:00 「関ケ原合戦における豊臣家の位置」笠谷和比古、小和田哲男、小和田泰経
23日(土) 16:30~17:30 「天守の構造と意匠を見直す」三浦正幸
24日(日) 14:00~15:00 「城を攻める 城を守る」伊東潤、樋口隆晴
24日(日) 15:30~16:30 「北条氏の領国と城」諏訪間順、黒田基樹
(敬称略)

今年もお城ファンのクリスマスは「お城EXPO」で決まりのようです。
今年の様子もこのブログに掲載します。

安土城に登城しました

もう半年も前ですが、9年ぶりに安土城に登城しました。
前回よりもカメラもグレードアップしているので、より良い写真が撮れたと思います。
次に安土城に行った際は、安土城下巡りと安土山をぐるっと一周してみたいです。

KemaAkeの全国城めぐり – 安土城

能島城に登城しました

今年の3月にしまなみ海道、世界的にも珍しい島をまるごと城塞化した能島城に登城しました。
とあるスマホの位置情報ゲームのオフィシャルツアーでの参加で、公共交通機関ではなかなか行きづらい能島城に楽々行くことが出来ました。またかなりディープなお城好きの方々と交流が持てて楽しかったです。
そのゲームのURLはこちらです→発見!ニッポン城めぐり

KemaAkeの全国城めぐり – 能島城


お城EXPO 2016 レポート

2016年12月23(金)、24(土)、25(日)の三日間、おそらく全国初であろう大規模お城イベントの「お城EXPO 2016」がパシフィコ横浜で開催されました。
主催者の一角である東北新社様からのご案内もあり、招待状まで受け取りましたので喜んで行ってきました。
もっとも私が楽しみにしていたお城会の重鎮の先生方による厳選プログラムは別料金が必要で、座席指定となるため、満席を恐れて前売り券を買ってしまい、招待券は使わずじまいとなりました。私は23(金)、24(土)と参加して、厳選プログラムの講演やトークショーに張り付いていたので、テーマ展示はゆっくり見ることが出来ませんでした。次回は厳選プログラムの密度をもう少し減らしていただけるとテーマ展示も十分見ることができ、城ファンとしてはありがたいと思います。

テーマ展示 – 熊本城復興支援コーナー
4月の熊本地震で甚大な被害を受けた熊本城について、被害状況説明と8ヶ月がたった現在の姿の写真が公開されていました。4月14日21時26分の前震(M6.5)では石垣の崩壊は6箇所のみ、現存建造物は長塀のみが崩壊、と比較的被害は軽かったようですが、16日1時25分の本震(M7.3)で石垣、現存建物ともに大被害を被りました。現代の建物でもM7クラスの地震を二回も喰らえばただではすまないので致し方ないでしょう。むしろ前震をほとんどの石垣、建物が持ちこたえたことは熊本城の築城技術の高さを証明していると思います。最終的な被害状況は以下となります。

・石垣
膨らみ・緩み 64箇所、517面 約23600㎡(29.9%)
うち崩壊50箇所、229面 約8200㎡(10.3%)
・重要文化財建造物
13棟 倒壊2棟、一部倒壊3棟、他は屋根・壁破損など
・復元建造物
20棟 倒壊5棟 他は屋根、壁破損など

被害総額
・石垣 約425億円
・重要文化財建造物 約72億円
・再建・復元建造物+その他公園施設 約137億円
計 634億円

ジオラマ-熊本城

ジオラマ-熊本城

お土産、グッズ、書籍販売会
お城や戦国関係の書籍や模型等が販売されていました。特に私が気になったのは「城ラマ」ブースです。城ラマとは「お城ジオラマ復元堂」さんが作成・販売している中世城郭のジオラマで、お城ブームの昨今注目を集めています。これまでお城の模型というと天守やその周辺のみで、土の城である中世城郭が商品化されるのは初めてだと思います。私がはじめて「城ラマ」を知ったのはたしかタモリ倶楽部ででした。そのときは、かなり小さいため作りが雑なのかなと思っていましたが、実際に現物を見てみるとかなり細かい作り込みに感動しました。
現在は長篠城、高天神城、上田城が販売されており、近々竹田城がラインナップに加わるとのこと。ここでは非売品の小机城も展示されていました。気になったのは小田原城にも取材(?)に行ったとの新聞記事が展示されており、担当者さんに小田原城も出るか伺ったところ、小田原城は大きすぎてちょっと厳しいとのこと。でも顔は笑っていたのでもしかしたら…小田原城となればお値段が張っても私は買うので期待したいところです。

城ラマブース

城ラマブース

城ラマー小机城

城ラマー小机城

城ラマ-高天神城

城ラマ-高天神城

城ラマ-長篠城

城ラマ-長篠城

テーマ展示 – お城のジオラマ模型展
「お城のジオラマ模型展」では、城郭模型作家・岐部博氏が製作した城ジオラマを40点を展示。現存十二天守の城から、なかなかマニアックな城まであり見入ってしまいました。ジオラマということでサイズの制約上かなりデフォルメがされていますが、いずれもその城の特徴が出ており、中には歴史的事件等を盛り込んだものもあり面白い造りになっていました。

お城のジオラマ-苗木城 その二

お城のジオラマ-苗木城 その二

お城のジオラマ-苗木城 その一

お城のジオラマ-苗木城 その一

お城のジオラマ-小田原城 その一

お城のジオラマ-小田原城 その一

お城のジオラマ-小田原城 その二

お城のジオラマ-小田原城 その二

お城のジオラマ-松山城

お城のジオラマ-松山城

お城のジオラマ-竹田城

お城のジオラマ-竹田城

お城のジオラマ-豊臣大坂城 その二

お城のジオラマ-豊臣大坂城 その二

お城のジオラマ-豊臣大坂城 その一

お城のジオラマ-豊臣大坂城 その一

お城のジオラマ-石垣山一夜城と小田原城 その一

お城のジオラマ-石垣山一夜城と小田原城 その一

お城のジオラマ-石垣山一夜城と小田原城 その二

お城のジオラマ-石垣山一夜城と小田原城 その二

お城のジオラマ-浜松城

お城のジオラマ-浜松城

お城のジオラマ-宇和島城

お城のジオラマ-宇和島城

お城のジオラマ-和歌山城

お城のジオラマ-和歌山城

お城のジオラマ-来島城

お城のジオラマ-来島城

お城のジオラマ-高知城

お城のジオラマ-高知城

お城のジオラマ-高松城

お城のジオラマ-高松城

お城のジオラマ-高取城 その一

お城のジオラマ-高取城 その一

お城のジオラマ-高取城 その二

お城のジオラマ-高取城 その二

お城のジオラマ-飛騨高山城

お城のジオラマ-飛騨高山城

お城のジオラマ-松前城

お城のジオラマ-松前城

お城のジオラマ-萩城

お城のジオラマ-萩城

テーマ展示 – 城郭の浮世絵展
城郭の浮世絵展では江戸時代、文化文政期から幕末、明治にかけての戦国時代の合戦等をモチーフにした浮世絵が展示されています。戦国時代をモチーフにしながら幕末の洋船、いわゆる黒船が描かれている、立派な天守があったりといろいろと面白いものがありました。
真柴久吉公播州姫路城郭築之図では秀吉が「真柴久吉」と描かれ、周りには「浮島正則」や「畑切且元」といったどこかで見たような人物が描かれています。豊臣政権を否定する徳川幕府にはばかってのことでしょうが、ミエミエな感じがおかしくすらあります。浮世絵師も幕府もお互いなあなあでやっていたのかもしれません。名将諸国を征伐之図は秀吉の一連の戦いを抽象的に描いたもののようで、城の周りには北条や本願寺など、秀吉がその生涯で対峙した相手の旗がはためいています。

城郭の浮世絵展-真柴久吉公播州姫路城郭築之図 その一

城郭の浮世絵展-真柴久吉公播州姫路城郭築之図 その一

城郭の浮世絵展-真柴久吉公播州姫路城郭築之図 その二

城郭の浮世絵展-真柴久吉公播州姫路城郭築之図 その二

城郭の浮世絵展-名将諸国を征伐之図 その二

城郭の浮世絵展-名将諸国を征伐之図 その二

城郭の浮世絵展-名将諸国を征伐之図 その一

城郭の浮世絵展-名将諸国を征伐之図 その一

テーマ展示 – 厳選城絵図展
厳選城絵図展では、公益財団法人 日本城郭協会が長年にわたり収集した城郭の絵図から選りすぐりの8点が展示されています。今回展示されている絵図は、歴史資料というより美術品としての性格が強いものですが、城の様子をイメージするには十分で面白かったです。特に日本城郭配置図には各国の石高や、城名、宿場町などが描かれており人だかりができていました。こういうのはやはり地元が気になるんですよね。

厳選城絵図展-日本城郭配置図 その一

厳選城絵図展-日本城郭配置図 その一

厳選城絵図展-日本城郭配置図 その二

厳選城絵図展-日本城郭配置図 その二

テーマ展示 – 現存十二天守模型展示
現存十二城の同縮尺での精巧な天守模型の展示です。神奈川県での開催ということで特別出演として小田原城も展示されていました。

現存十二天守模型展-小田原城 その一

現存十二天守模型展-小田原城 その一

現存十二天守模型展-小田原城 その二

現存十二天守模型展-小田原城 その二

現存十二天守模型展-松江城

現存十二天守模型展-松江城

現存十二天守模型展-丸亀城

現存十二天守模型展-丸亀城

厳選プログラム
厳選プログラムへの参加には通常の「入城券」の倍のお値段の「プレミアム入城券」が必要となります。私は正直なところテーマ展示はともかくこの厳選プログラムが目当てでした。なんといってもお城会の重鎮である小和田哲男先生や三浦昌幸先生のお話を生で聞けるわけですから。
実はいくつかの厳選プログラムの際、登壇していなかった小和田哲男先生が四席くらい隣に座っていて、思わず声をかけようかと思いましたがぐっと我慢しました。周りの人は気付いていたかったのでしょうか。サインが欲しかった…

ここでは厳選プログラムの中で特に印象に残った三浦正幸先生の講演をご紹介します。

厳選プログラム – 12/23(金) 天守と櫓について 三浦昌幸先生
天守復元でおなじみの三浦正幸先生の講演です。お題は熊本城の天守と櫓について。目からウロコの内容で要点は以下となります。

・宇土櫓の築城時期について
宇土櫓は一昔前は小西行長の宇土城天守を移築したものと伝えられてきましたが、現在はその説は否定されています。では宇土櫓はいつごろのものなのかという内容でした。

-櫓台は付近の石垣の積み方より新しい積み方となっており、増築されたものと考えられる

-櫓台には穴蔵があるが、一階床下の造りが穴蔵を持った櫓として相応しくない

-一階内部に広縁と呼ばれる空間がある。これは安土城や豊臣大坂城にもあったもので非常に古い時代の天守の特徴である

-最上階に高欄を設け天守なみの格式を持っている

-現在の大天守と大入母屋や破風の配置が類似している。このような配置を持つのは熊本城のみで、現在の大天守の縮小版が宇土櫓であると言える

結論:宇土櫓は清正が熊本に入ってから関ヶ原の戦いで加増されるまでの間に建てられた清正最初の天守である

宇土櫓については清正最初の天守であることが確実となれば、現存十二天守よりも古いものとなり、日本史上においても城郭建築史上においても非常に貴重な建物だといえます。そのため三浦先生は次に国宝にする必要がある城郭建築は間違いなく宇土櫓と太鼓判を押していらっしゃいました。僭越ながら私もそう思います。

・熊本城大天守の張り出しと得意な構造について
熊本城大天守は一重目が石垣から張り出し、通常の望楼型天守のパターンである一重と二重が同大な城(萩城、岡山城、豊臣大阪城など)と異なるユニークな形となっている。その理由について。

-もともと清正は四重ないし三重の天守をここに建てることを想定していた

-ところが関ヶ原での戦功での大幅加増(50万石)のため、石高に相応しい天守を築くことになった。当時の不文律として中納言以上あるいは50万石以上の大名は五重天守を建てる必要があった

-関ヶ原以前から現在の天守台を造っていたため小さな天守台に五重天守を建てることになり、苦肉の策として一重目を張り出した

結論:熊本城天守の特異な構造は、四重ないし三重天守の天守台に、無理やり五重天守を建てたため

ここからは私の推論ですが、天守台には現在の大天守の二重目から上だけが建てられる予定だったのではと思いました。すでに二重目より上の設計は終わっていたが、五重天守にする必要があったため一重目を継ぎ足した。今の大天守を見ているとだるま崩しの容量で一重目だけを外してみるとぴったりと天守台と二重目の大きさが一致するように見えます。いかがでしょうか。

早川石丁場群関白沢支群見学会

11月6日(土)に行われた早川石丁場群関白沢支群(はやかわいしちょうばぐんかんぱくさわしぐん)の現地見学会の様子をお伝えします。この見学会は今年3月に早川石丁場群関白沢支群(小田原市)、中張窪(ちゅうばりくぼ)石丁場(静岡県熱海市)、宇佐美北部石丁場群(静岡県伊東市)が江戸城石垣石丁場跡として国指定史跡となったことをきっかけに開催されました。一夜城の近くに江戸城のための石切場跡があるということは聞いていたのですが、なかなか行く機会がなく、今回は通常入ることが出来ない民間地にも入れるとのことでこれは見逃す訳にはいかないと参加しました。

出発は入生田の神奈川県立生命の星・地球博物館、解散地は一夜城ということで足掛け3時間ほど、山を200メートルほど登ることになります。

生命の星地球博物館

生命の星地球博物館

8:45に生命の星地球博物館前に集合です。ここから早川にかかる太閤橋を渡り山を登っていきます。石垣山一夜城までの道はそこまで急ではないため、余裕を持って登ることができます。

太閤橋から早川上流方面を望む

太閤橋から早川上流方面を望む

太閤橋は石垣山一夜城の大手道として早川に掛けられたと伝えられる橋です。今では一夜城の正面は早川方面のイメージですが、考えてみると京都から東海道を進むとこちらが正面になります。17世紀の江戸城修築の際には、石垣山の石丁場からこのあたりに石を下ろして早川を下り、早川河口で大船に積み替えて江戸に向かったと考えられています。ただ現在の早川を見ているとこの水深と水量で石材を積めるだけの船を航行させることができたのかは疑問です。昔は今とは随分違う様子だったのでしょうか。

段々畑の中の石垣用石材

段々畑の中の石垣用石材

しばらく舗装された農道を登っていくと右側に段々畑が見えてきます。段々畑には取り残された巨大な石垣用石材が残されています。この辺りの林の中にはこのような石がゴロゴロしているそうです。

運び出そうとした石垣用石材

運び出そうとした石垣用石材

段々畑を進みしばらくすると右側にいわゆる残念石が残されています。残念石は石垣用の石材として整形されながら何らかの理由で途中で運搬を止めた石で、この辺りだと伊豆半島の各所に残されているものが有名です。この残念石は整形の様子から17世紀前半の江戸城修築時のもので、なんらかの理由でこの沢(関白沢)に落としてしまったため縁起が悪い(落ちる=落城)ために放置されたものと考えられています。

斜面から突き出た大岩

斜面から突き出た大岩

残念石からしばらく、左側には斜面から突き出た大岩があります。昔の石工はこのような岩を目ざとく見つけて石垣用の石材に整形していきました。この岩は安山岩で固く大きくなる傾向があるため石垣に適しています。

下から見た石曳道

下から見た石曳道


上から見た石曳道

上から見た石曳道

途中で車道と別れ林道を進むと階段があります。この階段の脇に2005年から2006年の発掘調査で「石曳道」が発見されました。長さ175メートルに渡って残され斜面を切り通し状に掘り込んで南から北東に緩やかなカーブを絵が描きなら続いています。彫り込みの幅は約3.5メートル~約4.5メートル、路面の幅は約1.2メートル~約1.5メートルあります。路面は傾斜角約12度~15度、平均約14度となっており石材の運搬を考慮した一定の角度となっています。路面には轍が残されており、石材を運ぶための「地車」と呼ばれる荷車のものと考えられています。この地車を牛に牽かせて石を運搬していた様子が屏風に残されています。当時はこのような石曳道が延々と早川まで続いていたと考えられています。

石垣用石材の刻印

石垣用石材の刻印

石垣用石材とそこに根を張った木

石垣用石材とそこに根を張った木

斜面に残された石垣用石材群その一

斜面に残された石垣用石材群その一

斜面に残された石垣用石材群その二

斜面に残された石垣用石材群その二

矢穴の残る巨石その一

矢穴の残る巨石その一

矢穴の残る巨石その二

矢穴の残る巨石その二

石曳道の先、舗装路のヘアピンカーブの先には未舗装の林道が続いています。ここから先は民有地で通常立ち入りできませんが、今回は見学会ということで特別に立ち入り許可をいただいたとのことで奥に進みます。民有地ということでまだ史跡整備等がされていないため案内板はないのですが、このあたりが今回の見学会で一番の見どころになります。というのもこの一帯には加工途中で放置された石材が木々の間に多数転がっているからです。中でも目算になりますが、幅5メートル以上、高さ5メートル以上はあろう巨石は見ごたえがあります。縦に矢穴を彫り石を四等分しようとしていたようですが、真ん中の矢穴から想定外の割れ方をしたようで放置されたようです。あるいはこの辺り一帯の石材が矢穴を彫られかなりの行程まで切り出しが進んでいるようなので、もしかしたら場所的な問題で運び出しを断念したのかもしれません。市職員の方から矢穴の有無で石垣の修築時期を知ることができるとの解説がありなるほどと思いました。確かに織豊期の古い石垣には矢穴はなく(石材の大きさも原因でしょうが)矢穴があるとういうことは石材加工技術の発達した慶長期移行の石垣と見ることができるそうです。

保存された石丁場

保存された石丁場


先程のヘアピンカーブに戻り先に舗装路を進むと車道の走る開けた場所に出ます。ここには車道の橋の下に続く細い階段があり、橋の下にひっそりとこの石丁場があります。車道は広域農道小田原湯河原線で、建設に伴う発掘調査によってこのあたりで最大規模、保存状態も良好なこの石丁場が発見されました。車道建設のため失われるところでしたが、その価値から橋を架ける設計に変更され、現地保存されています。そのためちょうど橋が屋根の代わりにもなっておりなかなかユニークな史跡となっています。
ここでは石材の加工がつい先程まで行われていたかのような生々しい状況が残されており、石丁場を理解する上で極めて重要な場所となっています。石材の加工は以下の行程となります。
1. 安山岩の転石を割るために「矢穴」を一列に彫る
2. 目的とする大きさに割る
3. 形を整える
4. 整形が完了した石材を集める

石垣山一夜城入り口

石垣山一夜城入り口

移設された石垣用石材

移設された石垣用石材

八の刻印

八の刻印

本日のゴール、石垣山一夜城に到着です。今回見てきたのはあくまで江戸時代の石丁場であり、石垣山一夜城に使われた石材の石丁場とは別のものです。石垣山一夜城に使用されている石材は矢穴を用いない野面積みで、明らかに本日見てきた石丁場の石材とは異なっています。小田原合戦の翌年に築城が始まった肥前名護屋城は矢穴を用いた野面積みとなっており、この石垣山一夜城が矢穴の有無の転機となったとも考えられています。そういった意味でもこの石垣山一夜城とその周辺の石丁場群は日本城郭史を語る上で重要な場所と言えそうです。
こうなると石垣山一夜城に使用された石材の石丁場も見てみたいものです。市職員の方の説明では「今回見てきた石丁場は人海戦術で石を切り出したもので、未熟練工もたくさんいたため時間がかかっていたであろう」とのこと。対して石垣山一夜城の石材は「熟練職人がカンと経験を頼りに短期間で切り出したもの」とのことでした。野面積みは石材の加工度が低く、打込ハギに比べ石材は小さめになるため、石丁場も小規模であり、このあたりの自然に完全に埋もれてしまっているのかも…などととりとめのないことを考えています。

石垣山一夜城へは入生田方面からゆるゆると登って、残念石や石丁場を見学していくとよりどっぷりお城の世界に浸れると思います。早川方面からのルートより坂道も緩いのでおすすめです。

お城EXPO 2016 開催決定!

細々とお城関係のサイトとブログを運営している私ですが、先日1通のメールが届きました。

「お城EXPO2016」開催のご案内と告知協力のご依頼…

どうやらこのささやかなブログが株式会社東北新社様の目に留まったようで、12月に開催する全国初(?)の大型お城イベントの告知依頼でした。というわけで喜んで協力させて頂きます。

お城EXPO2016
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開催日は12/23(金)、24(土)、25(日)の三日間で場所はパシフィコ横浜です。プログラム内容は以下となります。

<テーマ展示>
・浮世絵に見る攻城戦展
・厳選城絵図&お城模型展示
・日本100名城写真展
・熊本城復興支援コーナー
・お城シアター
・お城EXPO検定
・城めぐり観光情報ゾーン
・城下町 特産・名産品即売会
・お城EXPOフォトコンテスト
・ワークショップ   ほか

<厳選プログラム>
お城のスペシャリストたちが登壇するここでしか聞けない貴重な講演会・フォーラム・トークショーなどの厳選プログラム。12月24日(土)に開催するトークショーでは、春風亭昇太さんにご参加いただき、城郭考古学を専門とする考古学者の千田嘉博さん、城郭ライターの萩原さちこさんとともに、お城について熱く語っていただきます。

この中で私が特に気になっているのが厳選プログラムです。三日間それぞれで別のゲストが登場し、トークショーや貴重な講演会が開かれます。そのゲストが実に豪華です。

戦国時代といえばこの方 … 小和田哲男先生
数多くの天守復元を手がけ、私の愛読書「城の作り方図典」の著者 … 三浦正幸先生
後北条氏関係のディープな書籍を多数著作 … 黒田基樹先生
芸能界随一のお城通 … 春風亭昇太師匠

お城、戦国好きなら見覚えのある名前ばかりだと思います。入場料とは別料金が必要ですが、これだけの豪華キャストなので十分勝価値あると思います。私は以下のプログラムを見に行こうかと検討中です。

23日(金) 講演会「天守と櫓について」 …三浦正幸先生
24日(土) トークショー「山城の魅力を語る!」 …春風亭昇太師匠 他
24日(土) 講演会「秀吉の小田原攻めの意義と背景」 …黒田基樹先生 他
24日(土) フォーラム「小田原攻めの実態に迫る」…小和田哲男先生、黒田基樹先生 他

これだけ豪華ですとちょっとしたクリスマスプレゼントのようです。全国のお城好きの方はぜひこの三日間はパシフィコ横浜へ!
もちろん「お城EXPO2016」の様子はこのブログにも掲載します。

第8回 日本城郭検定1級 合格しました! 解答掲載

ものすごく今更ですが6月19日(日)に行われた第8回 日本城郭検定1級に合格しました。

それなりに手応えは感じていたのですが、合格ラインが70点で、得点は73点でした。げっこうギリギリですね。前回の1級で既出の出題がなければ間違いなく不合格だったでしょう。1級の平均合格率は4.9%ということで、城好きの友人がいれば自慢できるかもしれません。全問正解した人はいるのでしょうか?

解答も公開されたでの、問題ページに白文字で掲載しました。反転させてご覧ください。これから受験する方の助けになれば幸いです。
問題と解答はこちら

第8回 日本城郭検定1級受験&問題掲載

2016/6/19に「第8回 日本城郭検定」が実施されました。年一回の1級開催回であり、今回も懲りずに受験しました。

日本城郭検定公式サイト

感想
二回目の1級開催ということもあり、前回と同じ問題がいくつか出題されました。勉強もほとんどせず、なかば運試しで受験した状態で、ベースとなる知識はほぼ前回と同じ。ですが、このいくつか出題された過去問のおかげで、点数を稼ぐことができました。合格ラインが70問なら、合格見込みありと言った感じです。
なにより実感したのは、実際に行った城のことはよく覚えているということです。犬山城の飾り華頭窓や、天守の構造などはその最たる例です。本物を見たからこそ問題を解いていて楽しく感じました。

出題傾向
出題範囲は幅広く、人物、合戦、建物、縄張り、歴史、築城技術、エピソードといったものが、あらゆる城から出題されました。写真や画像を見て回答する問題はひとつもありませんでした。
また、熊本地震で大きな被害を受けた熊本城の問題がまとまって出題されると考えていたのですが、熊本城関連の問題は数問だけでした。
先程も書きましたが、二回目の1級開催ということで過去問が数多く出題されました。1回目に難しすぎて印象に残っていた問題も出題されていました。「この本を書いた人物の城はどれか」などといった城と直接関わらない問題は、一度失敗して覚えるのが一番速いかもしれません。

実問題
というわけで問題を掲載します(誤字脱字もそのままです)。ご参考にどうぞ。正解は結果通知の後に記載します。

問001
前田利家は、金沢城に豪華絢爛な天守を築いたが、落雷により惜しくも消失した。消失したのはいつか。
1 明治14年(1881)
2 寛文2年(1662)
3 慶長7年(1602)
4 享保3年(1718)
正解→3 慶長7年(1602)
参考→KemaAkeの全国城めぐり – 金沢城

問002
平成27年に、金沢城玉泉院丸庭園の復元整備が完成した。前田利長正室であった玉泉院の父親は誰か。
1 丹羽長秀
2 徳川家康
3 上杉景勝
4 織田信長
正解→4 織田信長

問003
金沢城三御門と呼ばれていたのは、現存する石川門と復元された河北門、もう一つはどの門か。
1 黒鉄門
2 尾板門
3 橋爪門
4 鼠多聞
正解→3 橋爪門

問004
岩盤に穴を穿って柱穴を設け、特異な天守を建てていたのが岐阜県の苗木城だが、近年天守台に柱梁建物が復元された。復元されたのは何階部分の床面か。
1 四階
2 二階
3 一階
4 三階
正解→4 三階
参考→KemaAkeの全国城めぐり – 苗木城

問005
1615年、徳川幕府が「一国一城令」を発布したことにより、全国に存在する城の数は170城程度に整理された。発布以前の城の数はどれか。
1 500
2 2000
3 3000
4 1000
正解→3 3000

問006
遠江国は、後醍醐天皇の南朝方の拠点が多く存在していました。南朝方の拠点として、使用されていない城はどれか。
1 千頭峯城
2 杜山城
3 大平城
4 山岳城
正解→2 杜山城

問007
松本城二の丸太鼓櫓の櫓門脇には、高さ3.2m、推定重量26.5トンと言われる巨石が据えられている。この石を運搬途中、不平を言った人を見咎め、首をはねた武将にちなみ、石に名前が付けられている。何と呼ばれているか。
1 玄蕃石
2 五郎太石
3 平八石
4 作佐石
正解→1 玄蕃石
参考→KemaAkeの全国城めぐり – 松本城

問008
天守の最上階に廻縁を付けたにも関わらず、雨よけのために後に板で囲ってしまうことがあった。次の城のうち、板で囲われたのはどの城の天守か。
1 津山城
2 丸亀城
3 弘前城
4 和歌山城
正解→1 津山城
参考→KemaAkeの全国城めぐり – ?城

問009
天守の格式をあげるために、最上階に華頭窓を設けることがあったが、この格式高い窓を飾りとして貼り付けただけで、窓として機能していない天守が存在する。それは何城か。
1 広島城
2 彦根城
3 犬山城
4 姫路城
正解→3 犬山城
参考→KemaAkeの全国城めぐり – ?城

問010
現存する小諸城三の門には「懐古園」と書かれた扁額がかかっている。この扁額を書いたのは、何家の人か。
1 徳川家
2 牧野家
3 仙石家
4 西尾家
正解→1 徳川家
参考→KemaAkeの全国城めぐり – 小諸城

問011
甲府城の下段に置かれた曲輪の中で、存在しない曲輪はどれか。
1 数寄屋曲輪
2 井戸曲輪
3 鍛冶曲輪
4 楽屋曲輪
正解→2 井戸曲輪
参考→KemaAkeの全国城めぐり – 甲府城

問012
南北朝時代の築城と伝えられ、城下町には武家屋敷などが良好な状態で残されていることから、九州・沖縄地区で最初の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された城下町はどれか。
1 飫肥
2 高山城
3 知覧
4 人吉城
正解→1 飫肥

問013
歴代の甲府城主の中で、朝鮮半島で病没したのは誰か。
1 平岩親吉
2 羽柴秀勝
3 加藤光泰
4 浅野長政
正解→3 加藤光泰

問014
武田氏滅亡後、松代城(海津城)主となったのは誰か。
1 滝川一益
2 森長可
3 佐久間盛政
4 池田恒興
正解→2 森長可
参考→KemaAkeの全国城めぐり – 松代城

問015
室町時代の創築ながら、近世城郭で主流の水堀を2重にめぐらし、さらに巨大な土塁の断面を実物展示すると言う全国でも珍しい設備がある城はどれか。
1 勝龍寺城
2 三原城
3 多聞城
4 湯築城
正解→4 湯築城
参考→KemaAkeの全国城めぐり – ?城

問016
松代城には、土塁にトンネル状に穴を開けた埋門が復元されています。二の丸土塁には、何ヶ所同様の「埋門」が設けれていたか。
1 四ヶ所
2 三ヶ所
3 二ヶ所
4 一ヶ所
正解→2 三ヶ所

問017
天正13年、第一次上田城攻めを命じられた徳川直臣軍で城攻めに加わっていない武将は誰か。
1 天野康景
2 平岩親吉
3 鳥居元忠
4 大久保忠世
正解→1 天野康景

問018
織田信長は、日本から旅立つ宣教師を見送るため、孟蘭盆会の夜安土城を提灯で飾り付けた。この時、送られた宣教師は誰か。
1 ザビエル
2 フロイス
3 オルガンティーノ
4 ヴァリニャーノ
正解→4 ヴァリニャーノ
参考→KemaAkeの全国城めぐり – 安土城

問019
江戸幕府は、正保年間諸藩に命じて城絵図を作成させ提出させた。現在、重要文化財に指定されている絵図は全部で何城分か。
1 86城
2 63城
3 51城
4 74城
正解→2 63城

問020
戊辰戦争時、板垣退助率いる新政府軍が会津若松城攻めで最初に突破した惣構の入口はどこか。
1 宝積寺口
2 徒之町口
3 天神口
4 甲賀町口
正解→4 甲賀町口

問021
江戸幕府滅亡後、明治政府の許可を得て、櫓門3ヵ所、巽櫓や小麦山の三重櫓などの櫓が五ヵ所、堀も新造したのはどの城か。
1 大坂城
2 駿府城
3 江戸城
4 園部城
正解→4 園部城

問022
2015年、国宝に指定された松江城天守は、姫路城・松本城・犬山城・彦根城につづいて5件目となるが、天守の国宝指定は何年ぶりのことか。
1 84年ぶり
2 42年ぶり
3 28年ぶり
4 63年ぶり
正解→4 63年ぶり
参考→KemaAkeの全国城めぐり – 松江城

問023
石垣は背面地盤の後方向にもたれて安定していると同時に、水平横方向にももたれ合って安定している。石垣の水平方向の力を分散させ、石垣横方向の安定に不可欠で重要な技法はどれか。
1 出隅・入隅
2 根石
3 間詰め石
4 反り
正解→4 反り

問024
山鹿素行の「武教全書」によると、土を突き固めて構築する土居の場合、高さ3間の時の褶(馬踏み)2間、敷きは8間、勾配は45度となる。また外法は内法より急勾配とすることが望ましいとしている。この土居はなんというか。
1 突き固め
2 盛り土
3 強化
4 たたき
正解→4 たたき

問025
太平洋戦争時に、空襲被害を受け焼失しなかったのは次のどの門か。
1 江戸城桜田門
2 高松城桜御門
3 仙台城大手門
4 徳島城鷲之門
正解→1 江戸城桜田門

問026
現存する御殿遺構は、二条城二の丸御殿などわずか4棟だけだが、昭和24年まで和歌山城二の丸御殿が別の城へ移築され現存していた。どこの城に移されていたか。
1 江戸城
2 大坂城
3 名古屋城
4 彦根城
正解→2 大坂城
参考→KemaAkeの全国城めぐり – 大阪城

問027
『日本書紀』の「天智記」には、朝鮮半島からの侵入に備え、6つの城を築いたことが記されているが、記載がないのはどの城か。
1 高安城
2 屋嶋ノ城
3 鬼ノ城
4 金田城
正解→3 鬼ノ城

問028
松本城天守には、乾小天守と辰巳付櫓と月見櫓が付設しているが、どの建物が最も古くから天守に付設していたか。
1 すべて同時
2 辰巳付櫓
3 乾小天守
4 月見櫓
正解→3 乾小天守

問029
大坂冬の陣では、徳川家康が真田丸に対し攻撃しないよう指示したにもかかわらず、挑発に乗って攻めかけたのは誰か。
1 前田利常
2 脇坂安元
3 井伊直孝
4 松平忠直
正解→1 前田利常

問030
第二次世界大戦の空襲被害によって焼失した天守の中で、最初に再建された天守はどこか。
1 岡山城
2 大垣城
3 名古屋城
4 広島城
正解→4 広島城

問031
伊予松山城は、度々放火被害を受けた。昭和8年の放火により焼けていない建物は次のどれか。
1 南隅櫓
2 小天守
3 筒井門
4 十間廊下
正解→2 小天守
参考→KemaAkeの全国城めぐり – 松山城

問032
蝦夷との戦争に備えた城柵の、記録に残る所見は、大化3年(647)現在の新潟市沼垂付近に設置された城柵です。何という城柵か。
1 出羽柵
2 渟足柵
3 大野城
4 多賀城
正解→2 渟足柵

問033
石垣は、背面土中に雨水が浸透したり、土中水が凍結融解したりして、膨張収縮を繰り返している。安定性を正しく判断するには、変位などの長期データの傾向を調べ判定するが、崩落の危険性が高いと判断するのはどの場合か。
1 拡散
2 反復
3 収束
4 停止
正解→1 拡散

問034
長野県の飯田城は、明治新政府によって徹底的に破却されたが、1基のみ城門が残された。残っているのは、どの門か。
1 三の丸御門
2 宝蔵寺御門
3 水の手御門
4 桜丸御門
正解→4 桜丸御門

問035
伏見城は、三度にわたって築城され、2015年に最初の城といわれる指月伏見城の石垣や金箔瓦が出土し、その存在が確実になった。この城は、完成から五年後に自然災害によって破棄され、木幡山に新たな城が築かれた。城が破棄される原因となった自然災害はどれか。
1 山崩れ
2 洪水
3 落雷
4 地震
正解→4 地震

問036
織田信長は安土城築城に着手した翌年城下町整備のための「安土山下町中掟書」をだした。いわゆる楽市楽座だがこの掟書は何条で出来ているか。
1 13条
2 5条
3 3条
4 10条
正解→1 13条

問037
加藤清正が朝鮮出兵で、港を見下ろす山上に曲輪を築き、港と山上曲輪群を一体化するために登石垣によって囲い込んだ城は何城か。
1 順天城
2 西生浦城
3 蔚山城
4 金海竹島城
正解→2 西生浦城

問038
海を監視するために設けられた櫓を「潮見櫓」と言うが、次の城の中で城内に潮見櫓の存在が確認されていない城はどれか。
1 名護屋城
2 宇和島城
3 赤穂城
4 福岡城
正解→1 名護屋城
参考→KemaAkeの全国城めぐり – ?城

問039
吉田郡山城には「百万一心」と刻んだ石碑が残されている。城の拡張にあたって家臣が旅人を人柱にしようとしたが、毛利元就はこれを退けた。元就が、人柱の変わりに埋めたのは何か。
1 銀
2 仏像
3 地蔵
4 石
正解→4 石

問040
名古屋城天守は外観五重、内部は地上五階、地下一階であるが、各階の中で階高が一番大きい階は、床から天井まで7.5mあった。最も大きいのは何階か。
1 二階
2 一階
3 三階
4 四階
正解→3 三階
参考→KemaAkeの全国城めぐり – 名古屋城

問041
南北朝時代には、山岳寺院が城郭として利用されることも多かった。戦国時代の城塞化した寺院の典型例として、山門前に城塞を構え、坊院には高い石垣が築かれていたが、秀吉により滅ぼされた寺院はどれか。
1 根来寺
2 百済寺
3 敏満寺
4 弥高寺
正解→1 根来寺

問042
入母屋造の建物を天守台の上に設け、その屋根の上に物見と呼ばれる望楼を載せた天守を望楼型天守と呼ぶが、入母屋造りの建物が一階建てとなっている天守はどれか。
1 熊本城
2 犬山城
3 丸岡城
4 松江城
正解→3 丸岡城
参考→KemaAkeの全国城めぐり – ?城

問043
城の石垣にも残る大名の家紋だが、戦場における識別のため急速に広がったのはいつの時代とされるか。
1 安土桃山時代
2 鎌倉時代
3 平安時代
4 室町時代
正解→2 鎌倉時代

問044
毛利元就の築いた吉田郡山城の中には、寺院も存在していた。郡山城内に存在した寺院は何か。
1 胎蔵寺
2 観音寺
3 満願寺
4 金剛寺
正解→3 満願寺

問045
名古屋城天守の屋根瓦が、二重目以降全て銅瓦に葺き替えられたのは、いつの改修の時か。
1 天保年間(1830~44)
2 宝暦年間(1751~64)
3 享保年間(1716~36)
4 寛政年間(1789~1801)
正解→2 宝暦年間(1751~64)

問046
現在復元され公開されている名古屋城本丸御殿玄関一之間の襖に描かれている動物は、虎と何か。
1 龍
2 鹿
3 唐獅子
4 豹
正解→4 豹

問047
本年4月に発見され話題になった書状で、1577年頃の合戦前に、家臣に対して、「仁科衆の寝返りの恐れを指摘し、城の防備を強化し、昼夜を問わず油断しないように」と、直筆の文を書いた武将は誰か。
1 伊達政宗
2 織田信長
3 武田信玄
4 毛利元就
正解→全員正解

「仁科衆の寝返り」というフレーズでなんとなく武田信玄っぽく、実際に発見された書状は武田信玄自筆のものです。しかし信玄は1577年にはすでに死亡しているので、問題の年を間違えています。そのため問題として成り立たないため全員正解になりました。

問048
北東の隅を欠く独特な5角系をした鬼門櫓は、民家に移築されていたが、2008年に寄贈されて修復し、再移築された城はどれか。
1 上田城
2 日出城
3 四稜郭
4 龍岡城
正解→2 日出城

問049
「元和の一国一城令」の一国とは一大名領とされているが、しかし一国の中で支城とし残された城もある。仙台藩・伊達氏の支城として明治まで残されたのはどれか。
1 岩切城
2 白石城
3 大膳館
4 船岡城
正解→2 白石城
参考→KemaAkeの全国城めぐり – ?城

問050
後北条3代当主氏康の5男氏規は秀吉の小田原攻めの際秀吉と交渉したことで知られている。北条家滅亡の後、氏規の嫡子氏盛は北条の名跡を継ぎ、狭山城(陣屋)の城主となったが、狭山城は何処にあったか。
1 神奈川県
2 東京都
3 奈良県
4 大阪府
正解→4 大阪府

問051
城中に高き二間余の壇を造り、その上に五間と七間の矢倉を建てと江戸時代の書「遺老物語」にあり、天守があったとされる城はどれか。
1 尾張楽田城
2 尾張那古野城
3 尾張大高城
4 尾張沓掛城
正解→1 尾張楽田城

問052
播磨、美作、備前の三か国の守護として、勢力をふるった赤松氏の居城で秀吉によって秀吉によって廃城とされた城はどれか。
1 置塩城
2 美作岩屋城
3 津山城
4 波賀城
正解→1 置塩城

問053
2013年からの発掘調査の結果、伊達晴宗から政宗の時代と推定される遺構が見つかり、「伊達家山城と山麓居館」として昨年末に国史跡として文化審議会に答申された城跡はどれか。
1 館山城
2 岩出山城
3 桑折西山城
4 梁川城
正解→1 館山城

問054
穴太家の古文書には或る大名の「知行宛行書」が残っており、大名に召し抱えられた石工集団としては初めて事例とされているが、その大名とは誰か。
1 小早川隆景
2 上杉景勝
3 前田利家
4 石田三成
正解→3 前田利家

問055
『鍋島直茂譜考補』の記事に、慶長14年(1609)佐賀城天守が竣工したことを述べた後に「今年、日本国中の天守の数、○○立つ」とあるが、その数をいくつとしているか。
1 三十五
2 二十五
3 二十
4 十五
正解→2 二十五

問056
秀吉の正室北の政所の甥・木下利房は豊臣家が滅びたのちも2万5千石を与えられ、木下家は陣屋大名として明治まで存続した。それはどの藩か。
1 米子藩
2 津山藩
3 足守藩
4 成羽藩
正解→3 足守藩

問057
近世城郭の城門は種類も多いが、その基本構造は変わらない。次の中で基本構造に入らないのはどれか。
1 鏡柱
2 冠木
3 控柱
4 切妻造屋根
正解→4 切妻造屋根

問058
徳川家康が高天神城を奪回するために築城し、丸い川原石を積んだ独特な石垣が本丸周辺などに復元されている城はどれか。
1 掛川城
2 諏訪原城
3 馬伏塚城
4 横須賀城
正解→4 横須賀城

問059
高麗門は最も進化した城門だが、建て方によって旧式と土塀より高く立ち上がる新式がある。新式の高麗門がある城はどれか。
1 名古屋城
2 姫路城
3 江戸城
4 二条城
正解→3 江戸城

問060
江戸の町家は密集しているうえ屋根が茅葺などのため火事で類焼しやすかった。幕府は様々な防火対策をとってきたが、贅沢ということで制限していた瓦屋根と塗籠の家をついに解禁した。それはいつか。
1 文政元年(1818年)
2 万治3年(1660年)
3 明暦3年(1657年)
4 享保5年(1720年)
正解→4 享保5年(1720年)

問61
次の櫓門の中で、二階部分が石垣上に乗らない問はどれか。
1 新発田城本丸表門
2 弘前城追手門
3 佐賀城鯱の門
4 彦根城太鼓門
正解→2 弘前城追手門
参考→KemaAkeの全国城めぐり – ?城

問62
土塀の一つに築地塀がある。中世の寺院などに使われたが、城郭に現存するものは少ない。姫路城の築地塀は知られているが次の城の中で築地塀があるのはどれか。
1 備中松山城
2 松山城
3 大坂城
4 二条城
正解→4 二条城
参考→KemaAkeの全国城めぐり – ?城

問63
城石垣の石材は、その地方で採取し易いものを用いることが多い。金沢城で用いられている石材は、耐熱性が高く、見た目に美しい。それはどれか。
1 戸室石
2 大岩石
3 花崗岩
4 尺谷石
正解→1 戸室石

問64
名古屋城天守と小天守を結ぶ橋台の土塀の軒先には、30cm程の槍の穂先を並べた忍び返しが採用されている。この塀を何塀と呼ぶか。
1 槍付塀
2 返し塀
3 土塀
4 剣塀
正解→4 剣塀

問65
現存する福山城伏見櫓は、解体修理に際し梁の刻印に「伏見城」の櫓名が書かれており、伏見城のどこにあったかが確認された唯一の櫓である。この櫓は伏見城のどこにあった櫓か。
1 山里丸
2 松の丸
3 西の丸
4 二の丸
正解→2 松の丸

問66
戦国武将三好長慶の居城で、最近の分布調査によりほぼ全山が石垣によって築かれていることが明らかになった城はどれか。
1 下赤坂城
2 多聞山城
3 引田城
4 飯盛城
正解→4 飯盛城

問67
伊予松山城に見られる土塀の控柱は、土塀に対して斜めに立て掛けてある。この控柱は、下部と上部では材質が異なっているが、下部に用いられているのは何か。
1 銅材
2 石材
3 鉄材
4 木材
正解→2 石材

問68
熊本城南側の登城口を固める平櫓で、西側書物櫓と共に虎口防衛の要であった両端に石落しを配した櫓はどれか。
1 頬当櫓
2 戌亥櫓
3 馬具櫓
4 櫨方櫓
正解→3 馬具櫓
参考→KemaAkeの全国城めぐり – 熊本城

問69
熊本城に設けれた堀の大部分は空堀であるが、飯田丸五階櫓の西下に位置する堀は、水堀となっている。この堀はなんと呼ばれているか。
1 角兵衛堀
2 肥後堀
3 備前堀
4 平左衛門堀
正解→3 備前堀

問70
沖縄のグスク特有の逆U字型をしたもんを石造拱門(アーチ門)というが、首里城の次の門のうち、石造拱門でない門はどれか。
1 奉神門
2 木曳門
3 歓会門
4 久慶門
正解→1 奉神門

問71
熊本城竹の丸から飯田丸へ上がる通路が、我が国最強の防備を誇る通路と言われている。この通路の最初に位置する門はなんと呼ばれているか。
1 源之進御門
2 竹之丸御門
3 山崎口御門
4 元札櫓御門
正解→4 元札櫓御門

問72
「巻石垣」と呼ばれる、石垣全体が丸く積み上げられて、亀の甲羅のように高くした石垣の復元を行った城は何城か。
1 鳥取城
2 岩村城
3 西尾城
4 仙台城
正解→1 鳥取城
参考→KemaAkeの全国城めぐり – ?城

問73
熊本城小天守地下一階には、石組で深さ40mの井戸が設けられてた。このように、天守もしくは小天守内部に井戸が設けられなかった天守はどれか。
1 彦根城
2 松江城
3 浜松城
4 名古屋城
正解→1 彦根城
参考→KemaAkeの全国城めぐり – ?城

問74
近世城郭の防衛施設として土塀が多用されたが、土塀の要所に敵の動きを見張る物見窓が造られていた。物見窓がある現存の土塀を持つ城はどれか。
1 佐賀城
2 小倉城
3 萩城
4 高知城
正解→4 高知城
参考→KemaAkeの全国城めぐり – ?城

問75
伊那の高遠城址公園は、全国的な桜の名所で知られている。城址に咲き乱れる桜は、何と呼ばれる種類か。
1 ギョイコウ
2 ソメイヨシノ
3 カワヅザクラ
4 コヒガン
正解→4 コヒガン

問76
品川台場、五稜郭などで使用されている跳出が、石垣の勾配の一つとして挙げている軍学書はどれか。
1 甲陽軍鑑
2 武教全書
3 海国兵談
4 山鹿流兵法伝書
正解→3 海国兵談

問77
太平洋戦争による空襲で多くの天守が消失したが、次の中で、3重の天守だったのはどれか。
1 和歌山城
2 大垣城
3 岡山城
4 福山城
正解→1 和歌山城
参考→KemaAkeの全国城めぐり – ?城

問78
室町時代中期の創築とされる山城で、1990年代の発掘調査により戦国時代の遺構が良好な状態で残されている事が分かり、井楼など全国的に見て珍しい山城の丸ごと復元が行われた。武田軍と徳川軍が争ったこの城はどれか。
1 高根城
2 三岳城
3 宇津山城
4 二俣城
正解→1 高根城

問79
大坂城の青屋口にあった煙硝蔵に落雷して約82トンの火薬が爆発、天守や櫓が破損し、多くの死傷者が出た事件が起こったのはいつか。
1 1603年(慶長8年)
2 1660年(万治3年)
3 1685年(貞享2年)
4 1716年(享保元年)
正解→2 1660年(万治3年)

問80
平安時代初期、延暦22年(803年)坂上田村麻呂が造営し、四方が築地塀と土塁で囲まれた古代城柵で、発掘調査で現在の青森市にあることが確認された城はどれか。
1 胆沢城
2 伊治城
3 多賀城
4 志波城
正解→4 志波城

問81
朝鮮半島には約800か所の城跡が確認されているが、朝鮮半島の城の基本形は中国東北地方で発達した。北・東・西の三面は山に囲まれその稜線を石積みで囲み、南面は平地に開けた様態の山城で、何型と呼ばれるか。
1 新羅型
2 任那型
3 高句麗型
4 百済型
正解→3 高句麗型

問82
戦国期の武将大関氏は関東では珍しく外様大名でありながら転封されることもなく明治まで続いた。城下町には松尾芭蕉が奥の細道時に1か所として最長の14日滞在したが、その城はどれか。
1 黒羽城
2 白河小峰城
3 烏山城
4 黒須城
正解→1 黒羽城

問83
多門櫓の中で二重又は二階の多門櫓が現存している城は3城だけである。次の中で二重、二階の多聞櫓が無い城はどれか。
1 姫路城
2 津和野城
3 金沢城
4 名古屋城
正解→4 名古屋城

問84
塀の内側に塀と直角に設け、歩板などを渡し、塀外の敵に攻撃を加えることができる設備はどれか。
1 出張塀
2 仕切塀
3 控塀
4 横塀
正解→3 控塀

問85
北条流の「兵法雄鑑」で土図盤で築城計画をするように記述があるのはどの縄張りの城か。
1 平城
2 山城
3 水城
4 平山城
正解→2 山城

問86
江戸中期の田沼時代や寛政の改革など政治、社会の様々なことが活写されている随筆「甲子夜話」を執筆した名を清、号を静山という藩主が
たのはどの城か。
1 米沢城
2 福岡城
3 平戸城
4 水戸城
正解→3 平戸城
参考→KemaAkeの全国城めぐり – ?城

問87
津城跡には、昭和33年に模擬三重櫓が建てられた。この櫓が建てられたのは、次のどの櫓の跡か。
1 西の丸丑寅櫓台
2 西の丸戌亥櫓台
3 本丸丑寅櫓台
4 本丸多聞櫓台
正解→4 本丸多聞櫓台

問88
藤堂高虎が築いた津城の本丸には、東西二ヶ所に虎口が設けられていた。この両虎口は、共に同一構造だが、どんな構造の虎口か。
1 内枡形虎口
2 平虎口
3 喰違い虎口
4 外枡形虎口
正解→1 内枡形虎口

問89
熊本城東北隅部を囲む櫓は、北十八間櫓と五間櫓(共に重要文化財)と、その西にあった櫓が連続し、さらに不開門へと続いていました。西にあった櫓の名称は何か。
1 六間櫓
2 八間櫓
3 十間櫓
4 十二間櫓
正解→1 六間櫓

問90
西の丸は徳川家康が隠居所を江戸城の今の西の丸に築いたのが起源だと言われるが、次の中で西の丸が無いのはどれか。
1 和歌山城
2 水戸城
3 姫路城
4 岡山城
正解→2 水戸城

問91
複合式天守は、天守に付櫓等が付設する形式の天守で、通常この付櫓を経由して天守の中に入るが、下記の天守の中で直接天守に入る入口があるのはどれか。
1 大垣城
2 備中松山城
3 松江城
4 彦根城
正解→4 彦根城

問92
望楼型天守の利点は、どんなにゆがんだ平面の天守台にも建てられることであるが、望楼型を代表する岡山城の天守台は、何角系か。
1 八角形
2 六角形
3 五角形
4 七角形
正解→3 五角形
参考→KemaAkeの全国城めぐり – 岡山城

問93
直江兼続率いる上杉景勝軍が、最上義光の治める山形城を攻めるために、その支城で志村光安が籠る城を攻めたが、関ケ原で西軍が大敗したため撤退した。「北の関ケ原」と呼ばれた戦いの舞台となった城は何城か。
1 松山城
2 長谷堂城
3 中野城
4 亀ヶ崎城
正解→2 長谷堂城

問94
現存する天守のうち、唯一弓や鉄砲で射撃をするための狭間が存在しない城があるが、何城の天守か。
1 高知城
2 伊予松山城
3 丸亀城
4 宇和島城
正解→4 宇和島城
参考→KemaAkeの全国城めぐり – ?城

問95
英国王の使節としてイギリス船としては初めて来日した東インド会社貿易船司令官モーリスセーリスが、江戸城で拝謁した将軍は誰か。
1 徳川家康
2 徳川秀忠
3 徳川家光
4 徳川綱吉
正解→2 徳川秀忠

問題文訂正ありました。どうりでモーリスで調べてわからないわけです。

問96
天守や櫓の屋根の上に載った瓦のうち、大棟の先端や隅棟の先端につけられた瓦を何と呼ぶか。
1 鯱瓦
2 鬼瓦
3 熨斗瓦
4 三角瓦
正解→2 鬼瓦

問97
天守や櫓の外壁は、防火と防弾のために土塀で塗り固められていた。外壁の壁に柱の形を見せる仕上げをした壁を何と呼ぶか。
1 漆喰造
2 大壁造
3 真壁造
4 長押造
正解→3 真壁造

問98
高天神城を武田勝頼に奪われた徳川家康は、天正6~8年にかけて高天神包囲の六砦を構築し、城を囲い込んだ。次のうち六砦に含まれないのはどれか。
1 横須賀砦
2 三井山砦
3 小笠山砦
4 中村砦
正解→1 横須賀砦

問99
平成25年(2013)、伊勢亀山城多門櫓の修理が完成し、江戸時代の姿に戻されたが、どのような外観の櫓として完成したか。
1 白漆喰層塗籠
2 総板張
3 下見板張
4 海鼠壁
正解→1 白漆喰層塗籠

問100
戦国大名、大内氏が毛利氏の攻撃に備えて築城中の城だったが、大内氏滅亡後、毛利氏が完成させた。その後一国一城令によって1638年(寛永15年)に廃城になった国史跡の城はどれか。
1 若山城
2 高嶺城
3 岩国城
4 荒瀧城
正解→2 高嶺城