早川口二重外張発掘調査見学会

早川口二重外張は早川に面した(とは言っても早川までは結構な距離があります)小田原城惣構の虎口で、熱海方面に向かう街道(熱海道)に対応した城門でした。その名前の示すとおり、土塁と堀を二重に配した構造で、低地部で確認できる数少ない小田原城惣構の遺構です。
これまで小田原城惣構の低地部の遺構は、本格的な発掘調査が行われていませんでした。今回の早川口二重外張の発掘調査がその最初の例になるそうです。
現地発掘調査説明会が2017年12月2日(土)に開催されたので、その様子をお知らせします。

早川口二重外張全景

早川口二重外張全景その一

早川口二重外張全景その一

早川口二重外張全景その二

早川口二重外張全景その二

早川口二重外張はその名の示すとおり、土塁が二重になっています。この当たりは明治時代遺構に屋敷の庭園としてかなりの改変を受けていますが、外側の土塁と内側の土塁に挟まれた谷のような地形を確認することが出来ます。東側(内側)は標高10メートル程度、南側は標高8メートル以下で、早川に近づくにつれて標高が低くなっていきます。また土塁に沿って西から南へ小田原用水の分流が今でも流れています。

5トレンチ・7トレンチ

5トレンチ

5トレンチ

7トレンチ

7トレンチ

5トレンチでは現況地形が明治以降に大きく改変されているとがわかりました。特に興味深かったのは5トレンチで、ここでは近代に掘られた穴に大量の海砂が詰まっていました。これは1902年9月28日に発生した小田原大海嘯で陸に上がった海砂を捨てた跡ではないかとのことでした。こんなところに近代小田原の歴史の一旦が埋もれているとは驚きです。
7トレンチを始めとした内側土塁の側からは、江戸時代に水田として利用されていたと考えられる土の堆積が確認できました。水分を多く含んだ状態が続くと、土の中の酸素が減り、土が青緑色になるようです。街中で発掘調査をして、このような青緑色の地層が出た場合は大体が水田だとか。またひとつ勉強になりました。

6トレンチ

6トレンチその一

6トレンチその一

5・6トレンチ全景

5・6トレンチ全景

6トレンチその二

6トレンチその二

今回の見学会で最も見ごたえがあったのが、外側の土塁を試掘した6トレンチになります。このあたりは今でも土塁らしさをとどめており、その土塁の断面を確認することが出来ました。
驚いたことにここでは「土塁」と言いながら、その芯から大量の石材が使用されている状況が確認できました。石材と土で土塁の中心を造り、それを土で覆って土塁としているイメージです。小田原市史には海岸線(浜町)の惣構土塁において「石がまとまって出土したといわれている」という記述があり、今回確認できた遺構の状況と合致しており、低地部惣構土塁の構造上の特徴である可能性が高まりました。
低地部の土塁としては、惣構東側の蓮上院周辺にも残されていますが、もしかしたら蓮上院の土塁も掘り返してみると石が大量に出てくるかもしれません。あるいは、早川口は早川が近く川石の入手が容易なため、とりあえず資材として使ったという可能性もありますが。
しかし、土塁は芯まで土で埋まっているものというのが私の常識であったため、土の中から石が出てきたことには驚きました。

8トレンチ

8トレンチ

8トレンチ

8トレンチでは外側土塁の法面、二重の土塁の間隔が狭くなっている部分から砂利敷きが確認されました。砂利敷きについては、虎口内の通路ではないかと考えられますが、今後のさらなる調査が必要なようです。

小田原 歴史的町名碑めぐり その二

小田原 歴史的町名碑めぐり その一の続きです。
これまでの小田原 歴史的町名碑めぐり。

小田原 歴史的町名碑めぐり その一

016 竹花広小路(たけのはなひろこうじ)2017/02/26撮影
「地名の由来は、井細田口の木戸から府内に入る甲州道を少し上って裏組に分岐する地点までの小路で、特に道幅が広くなっていたから「竹花広小路」といわれていた。」
このあたりは国道255号線がクランク状になっており、これはかつての井細田口の名残です。付近には暗渠になっていますが、かつての惣構の堀の一部が残っています。

016-01-01_竹花広小路

016-01-01_竹花広小路

016-01-02_竹花広小路

016-01-02_竹花広小路

017-01 先町(さきちょう)2017/02/26撮影
017-02 先町(さきちょう)2017/02/26撮影

「地名の由来は竹花町の町境から竹花広小路にかけての甲州道の両側に、表組の先手筒(先鋒の鉄砲隊)と先手弓(先鋒の弓組)の御組長屋があったことにより、これらを総称して「先町」といった。」

017-01-01_先町

017-01-01_先町

017-01-02_先町

017-01-02_先町

017-02-01_先町

017-02-01_先町

017-02-02_先町

017-02-02_先町

018-01 竹花町(たけのはなちょう)2017/02/26撮影
018-02 竹花町(たけのはなちょう)2017/02/26撮影

「この町は、小田原北条氏時代からある北の城門であった井細田口の近く、江戸時代末期には郷宿(ごうやど・公用で藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)や日用雑貨品などを売る店が多く、城下町の出入口らしい町並みであった。」

018-01-02_竹花町

018-01-02_竹花町

018-01-01_竹花町

018-01-01_竹花町

018-02-01_竹花町

018-02-01_竹花町

018-02-02_竹花町

018-02-02_竹花町

019 裏組(うらぐみ)2017/02/26撮影
「この地は、持筒(鉄砲隊)や持弓(弓隊)の人たちが住む組長屋であった。地名の由来は甲州道筋の御組長屋を「表組」と呼んだのに対し、これと対象的に「裏組」といった。なお、明治以降は、「浦町」と呼ばれるようになった。」

019-01-01_裏組

019-01-01_裏組

019-01-02_裏組

019-01-02_裏組

020 半幸町(はんこうちょう)2017/02/26撮影
「この地名は、「貞享三年御引渡記録」(一六六八年)に「竹花裏はんこ町」として見られる。江戸時代後期、この地には長沼流軍学者山下与太夫が住み、彼は四国から菱(ひし)の種子を取り寄せ、忍びの者の侵入を防ぐため小田原城の堀にこれを植えたとの伝承もある。」

020-01-01_半幸町

020-01-01_半幸町

020-01-02_半幸町

020-01-02_半幸町

021-01 須藤町(すとうちょう)2017/02/26撮影
021-02 須藤町(すとうちょう)2017/02/26撮影

「町名の由来は、小田原北条氏の総職人頭で、北条氏の領内の職人を統括する立場にあった須藤惣左衛門が住んでいたためといわれている。町並みには商家が多く、江戸時代を通じ有力な商人が住んでいた。」
このあたりには古くからのお店も多く、中でも寛文元年(1661)に創業した、茶製品と和紙を扱う「江嶋」は小田原屈指の老舗です。

021-01-01_須藤町

021-01-01_須藤町

021-01-02_須藤町

021-01-02_須藤町

021-02-02_須藤町

021-02-02_須藤町

021-02-01_須藤町

021-02-01_須藤町

022 錦織町(にしこりちょう)2017/02/26撮影
「この地内に「錦織明神」がまつられていたところから「錦織町」(東海道分間延絵図)といわれた。明治以降は、「錦織横町」と呼ばれ、現在の「錦通り」の那覇、この「錦織神社」や「錦織町」に由来する。」

022-01-01_錦織町

022-01-01_錦織町

022-01-02_錦織町

022-01-02_錦織町

023 愛宕下(あたごした)2017/02/26撮影
「この地の西側にあった小高い丘の上には、古くから摩利支天(まりしてん)が祀られ、この山を「愛宕山」と呼んだ。この丘の東側の地なので愛宕下と呼ばれ、江戸時代前期のの稲葉氏時代(一六三二~八五年)には田畑の中に武家屋敷が点在していた。しかし、江戸時代の後期になると、道路の両側に組長屋が造られ、武家地の性格が強まった。この道路を中心にして「愛宕通り」とも呼んだ。」

023-01-01_愛宕下

023-01-01_愛宕下

023-01-02_愛宕下

023-01-02_愛宕下

024 新蔵(しんくら)2017/02/26撮影
「稲葉氏時代、小田原城主稲葉氏がこの地に新たに蔵屋敷を建てた。そこで、以前からあった小田原城三の丸弁財天曲輪の蔵を「本(元)蔵」と呼び、こちらを「新蔵」と呼ぶようになった。なお、この地を「新蔵屋敷」ともいい、幕末には八棟の蔵が並んでいた。」

024-01-01_新蔵

024-01-01_新蔵

024-01-02_新蔵

024-01-02_新蔵

025 揚土(あげつち)2017/02/26撮影
「地名の由来は、小田原城三の丸の空堀を造成した時の土や、そこに流入した土砂をこの地に揚げて埋め立てたためといわれている。ここは小田原城の城門の一つであった谷津口門に近く、小田原城を守る重要な地点でもあった。なお、揚土で植栽されたいた梅の実は、種子が小さく、果肉が厚いため「揚土の梅」と呼ばれ、食用に珍重したといわれる。」
現在の小田原駅が建っているのが揚土で、石碑も小田原駅ロータリーの中にあります。近くには小田原高校発祥の地の石碑もあります。

025-01-01_揚土

025-01-01_揚土

025-01-02_揚土

025-01-02_揚土

025-01-03_揚土

025-01-03_揚土

026 高部屋(たかべや)2017/02/26撮影
「稲葉氏時代、ここに鷹匠(たかじょう)の屋敷が設けられていたため、この地は「鷹部屋」、「高部屋」などと呼ばれていた。しかし、江戸時代中期以降は、専ら侍屋敷となっていた。」
現在は、小田原駅東口周辺の小田原市街の繁華街がこのあたりになります。

026-01-01_高部屋

026-01-01_高部屋

026-01-02_高部屋

026-01-02_高部屋

027-01 上幸田(うわこうだ)2017/02/26撮影
027-02 上幸田(うわこうだ)2017/02/26撮影

「地名の由来は、小田原北条氏時代、北条氏の家臣幸田氏がこの地に居住していたからといわれている。この地は、小田原城内に入る門の一つ、幸田門から北へ走る道路の両側にあった長方形の侍町で、隣の下幸田とともに、幸田門を守る重要な位置にあった。」

027-01-01_上幸田

027-01-01_上幸田

027-01-02_上幸田

027-01-02_上幸田

027-02-01_上幸田

027-02-01_上幸田

027-02-02_上幸田

027-02-02_上幸田

028 下幸田(しもこうだ)2017/02/26撮影
「地名の由来は、小田原北条氏時代、北条氏の家臣幸田氏がこの地に居住していたからといわれている。この地は、小田原城内に入る門の一つ、幸田門近くにあり、隣の上幸田とともにこの門を守る侍町にふさわしいたたずまいであった。」

028-01-01_下幸田

028-01-01_下幸田

028-01-02_下幸田

028-01-02_下幸田

029 藪幸田(やぶこうだ)2017/02/26撮影
「この地名は、小田原北条氏時代、北条氏の家臣幸田氏が居住していたためといわれる。下幸田(しもこうだ)・上幸田(うわこうだ)の西方に位置し、幕末には藩士の住まいが約十六軒あった。」

029-01-01_藪幸田

029-01-01_藪幸田

029-01-02_藪幸田

029-01-02_藪幸田

030 日向屋敷(ひゅうがやしき)2017/02/26撮影
「地名の由来は、慶長十九年(一六一四)、小田原城主大久保忠隣が改易(かいえき)となった時、その夫人である「日向御前」が閉居した屋敷跡があったためといわれている。江戸時代末期には、約十四軒の藩士の住まいがあった。」

030-01-01_日向屋敷

030-01-01_日向屋敷

030-01-02_日向屋敷

030-01-02_日向屋敷

小田原 歴史的町名碑めぐり その一

生まれも育ちもずっと小田原の私ですが、物心がついたときには小田原の街中のあちこちに昔の地名を記した、この石碑が建っていました。これまでなんとなく眺めてきた石碑ですが、全部でどのくらいの数が有るのだろうと思っていました。最近、小田原市のサイトでこの石碑の場所を網羅した資料を見つけたので、街中めぐりも兼ねて全てを写真に収め、町並みを記録しようと思い立ちました。

市のサイトによると、昭和60年度から設置を初め、105カ所にあるようです。同じ町名で複数の石碑となっている場合もあり、町名の数はこれより少ないです。
石碑はかつての小田原城惣構の内側に点在しており、広範囲に広がっています。
小田原駅周辺に長年住んでいますが、実はまだ足を踏み入れたことのない場所が多いことに驚きながら、写真を撮っていきたいと思います。

なお、石碑の掲載順番は私が巡った順番となります。

001 大新馬場(おおしんばば)2017/02/11撮影
「地名の起りは、南隣の中新馬場と区別するため新たにこの名がついたと考えられる。江戸時代の藩主稲葉氏の「永代日記」の天和二年(一六八二)3月の記録に「竹花町に近く新馬場があり、足軽小屋を設けた」とあるのは、この大新馬場のことと思われる。」

001-01-01_大新馬場

001-01-01_大新馬場

001-01-02_大新馬場

001-01-02_大新馬場

002 渋取(しぶとり)2017/02/11撮影
「古い時代の渋取は、花ノ木の北方の広い区域を示す地名であった。ところが、天正十八年(一五九〇)の豊臣秀吉の小田原攻めに備え、北条氏が小田原城惣構(そうがまえ)を築いたとき、渋取は惣構の内側と外側に分断された。この地域は内側の渋取で、江戸時代のはじめは町人地であったが、稲葉氏の時代に武家地に変えられ、その範囲も「渋取口」付近の極く限られた区域を指すようになった。」

002-01-02_渋取

002-01-02_渋取

002-01-01_渋取

002-01-01_渋取

003 中新馬場(なかしんばば)2017/02/11撮影
「地名の起こりは、古くはここが馬場に利用されていたためと考えられる。稲葉氏時代(一六三二~八五年)にはここに十二軒ほどの藩士屋敷があったが、幕末には大久保藩士の屋敷として約十六軒に増えている。」

003-01-01_中新馬場

003-01-01_中新馬場

003-01-02_中新馬場

003-01-02_中新馬場

004 七枚橋(しちまいばし)2017/02/11撮影
「抹香町から大新馬場に通ずる道路と護摩堂川とが交差するところに、七枚の切石を並べて作った石橋があり、「七枚橋」といわれていたという。後にこれが付近の地名となった。」

004-01-01_七枚橋

004-01-01_七枚橋

004-01-02_七枚橋

004-01-02_七枚橋

005 花ノ木(はなのき)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代の花ノ木は、主として蓮乗院の寺地であった。江戸時代にはその一部が武家地などに変わった。」

005-01-01_花ノ木

005-01-01_花ノ木

005-01-02_花ノ木

005-01-02_花ノ木

006-01 新宿町(しんしくちょう)2017/02/11撮影
006-02 新宿町(しんしくちょう)2017/02/11撮影
「江戸時代前期、城の大手口変更によって東海道が北に付け替えられた時にできた新町。町は、藩主帰城の時の出迎場であったほか、郷宿(ごうやど-藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)や茶店があり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。」

006-01-01_新宿町

006-01-01_新宿町

006-01-02_新宿町

006-01-02_新宿町

006-02-01_新宿町

006-02-01_新宿町

006-02-02_新宿町

006-02-02_新宿町

007-01 古新宿町(こしんしくちょう)2017/02/11撮影
007-02 古新宿町(こしんしくちょう)2017/02/11撮影
「この町は、もと新宿町と呼ばれていたが、江戸時代前期、東海道が町の北寄りにつけかえられたとき、新たな東海道沿いに町ができ、これを新宿町としたため、この町を古新宿町と改めた。千度小路とともに漁業の中心地であった。」

007-01-01_古新宿町

007-01-01_古新宿町

007-01-02_古新宿町

007-01-02_古新宿町

007-02-01_古新宿町

007-02-01_古新宿町

007-02-02_古新宿町

007-02-02_古新宿町

008 鍋町(なべちょう)2017/02/11撮影
「この町の規模は、はっきりしないが、古新宿町と新宿町の一部を含む小町だった。小田原北条氏時代から町には鍋などを作る鋳物師(いもじ)が多く住んでいたので、この名がついたといわれている。」
鍋町付近には、早川浄水跡の碑があります。
「昔、西方の板橋村で早川を分水して山門町を通り、旧東海道を疏通して鍋町の屋並に沿って東に流れ新宿から山王松原江戸口の連池に入った。」

008-01-01_鍋町

008-01-01_鍋町

008-01-02_鍋町

008-01-02_鍋町

008-01-03_鍋町

008-01-03_鍋町

009 十王町・抹香町(じゅうおうちょう・まっこうちょう)2017/02/11撮影
「十王町は、別にこの付近の武家地も含んで抹香町とも呼ばれた。地名の由来は、十王堂(閻魔堂・えんまどう)のほか近くに寺が多く、線香の煙がいつもたえなかったからと言われている。」

009-01-01_十王町・抹香町

009-01-01_十王町・抹香町

009-01-02_十王町・抹香町

009-01-02_十王町・抹香町

010 唐人町(とうじんちょう)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代、中国人が遭難して小田原に漂着し、その中の四十余人が許されてこの地に居住したので、「唐人村」と呼ばれていたことが、唐人町の名称と関係があるものと考えられている。唐人町の通りは、寛永年間(一六二四~四三年)、将軍家光の上洛に先立ち、小田原城大手門に至る御成道(おなりみち)として新設されたもので、その東端には土塁をともなった柵門(黒門)が設けられていた。」

010-01-01_唐人町

010-01-01_唐人町

010-01-02_唐人町

010-01-02_唐人町

011-01 万町(よろっちょう)2017/02/11撮影
011-02 万町(よろっちょう)2017/02/11撮影
「町名は古くから「よろっちょう」とよばれた。町内には、七里役所という紀州(和歌山)藩の飛脚継立書(ひきゃくつぎたてじょ)があった。江戸時代末期には、旅籠(はたご)が五軒あり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。」

011-01-01_万町

011-01-01_万町

011-01-02_万町

011-01-02_万町

011-02-01_万町

011-02-01_万町

011-02-02_万町

011-02-02_万町

012 高梨町(たかなしちょう)2017/02/11撮影
「東海道から北へ向かう甲州道の起点に当たり、古くから商家、旅籠(はたご)が並んでいた。町の中央南寄りには下(しも)の問屋場(人足や馬による輸送の取継ぎ所)が置かれ、中宿町の上(かみ)の問屋場と十日交代で勤めていた。」

012-01-01_高梨町

012-01-01_高梨町

012-01-02_高梨町

012-01-02_高梨町

013-01 青物町(あおものちょう)2017/02/11撮影
013-02 青物町(あおものちょう)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代、町内に野菜の市(いち)が開かれていたのでこの名がついたといわれ、商人の多い町であった。東京の日本橋にあった青物町は、徳川家康のころ江戸の町づくりのため、この土地の人たちが移り住んだ町といわれる。」

013-01-01_青物町

013-01-01_青物町

013-01-02_青物町

013-01-02_青物町

013-02-01_青物町

013-02-01_青物町

013-02-02_青物町

013-02-02_青物町

014-01 宮前町(みやのまえちょう)2017/02/11撮影
014-02 宮前町(みやのまえちょう)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代には上町・下町に分かれていたと伝えられている。町の中央に城主専用の入口、浜手門口高札場(幕府の法令などを掲示する場所)があり、江戸時代末期、町内には本陣一、脇本陣二、旅籠(はたご)が二十三軒あって、本町とともに宿場町の中心であった。
宮前町には小田原宿に四軒あった本陣のうちの筆頭で、町年寄も勤めた清水金左衛門の本陣がありました。この本陣の敷地面積はおよそ二四〇坪で、大名や宮家などの宿泊に当てられました。明治天皇もここに五回ほど宿泊しており、それを記念した石碑が残されています。

014-01-01_宮前町

014-01-01_宮前町

014-01-03_宮前町

014-01-03_宮前町

014-02-01_宮前町

014-02-01_宮前町

014-02-02_宮前町

014-02-02_宮前町

015-01 宮小路(みやこうじ)2017/02/11撮影
「町名の由来は、松原神社の門前にあたるためといわれている。この横町は、神社の門前から東へ伸び、青物町に至るまでの通りをいう。」
宮小路にある松原神社は、小田原北条氏時代から江戸時代に至るまで、小田原城主から崇敬され、小田原宿の総鎮守とされた神社です。創建の時期は不明ですが、かつては鶴の森明神、松原大明神と呼ばれてました。
ここには可愛らしい亀をかたどった石があります。これは小田原の海岸に現れた大亀に由来するもので、これを吉兆として氏康は松原神社に参詣し舞を奉納しました。翌年、日本三大夜戦のひとつ、河越夜戦で北条氏康は寡兵で敵を打ち破り、関東制覇に大きな一歩を踏み出しました。

015-01-01_宮小路

015-01-01_宮小路

015-01-02_宮小路

015-01-02_宮小路

015-01-03_宮小路

015-01-03_宮小路

早川石丁場群関白沢支群見学会

11月6日(土)に行われた早川石丁場群関白沢支群(はやかわいしちょうばぐんかんぱくさわしぐん)の現地見学会の様子をお伝えします。この見学会は今年3月に早川石丁場群関白沢支群(小田原市)、中張窪(ちゅうばりくぼ)石丁場(静岡県熱海市)、宇佐美北部石丁場群(静岡県伊東市)が江戸城石垣石丁場跡として国指定史跡となったことをきっかけに開催されました。一夜城の近くに江戸城のための石切場跡があるということは聞いていたのですが、なかなか行く機会がなく、今回は通常入ることが出来ない民間地にも入れるとのことでこれは見逃す訳にはいかないと参加しました。

出発は入生田の神奈川県立生命の星・地球博物館、解散地は一夜城ということで足掛け3時間ほど、山を200メートルほど登ることになります。

生命の星地球博物館

生命の星地球博物館

8:45に生命の星地球博物館前に集合です。ここから早川にかかる太閤橋を渡り山を登っていきます。石垣山一夜城までの道はそこまで急ではないため、余裕を持って登ることができます。

太閤橋から早川上流方面を望む

太閤橋から早川上流方面を望む

太閤橋は石垣山一夜城の大手道として早川に掛けられたと伝えられる橋です。今では一夜城の正面は早川方面のイメージですが、考えてみると京都から東海道を進むとこちらが正面になります。17世紀の江戸城修築の際には、石垣山の石丁場からこのあたりに石を下ろして早川を下り、早川河口で大船に積み替えて江戸に向かったと考えられています。ただ現在の早川を見ているとこの水深と水量で石材を積めるだけの船を航行させることができたのかは疑問です。昔は今とは随分違う様子だったのでしょうか。

段々畑の中の石垣用石材

段々畑の中の石垣用石材

しばらく舗装された農道を登っていくと右側に段々畑が見えてきます。段々畑には取り残された巨大な石垣用石材が残されています。この辺りの林の中にはこのような石がゴロゴロしているそうです。

運び出そうとした石垣用石材

運び出そうとした石垣用石材

段々畑を進みしばらくすると右側にいわゆる残念石が残されています。残念石は石垣用の石材として整形されながら何らかの理由で途中で運搬を止めた石で、この辺りだと伊豆半島の各所に残されているものが有名です。この残念石は整形の様子から17世紀前半の江戸城修築時のもので、なんらかの理由でこの沢(関白沢)に落としてしまったため縁起が悪い(落ちる=落城)ために放置されたものと考えられています。

斜面から突き出た大岩

斜面から突き出た大岩

残念石からしばらく、左側には斜面から突き出た大岩があります。昔の石工はこのような岩を目ざとく見つけて石垣用の石材に整形していきました。この岩は安山岩で固く大きくなる傾向があるため石垣に適しています。

下から見た石曳道

下から見た石曳道


上から見た石曳道

上から見た石曳道

途中で車道と別れ林道を進むと階段があります。この階段の脇に2005年から2006年の発掘調査で「石曳道」が発見されました。長さ175メートルに渡って残され斜面を切り通し状に掘り込んで南から北東に緩やかなカーブを絵が描きなら続いています。彫り込みの幅は約3.5メートル~約4.5メートル、路面の幅は約1.2メートル~約1.5メートルあります。路面は傾斜角約12度~15度、平均約14度となっており石材の運搬を考慮した一定の角度となっています。路面には轍が残されており、石材を運ぶための「地車」と呼ばれる荷車のものと考えられています。この地車を牛に牽かせて石を運搬していた様子が屏風に残されています。当時はこのような石曳道が延々と早川まで続いていたと考えられています。

石垣用石材の刻印

石垣用石材の刻印

石垣用石材とそこに根を張った木

石垣用石材とそこに根を張った木

斜面に残された石垣用石材群その一

斜面に残された石垣用石材群その一

斜面に残された石垣用石材群その二

斜面に残された石垣用石材群その二

矢穴の残る巨石その一

矢穴の残る巨石その一

矢穴の残る巨石その二

矢穴の残る巨石その二

石曳道の先、舗装路のヘアピンカーブの先には未舗装の林道が続いています。ここから先は民有地で通常立ち入りできませんが、今回は見学会ということで特別に立ち入り許可をいただいたとのことで奥に進みます。民有地ということでまだ史跡整備等がされていないため案内板はないのですが、このあたりが今回の見学会で一番の見どころになります。というのもこの一帯には加工途中で放置された石材が木々の間に多数転がっているからです。中でも目算になりますが、幅5メートル以上、高さ5メートル以上はあろう巨石は見ごたえがあります。縦に矢穴を彫り石を四等分しようとしていたようですが、真ん中の矢穴から想定外の割れ方をしたようで放置されたようです。あるいはこの辺り一帯の石材が矢穴を彫られかなりの行程まで切り出しが進んでいるようなので、もしかしたら場所的な問題で運び出しを断念したのかもしれません。市職員の方から矢穴の有無で石垣の修築時期を知ることができるとの解説がありなるほどと思いました。確かに織豊期の古い石垣には矢穴はなく(石材の大きさも原因でしょうが)矢穴があるとういうことは石材加工技術の発達した慶長期移行の石垣と見ることができるそうです。

保存された石丁場

保存された石丁場


先程のヘアピンカーブに戻り先に舗装路を進むと車道の走る開けた場所に出ます。ここには車道の橋の下に続く細い階段があり、橋の下にひっそりとこの石丁場があります。車道は広域農道小田原湯河原線で、建設に伴う発掘調査によってこのあたりで最大規模、保存状態も良好なこの石丁場が発見されました。車道建設のため失われるところでしたが、その価値から橋を架ける設計に変更され、現地保存されています。そのためちょうど橋が屋根の代わりにもなっておりなかなかユニークな史跡となっています。
ここでは石材の加工がつい先程まで行われていたかのような生々しい状況が残されており、石丁場を理解する上で極めて重要な場所となっています。石材の加工は以下の行程となります。
1. 安山岩の転石を割るために「矢穴」を一列に彫る
2. 目的とする大きさに割る
3. 形を整える
4. 整形が完了した石材を集める

石垣山一夜城入り口

石垣山一夜城入り口

移設された石垣用石材

移設された石垣用石材

八の刻印

八の刻印

本日のゴール、石垣山一夜城に到着です。今回見てきたのはあくまで江戸時代の石丁場であり、石垣山一夜城に使われた石材の石丁場とは別のものです。石垣山一夜城に使用されている石材は矢穴を用いない野面積みで、明らかに本日見てきた石丁場の石材とは異なっています。小田原合戦の翌年に築城が始まった肥前名護屋城は矢穴を用いた野面積みとなっており、この石垣山一夜城が矢穴の有無の転機となったとも考えられています。そういった意味でもこの石垣山一夜城とその周辺の石丁場群は日本城郭史を語る上で重要な場所と言えそうです。
こうなると石垣山一夜城に使用された石材の石丁場も見てみたいものです。市職員の方の説明では「今回見てきた石丁場は人海戦術で石を切り出したもので、未熟練工もたくさんいたため時間がかかっていたであろう」とのこと。対して石垣山一夜城の石材は「熟練職人がカンと経験を頼りに短期間で切り出したもの」とのことでした。野面積みは石材の加工度が低く、打込ハギに比べ石材は小さめになるため、石丁場も小規模であり、このあたりの自然に完全に埋もれてしまっているのかも…などととりとめのないことを考えています。

石垣山一夜城へは入生田方面からゆるゆると登って、残念石や石丁場を見学していくとよりどっぷりお城の世界に浸れると思います。早川方面からのルートより坂道も緩いのでおすすめです。

小田原城の桜 2016

いろいろあって投稿が遅くなりましたが、4/9(土)に春恒例の早朝小田原城桜見物に行ってきました。
一週間前にはすでに五分咲きになっており、加えて雨の日が幾日かあったためもう散ってしまっているのではないかと心配していましたが、調度よい感じに咲いていました。
さらに今年は小田原城天守最初で最後(のはず)の大改修工事が完了し、年季の入っていた天守が真っ白になり、桜色と白亜の天守の組み合わせが本当に綺麗でした。天守の周りの木も何本か伐採されておりこれまでと違った印象を受けました。
ちなみに天守の新装オープンは5/1(日)です。初日は流石に混みそうなので大型連休中のどこかでふらっと入ってみようと思っています。

お堀端通りの桜その一

お堀端通りの桜その一

お堀端通りの桜その二

お堀端通りの桜その二

隅櫓と桜その一

隅櫓と桜その一

お堀端通りの桜その三

お堀端通りの桜その三

隅櫓と桜その二

隅櫓と桜その二

天守と桜その一

天守と桜その一

天守と桜その二

天守と桜その二

天守と桜その三

天守と桜その三

天守と桜その四

天守と桜その四

天守と桜その五

天守と桜その五

天守と桜その六

天守と桜その六

天守と桜その七

天守と桜その七

遊園地と桜

遊園地と桜

小田原城天守耐震改修工事見学会

2015年7月から2016年4月まで、小田原城天守は建築後初めての大規模改修工事を行っています。主な目的は築55年がたち老朽化が進む鉄筋コンクリート製天守の耐震補強です。
当所は予算3億円ほどで柱の補強など小規模な改修となる予定でしたが、専門家の検査によりそれでは耐震性に問題ありとなったため、耐震壁を設けるなど大規模な改修工事となりました。耐震壁を設けることで内部の構造が大きく変わるため、展示等も大幅リニューアルすることになりました。私としても昭和の香りたっぷりだった展示がリニューアルするのは嬉しい限りです。
最終的な予算は9億7000万円となりましたが、うち3億円はこれまで入場料で貯めたお金、残りは借り入れ金でまかない、税金は使用しないとのこと。小田原城天守が独立採算でやっていることを初めて知りました。

さて、2016年3月6日(日)、小田原市民を対象に佳境に入った小田原城天守耐震改修工事見学会に行ってきました。定員50名のところ130名の応募があったとのことで、なかなか盛況な様子。工事中の貴重な様子を見ることが出来ました。

  • 外観
    外壁はヒビ等が数多く合ったため、全面的に塗り直しをしました。漆喰をベースとしてはいますが現代塗料も使用しているとのこと。また大棟の上に2本突き出ていた避雷針は見栄えを良くするために撤去、かわりに鯱に小さな避雷針を設置したそうです。

    外観その一

    外観その一

    取り外された避雷針

    取り外された避雷針

    外観その二

    外観その二

    塗り替え前後の壁

    塗り替え前後の壁

  • 内部
    内部は多くの場所に耐震壁を設置したため、今までよりだいぶ狭く感じます。天井に空調を設置したため天井も低くなっています。1階には窓がなく通路の両脇に設置されたパネルを見ながら進むような感じでしょうか。1階は江戸時代がテーマになります。これまで5階にあった売店は1階に移動します。

    1階

    1階

    2階は窓が開かれていますが、やはり耐震壁を設けたためこれまでより狭く感じます。2階は北条氏時代がテーマになります。1階と2階にはそれぞれミュージアムシアターが設けられ、いかにも今風な博物館といった感じです。しかしあの小田原城が随分とおしゃれになったものです。

    2階その一

    2階その一

    2階その二

    2階その二

    2階その三

    2階その三

    3階、4階は展示スペース的にはこれまでとほぼ変わらず、工芸品などを展示します。

    3階吹き抜け

    3階吹き抜け

    4階から3階を見る

    4階から3階を見る

    5階は今回リニューアルの目玉である摩利支天空間の木造再現がメインとなります。小田原城天守復興の際、参考とされなかった東博模型で確認された摩利支天と天守七尊を祀る空間(詳しくはこちら)を「オール小田原」をコンセプトに木造再現しています。木材は辻村山林(小田原の人ならわかるかな…)の樹齢300年、200年といった木材を使用しています。あの山にこんな立派な木があるとは知りませんでした。そして宮大工の芹澤棟梁は銅門の復元を手がけた方です。「摩利支天様がこらからも末永く小田原を守ってくれることを願い造らせて頂いた」との棟梁の言葉が印象的でした。

    階段から5階を見る

    階段から5階を見る

    5階摩利支天空間

    5階摩利支天空間

    摩利支天について

    摩利支天について

  • 最後に
    築55年がたちだいぶくたびれた感じの小田原城天守でしたが、今回のリニューアルにより大きく生まれ変わりそうです。
    昭和30年代に造られたコンクリート製天守の多くは、市民の寄付が大きな財源となり建築されているものも多く、小田原城もそのひとつです。当時の人々の城と郷土に対する愛着の現れがこのコンクリート製天守といえるのではないでしょうか。こういった人々の思いも含め、コンクリート製天守もそう悪いものではないと私は思います。
    今回のリニューアルで小田原城に来た人々の満足度がアップし、小田原城の経営も上向くことを期待しています。リニュアールオープンは5月1日の予定です。

小田原城天守耐震改修工事

2015年7月から小田原城天守は昭和35年(1960)の建築後初めてとなる大規模改修工事を行っています。建築後55年がたち老朽化が進む鉄筋コンクリート製の天守の耐震補強が目的です。
小田原市では当所、柱をカーボンファイバーで補強するといった小規模な耐震補強を考えていたようですが、専門家の検査によりそれでは耐震性に問題ありとのことで耐震壁を新たに設置するなどの大規模な耐震補強工事をすることになりました。

ここでは昨年の7月以来、気が向いた時に撮影した小田原城天守の様子をご紹介します。スマホでの撮影のため雑ですがご勘弁を。
足場で囲まれた小田原城は建築以来55年ぶり、この先も当分見ることはできない貴重な光景です。

  • 2015年8月22日
    夏の暑い盛りに足場設置が本格始動です。
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  • 2015年9月5日
    二週間で一重くらいのペースで足場の建築は進むようです。
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  • 2015年9月23日
    足場の設置はかなりのペースで進みます。
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  • 2015年10月18日
    工事開始から三ヶ月ほどで足場で完全に覆われました。このころ最上部にあった2本の避雷針が取り外されました。
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  • 2016年2月20日
    足場の解体が始まりました。壁も塗り替えられたようで綺麗になっています。
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小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2015年3月7日)

小田原城の御用米曲輪では今年の3月まで史跡整備のための発掘調査が行われています。最後の現地説明会が3月7日(土)に行われました。

今回は昨年度確認され、歴史ファンの間で大きな話題となった切石敷庭園から続く石組みの溝や、江戸時代の地震による地割跡などが確認されました。

これまでの説明会については以下をご覧ください。

第1回(2012年2月4日)
第2回(2012年8月18日)
第3回(2013年2月16日)
第4回(2013年10月19日)
第5回(2013年11月23日)
第6回(2013年12月21日)
第7回(2014年3月8日)
第8回(2014年11月8日)

  •  切石敷き庭園に続く石組み水路
    現在は遺構保護のため埋め戻された切石敷き庭園には、石組みの溝のようなものが続いていることが確認されていました。今回は江戸時代の蔵の遺構を壊さないように、その石組みの溝の続きを探る調査が行われました。その結果、石組みの溝は曲がりながら北西へと続き、礎石建物の周りをおよそ20メートルの長さで続いていました。
    江戸時代以降に壊されている部分がありましたが、これにより切石敷き庭園とセットになっていたであろう礎石建物の存在が明確になりました。
    これら切石敷き庭園・石組み溝は北条氏時代の終わり頃には埋め立てられ、その跡に礎石建物が建てられていたことがわかりました。このことから小田原合戦の時にはすでに切石敷き庭園は土の下で、秀吉や家康、後の小田原藩主らも目にすることはなく、420年以上の時を経て現代の私達の目の前に現れたわけです。

    切石敷きの庭園から続く石組み構

    切石敷きの庭園から続く石組み構

    石組み水路と数々の礎石

    石組み水路と数々の礎石

  • トレンチ再調査の成果
    今回は昭和57年度に調査されたトレンチの再調査も行われました。以前の調査は江戸時代の深さまでしか行っていませんでしたが、今回は戦国時代の深さまで調査が行われました。
    その結果、戦国時代の建物礎石跡、石組み水路、金製の飾り金具などが見つかりました。特に石組み水路は御用米曲輪で確認された他の石組み水路よりもしっかりとした造りで一見すると近世のもののように見えます。これらの発見から御用米曲輪北側にも戦国時代の遺跡が濃密に分布していることが確認できました。
    戦国時代の少し上の地層からは地震による地割れの跡が確認されました。これは寛永地震の痕跡と考えられ、小田原城と地震の関係を考える上で重要な発見となりました。

    立派な石組み水路

    立派な石組み水路

    礎石

    礎石

    地震による地割れ跡

    地震による地割れ跡

  • 結び
    足掛け3年におよぶ御用米曲輪の発掘調査も3月末で一区切りとなり、調査の場は発掘現場から室内へと移ります。現地説明会もこれが最後です。
    今回の調査での最大の成果はなによりも小田原城中心部で初めて見つかった大規模な戦国時代の遺構になるでしょう。しかもそれは全国にも類例のない切石敷き庭園で、後北条氏独特の切石文化ともいうべきものも見えてきました。
    非常に貴重なこれらの遺構ですが、保護のため埋め戻されることになります。数百年ぶりに姿を現したこれらの遺構が再び人々の目に触れるのはいつになるのでしょうか。数百年に一度の貴重な景色を見ることができ非常に感慨深いものがあります。
    今後、御用米曲輪は戦国時代エリアと江戸時代エリアに分けて整備が行われ、切石敷き庭園も同じ場所に復元展示されるそうです。はやく戦国時代の御用米曲輪の再現イメージを見てみたいものです。

小田原城天守模型等調査報告会

12/20(土)に小田原市民会館にて”小田原城天守模型等調査報告会”が行われました。小田原城関連の報告会ということで行ってきました。会場は定員150名ほどで、本降りの雨の中にもかかわらず、7割ほどが埋まっていました。

  • 調査目的

来年から小田原城天守は大掛かりな耐震補強工事を行います。この工事に際し昭和35年(1960)に建設された現在の鉄筋コンクリート天守の設計方法、設計根拠等を調査する。

  • 現存の天守の設計根拠

現在の天守の外観設計(復元)根拠は主に模型と図面である。模型については3種類が確認されている。

大久保模型…大久保神社所蔵。現在は小田原城天守に展示。壁を省略しており内部の骨組みの様子がよくわかる。

大久保模型

大久保模型

東大模型…旧東京大学所蔵。現在は小田原城天守に展示。壁が表現されている。

東大模型

東大模型

東博模型…東京国立博物館所蔵。現在は神奈川県立歴史博物館に展示。大久保模型と同様に壁が省略されている。

東博模型

東博模型

小田原城三重天守引図…小田原藩作事方川部家に伝わっていたもの。原図は太平洋戦争で焼失。写しが小田原城天守に展示。

現在の天守の復元を行ったのは藤岡通夫氏で、氏は小田原城の他、和歌山城や小倉城などのコンクリート天守の設計を行っている。

小田原城天守の復元にあたって藤岡氏が参考にした模型は大久保模型と東大模型。東博模型については大久保模型と”まったく同一”として参考としていない。総合的な意匠構造は東大模型、平面規模は大久保模型、高さはその中間的なものとして。宝永3年(1706)再建天守の外観を目指して設計された。天守の高欄については往時はなかったものだが、小田原市の強い要望により設けられた。小田原城が外観復元天守と呼ばれず、復興天守と呼ばれるのはこのため。

  • 東博模型と摩利支天

文献資料によると小田原城天守には七尊を祀る空間があったとされる。摩利支天・大日如来・阿弥陀如来・如意輪観世音・弁財天女・子安地蔵・薬師如来で、天守のどこかに祀らていた記録が残る。明治時代の天守解体後、これら七尊は永久寺に移されたが、摩利支天のみコンクリート天守の復興時に天守最上階に戻された。
今回初めて詳細な調査が行われた東博模型には、最上階に特別な施設がある。これこそが上記の摩利支天像を祀る空間と判明した。大久保模型最上階にもその施設らしきもの(一部を上段とし、上段に相対して二本の柱を立てる)が不完全ではあるが存在している。この空間について藤岡氏は「その意図が不明」としている。
東博模型では須弥壇上部の火灯窓など、より詳細に再現がされている。これまで東博模型は神奈川県立歴史博物館に展示されていたが、展示台上に展示されており上層階内部を目にすることはできなかった。調査担当者によると椅子を借りて上層階を確認したところ明らかに他と異なる特別な空間が一目でわかったとのこと。

東博模型4階内観

東博模型4階内観

 

摩利支天像と厨子

摩利支天像と厨子

 

永久寺所蔵六尊

永久寺所蔵六尊

来年からの小田原城天守耐震補強工事では、同時に内部の展示もリニューアルするとのこと。今回の調査で判明した摩利支天を祀る特別な空間も復元する予定。

天守最上階内部復元パース

天守最上階内部復元パース

  • 天守模型の類例

全国には江戸時代以前に造られた天守模型が8棟残されている。小田原城天守3棟の他は宇和島城天守、松江城天守、延岡城三重櫓、延岡城二重櫓、大洲城天守である。多くは天守が損傷した際の修築方法検討のために造らえれたと考えられている。
中には縦横比が異なっていたり、柱が異常に太かったりするものもあるが重要な部分を強調しているとも考えられ、模型の造られた目的を考える必要がある。
特に宇和島城の天守模型は保存状態が良好で、完成度が非常に高い。天守も現存しているため天守実物と模型を比較することで、模型独特の表現方法を知ることができる。

宇和島城天守模型

宇和島城天守模型

 

松江城天守模型

松江城天守模型

 

大洲城天守模型

大洲城天守模型

  • 感想

天守模型についての調査ということで非常に面白いテーマでした。
コンクリート製であるにせよ木造であるにせよ天守を復元する大きなカギとなるのが模型です。小田原城はそれが3棟もあり、いずれも出来が良いとのことです。その気になれば木造復元も可能なようです。今は行方不明となっていますが小田原城五重天守模型もあったとか。
3棟のうち大久保模型と東大模型は神奈川県重要文化財に指定されていますが、摩利支天を祀る空間の謎の解明につながった東博模型は文化財指定を受けていないとの事。質疑応答でも東博模型を文化財指定して小田原に展示することはできないか、といった質問がありました。この辺りは文化財を適切に管理、展示できる環境の整備が必要なためすぐという訳にはいかないでしょう。小田原市ではようやく出土した文化財を展示するための天守以外の施設である「歴史博物館」整備計画が始まったそうで、こういった環境が整えば、重要な文化財も良好な環境で展示することができると思います。
ひとまずは来年度からの天守耐震補強工事&リニューアル工事で小田原城が昔ながらの展示から、今風の魅力ある展示へ変わってくれることを期待します。
なお冬休みに東博模型を見に行ってみようかと考え中。

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2014年11月8日)

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。約8ヶ月ぶりの現地説明会が11月8日(土)に行われました。

今回は前回までの発掘説明会での目玉であった切石護岸の池(2号池)の大半が埋め戻されていましたが、それによりこれまで発掘の出来なかった部分が発掘可能となり、池の北側護岸が確認されています。切石敷庭園でも新たな発見がありました。

これまでの説明会については以下をご覧ください。

第1回(2012年2月4日)
第2回(2012年8月18日)
第3回(2013年2月16日)
第4回(2013年10月19日)
第5回(2013年11月23日)
第6回(2013年12月21日)
第7回(2014年3月8日)

  • 切石護岸の池周辺
    これまで切石護岸の池と呼ばれていた池は、周囲を切石で護岸した下段の池(2号池)、下段の池と水路で接続し、水を流していた池を上段の池(1号池)と呼ぶようになりました。
    2号池は遺跡保護のため大半が埋め戻されていますが、新たに北側に10メートルほど護岸を確認することが出来ました。これによりおおよそ池の3/4の範囲が確認出たと考えられています。
    1号池はこれまでの調査で確認されていましたが、今回その下層に切石敷きの池が存在していたことがわかりました。池は楕円形の小さなもので根府川石や箱根安山岩を立てて護岸としています。この1号池には西側の石組み遺構から水を引いており、1号池から水路を経て西側の2号池に滝のように水を流していたと思われます。これらは戦国時代のものとは思えないとても凝った造りです。

    2号池北側護岸

    2号池北側護岸

    2号池と1号池

    2号池と1号池

    1号池と石組み遺構

    1号池と石組み遺構

     

  • 切石敷庭園
    御用米曲輪南側のほぼ中央で確認された切石敷きの庭園は、全国的にも類例のない極めて珍しい形状で、歴史ファンの間で大きな話題になりました。切石敷きは鎌倉石と風祭石、安山岩によって造られその規模は最大で東西6メートル、南北9メートルを測るものと考えられています。
    切石敷庭園の中央で出土した板状巨石は本来は立っていたことがわかりました。この巨石には仏像と梵字が刻まれていたようですが、これらは丁寧にノミで削り取られています。誰が何のために削ったのかは謎で、北条氏独特の思想があったのかもしれません。

    切石敷庭園

    切石敷庭園

    仏像の削られた巨石

    仏像の削られた巨石

    巨石に刻まれた梵字の様子

    巨石に刻まれた梵字の様子

     

  • 建物群
    これまでの調査で御用米曲輪の南西部では濃密に建物群が広がっている様子が確認されています。これまでに礎石建物跡が8棟、掘立柱建物跡が7棟を数え、戦国時代の終わりごろの建物跡と考えられています。
    建物群の中心であると思われる最も大きな建物には小さな礎石建物が付随しています。今回の調査で、切石・板石敷きの排水施設が確認され、傍らに切石敷井戸があることからこの建物は湯屋(蒸し風呂)の可能性が高いそうです。蔵と思われる建物も見つかりました。氏政に家督を譲った氏康は「御本城様」と呼ばれ、「大蔵」の管理を行っていたとの記録があります。大蔵とは税収の管理であり、氏康の隠居館には「大蔵」が伴っていたと考えられています。もし御用米曲輪が大蔵を伴う「御本城」であったとすると、全体的には庭園などを伴う居館的な様相を持ちながら、蔵も備えるという発掘結果と合致します。

    南側から見た発掘現場全景

    南から見た発掘現場全景

    いつかの記事で私見として書きましたが、北条氏時代、現在の本丸に当主、本丸の真下に位置する御用米曲輪に前当主が居住し、八幡山は詰城的な位置づけで普段の生活には使用していなかったのでは、といったことを再び想像する今日このごろです。