小田原 歴史的町名碑めぐり その一

生まれも育ちもずっと小田原の私ですが、物心がついたときには小田原の街中のあちこちに昔の地名を記した、この石碑が建っていました。これまでなんとなく眺めてきた石碑ですが、全部でどのくらいの数が有るのだろうと思っていました。最近、小田原市のサイトでこの石碑の場所を網羅した資料を見つけたので、街中めぐりも兼ねて全てを写真に収め、町並みを記録しようと思い立ちました。

市のサイトによると、昭和60年度から設置を初め、105カ所にあるようです。同じ町名で複数の石碑となっている場合もあり、町名の数はこれより少ないです。
石碑はかつての小田原城惣構の内側に点在しており、広範囲に広がっています。
小田原駅周辺に長年住んでいますが、実はまだ足を踏み入れたことのない場所が多いことに驚きながら、写真を撮っていきたいと思います。

なお、石碑の掲載順番は私が巡った順番となります。

001 大新馬場(おおしんばば)2017/02/11撮影
「地名の起りは、南隣の中新馬場と区別するため新たにこの名がついたと考えられる。江戸時代の藩主稲葉氏の「永代日記」の天和二年(一六八二)3月の記録に「竹花町に近く新馬場があり、足軽小屋を設けた」とあるのは、この大新馬場のことと思われる。」

001-01-01_大新馬場

001-01-01_大新馬場

001-01-02_大新馬場

001-01-02_大新馬場

002 渋取(しぶとり)2017/02/11撮影
「古い時代の渋取は、花ノ木の北方の広い区域を示す地名であった。ところが、天正十八年(一五九〇)の豊臣秀吉の小田原攻めに備え、北条氏が小田原城惣構(そうがまえ)を築いたとき、渋取は惣構の内側と外側に分断された。この地域は内側の渋取で、江戸時代のはじめは町人地であったが、稲葉氏の時代に武家地に変えられ、その範囲も「渋取口」付近の極く限られた区域を指すようになった。」

002-01-02_渋取

002-01-02_渋取

002-01-01_渋取

002-01-01_渋取

003 中新馬場(なかしんばば)2017/02/11撮影
「地名の起こりは、古くはここが馬場に利用されていたためと考えられる。稲葉氏時代(一六三二~八五年)にはここに十二軒ほどの藩士屋敷があったが、幕末には大久保藩士の屋敷として約十六軒に増えている。」

003-01-01_中新馬場

003-01-01_中新馬場

003-01-02_中新馬場

003-01-02_中新馬場

004 七枚橋(しちまいばし)2017/02/11撮影
「抹香町から大新馬場に通ずる道路と護摩堂川とが交差するところに、七枚の切石を並べて作った石橋があり、「七枚橋」といわれていたという。後にこれが付近の地名となった。」

004-01-01_七枚橋

004-01-01_七枚橋

004-01-02_七枚橋

004-01-02_七枚橋

005 花ノ木(はなのき)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代の花ノ木は、主として蓮乗院の寺地であった。江戸時代にはその一部が武家地などに変わった。」

005-01-01_花ノ木

005-01-01_花ノ木

005-01-02_花ノ木

005-01-02_花ノ木

006-01 新宿町(しんしくちょう)2017/02/11撮影
006-02 新宿町(しんしくちょう)2017/02/11撮影
「江戸時代前期、城の大手口変更によって東海道が北に付け替えられた時にできた新町。町は、藩主帰城の時の出迎場であったほか、郷宿(ごうやど-藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)や茶店があり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。」

006-01-01_新宿町

006-01-01_新宿町

006-01-02_新宿町

006-01-02_新宿町

006-02-01_新宿町

006-02-01_新宿町

006-02-02_新宿町

006-02-02_新宿町

007-01 古新宿町(こしんしくちょう)2017/02/11撮影
007-02 古新宿町(こしんしくちょう)2017/02/11撮影
「この町は、もと新宿町と呼ばれていたが、江戸時代前期、東海道が町の北寄りにつけかえられたとき、新たな東海道沿いに町ができ、これを新宿町としたため、この町を古新宿町と改めた。千度小路とともに漁業の中心地であった。」

007-01-01_古新宿町

007-01-01_古新宿町

007-01-02_古新宿町

007-01-02_古新宿町

007-02-01_古新宿町

007-02-01_古新宿町

007-02-02_古新宿町

007-02-02_古新宿町

008 鍋町(なべちょう)2017/02/11撮影
「この町の規模は、はっきりしないが、古新宿町と新宿町の一部を含む小町だった。小田原北条氏時代から町には鍋などを作る鋳物師(いもじ)が多く住んでいたので、この名がついたといわれている。」
鍋町付近には、早川浄水跡の碑があります。
「昔、西方の板橋村で早川を分水して山門町を通り、旧東海道を疏通して鍋町の屋並に沿って東に流れ新宿から山王松原江戸口の連池に入った。」

008-01-01_鍋町

008-01-01_鍋町

008-01-02_鍋町

008-01-02_鍋町

008-01-03_鍋町

008-01-03_鍋町

009 十王町・抹香町(じゅうおうちょう・まっこうちょう)2017/02/11撮影
「十王町は、別にこの付近の武家地も含んで抹香町とも呼ばれた。地名の由来は、十王堂(閻魔堂・えんまどう)のほか近くに寺が多く、線香の煙がいつもたえなかったからと言われている。」

009-01-01_十王町・抹香町

009-01-01_十王町・抹香町

009-01-02_十王町・抹香町

009-01-02_十王町・抹香町

010 唐人町(とうじんちょう)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代、中国人が遭難して小田原に漂着し、その中の四十余人が許されてこの地に居住したので、「唐人村」と呼ばれていたことが、唐人町の名称と関係があるものと考えられている。唐人町の通りは、寛永年間(一六二四~四三年)、将軍家光の上洛に先立ち、小田原城大手門に至る御成道(おなりみち)として新設されたもので、その東端には土塁をともなった柵門(黒門)が設けられていた。」

010-01-01_唐人町

010-01-01_唐人町

010-01-02_唐人町

010-01-02_唐人町

011-01 万町(よろっちょう)2017/02/11撮影
011-02 万町(よろっちょう)2017/02/11撮影
「町名は古くから「よろっちょう」とよばれた。町内には、七里役所という紀州(和歌山)藩の飛脚継立書(ひきゃくつぎたてじょ)があった。江戸時代末期には、旅籠(はたご)が五軒あり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。」

011-01-01_万町

011-01-01_万町

011-01-02_万町

011-01-02_万町

011-02-01_万町

011-02-01_万町

011-02-02_万町

011-02-02_万町

012 高梨町(たかなしちょう)2017/02/11撮影
「東海道から北へ向かう甲州道の起点に当たり、古くから商家、旅籠(はたご)が並んでいた。町の中央南寄りには下(しも)の問屋場(人足や馬による輸送の取継ぎ所)が置かれ、中宿町の上(かみ)の問屋場と十日交代で勤めていた。」

012-01-01_高梨町

012-01-01_高梨町

012-01-02_高梨町

012-01-02_高梨町

013-01 青物町(あおものちょう)2017/02/11撮影
013-02 青物町(あおものちょう)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代、町内に野菜の市(いち)が開かれていたのでこの名がついたといわれ、商人の多い町であった。東京の日本橋にあった青物町は、徳川家康のころ江戸の町づくりのため、この土地の人たちが移り住んだ町といわれる。」

013-01-01_青物町

013-01-01_青物町

013-01-02_青物町

013-01-02_青物町

013-02-01_青物町

013-02-01_青物町

013-02-02_青物町

013-02-02_青物町

014-01 宮前町(みやのまえちょう)2017/02/11撮影
014-02 宮前町(みやのまえちょう)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代には上町・下町に分かれていたと伝えられている。町の中央に城主専用の入口、浜手門口高札場(幕府の法令などを掲示する場所)があり、江戸時代末期、町内には本陣一、脇本陣二、旅籠(はたご)が二十三軒あって、本町とともに宿場町の中心であった。
宮前町には小田原宿に四軒あった本陣のうちの筆頭で、町年寄も勤めた清水金左衛門の本陣がありました。この本陣の敷地面積はおよそ二四〇坪で、大名や宮家などの宿泊に当てられました。明治天皇もここに五回ほど宿泊しており、それを記念した石碑が残されています。

014-01-01_宮前町

014-01-01_宮前町

014-01-03_宮前町

014-01-03_宮前町

014-02-01_宮前町

014-02-01_宮前町

014-02-02_宮前町

014-02-02_宮前町

015-01 宮小路(みやこうじ)2017/02/11撮影
「町名の由来は、松原神社の門前にあたるためといわれている。この横町は、神社の門前から東へ伸び、青物町に至るまでの通りをいう。」
宮小路にある松原神社は、小田原北条氏時代から江戸時代に至るまで、小田原城主から崇敬され、小田原宿の総鎮守とされた神社です。創建の時期は不明ですが、かつては鶴の森明神、松原大明神と呼ばれてました。
ここには可愛らしい亀をかたどった石があります。これは小田原の海岸に現れた大亀に由来するもので、これを吉兆として氏康は松原神社に参詣し舞を奉納しました。翌年、日本三大夜戦のひとつ、河越夜戦で北条氏康は寡兵で敵を打ち破り、関東制覇に大きな一歩を踏み出しました。

015-01-01_宮小路

015-01-01_宮小路

015-01-02_宮小路

015-01-02_宮小路

015-01-03_宮小路

015-01-03_宮小路

安土城に登城しました

もう半年も前ですが、9年ぶりに安土城に登城しました。
前回よりもカメラもグレードアップしているので、より良い写真が撮れたと思います。
次に安土城に行った際は、安土城下巡りと安土山をぐるっと一周してみたいです。

KemaAkeの全国城めぐり – 安土城

能島城に登城しました

今年の3月にしまなみ海道、世界的にも珍しい島をまるごと城塞化した能島城に登城しました。
とあるスマホの位置情報ゲームのオフィシャルツアーでの参加で、公共交通機関ではなかなか行きづらい能島城に楽々行くことが出来ました。またかなりディープなお城好きの方々と交流が持てて楽しかったです。
そのゲームのURLはこちらです→発見!ニッポン城めぐり

KemaAkeの全国城めぐり – 能島城


小田原城の桜 2016

いろいろあって投稿が遅くなりましたが、4/9(土)に春恒例の早朝小田原城桜見物に行ってきました。
一週間前にはすでに五分咲きになっており、加えて雨の日が幾日かあったためもう散ってしまっているのではないかと心配していましたが、調度よい感じに咲いていました。
さらに今年は小田原城天守最初で最後(のはず)の大改修工事が完了し、年季の入っていた天守が真っ白になり、桜色と白亜の天守の組み合わせが本当に綺麗でした。天守の周りの木も何本か伐採されておりこれまでと違った印象を受けました。
ちなみに天守の新装オープンは5/1(日)です。初日は流石に混みそうなので大型連休中のどこかでふらっと入ってみようと思っています。

お堀端通りの桜その一

お堀端通りの桜その一

お堀端通りの桜その二

お堀端通りの桜その二

隅櫓と桜その一

隅櫓と桜その一

お堀端通りの桜その三

お堀端通りの桜その三

隅櫓と桜その二

隅櫓と桜その二

天守と桜その一

天守と桜その一

天守と桜その二

天守と桜その二

天守と桜その三

天守と桜その三

天守と桜その四

天守と桜その四

天守と桜その五

天守と桜その五

天守と桜その六

天守と桜その六

天守と桜その七

天守と桜その七

遊園地と桜

遊園地と桜

小田原城の桜 2014

今年も桜の季節となりました。例年通り桜の写真を撮るために朝の小田原城に行ってきました。4/1(火)の撮影で、この翌日からは天気が下り坂のため、最後のチャンスと思いなんとか都合をつけました。
7時くらいに到着しましたが、さすがに平日の早い時間なので人もまばら。しかし8時くらいになると徐々に人が増え始めました。あまり人が映らないようにしたいため、早めの時間に行って正解でした。
なにはともあれ、今年も小田原城の桜を撮影することが出来て良かったです。来年も無事撮影できることを願います。

お堀端通りの桜

お堀端通りの桜

二の丸の桜

二の丸の桜

隅櫓と桜

隅櫓と桜

天守と桜 その一

天守と桜 その一

天守と桜 そのニ

天守と桜 そのニ

銅門と桜

銅門と桜

天守と桜 その三

天守と桜 その三

隅櫓から銅門方面を望む

隅櫓から銅門方面を望む

雪の小田原城

2月8日(土)、関東地方は45年ぶりとも言われる大雪になりました。

この機会を逃すまいとカメラを持って小田原城まで散歩することに。玄関を開けると思った以上の雪の勢いに少々怯みましたが意を決して出発。

馬屋曲輪では靴がずぶずぶと雪に沈むのが正直楽しかったです。積雪は10センチくらいあったのでしょうか。この悪天候の中、写真を撮っている人が結構いました。滅多にないチャンスですから写真好きにはたまりません。私もその一人ですが。

非常に珍しい小田原の雪景色を見ることができ大満足でした。

学橋

学橋

桜の木

桜の木

天守と常盤木門望遠

天守と常盤木門望遠

馬出門

馬出門

銅門1

銅門1

銅門2

銅門2

天守

天守

豆汽車踏切

豆汽車踏切

猫

赤木城と熊野市観光

運良くゴールデンウィークが10連休となったため、紀勢本線の乗りつぶしも兼ねて紀伊半島をぐるっと周ってきました。
その中のメインイベント、公共交通機関利用での赤木城登城+おまけの様子をご紹介します。

赤木城は築上の名手、藤堂高虎が豊臣秀長の家臣時代に築いた城で、規模こそ小さいですが、藤堂高虎築城術のルーツとして城ファンの関心を集める城です。
また、最寄りの鉄道駅から20キロ近く離れた山の中にあることから、全国の城の中でも到達するのが困難な城のひとつとしても有名です。
一応周囲にバス路線はあるのですが、一日数本レベルです。最寄りバス停は熊野市バスの田平子で、赤木城から徒歩15分ほどのところにあります。時刻表は以下のとおり。

平谷方面
13:30
19:00

紀南病院方面
07:31
14:16

平谷方面がこの当たりの中心駅である熊野市駅方面から来るバスになりますが、出発地が紀南病院で熊野市駅からは直通していません。また到着時間が13:30になるので次の逆方向のバスまでの時間が45分しかありません。よって田平子バス停のみで往復するのは難しいという結論に至ります。

こんなときに頼りになるのが某ルート検索サービス。毎月300円払って利用しているのですが、運良くこのあたりを走る熊野市バス、三重交通バスに対応していました。
そこで時間を細々と変更しながら検索し、なんとか実現できそうなルートを決定しました。ルート地図は以下になります。


より大きな地図で 赤木城と熊野市観光 を表示

この旅程をご紹介します。

・前日に熊野市に入りホテルで宿泊

(01) 08:28 熊野市駅前 発 [三重交通バス 南紀01-1 新宮駅行] に乗車
写真を撮り忘れましたが、熊野市駅前特産品館の前にあるバスのりばから出発です。

(02) 08:49 阿田和端地 着
国道42号線沿いにある阿田和端地バス停の目前には七里御浜と熊野灘が広がります。降りた場所で熊野市バス瀞流荘行に乗り換えます。

七里御浜と熊野灘

七里御浜と熊野灘

(03) 09:04 阿田和端地 発 [熊野市バス 瀞流荘紀南病院線 瀞流荘行] に乗車
海岸線を離れ山に入っていきます。コミュニティバス的な小さなバスに乗り換えます。

(04) 09:34 千枚田・通り峠入口 着
阿田和端地から30分ほどですが、だいぶ山奥に来ました。途中の道は側面がそそり立つ崖となっておりバスが通るのがやっとの部分もあり「なんかすごいところに迷い込んじまった」感がありワクワクします。

千枚田・通り峠入口バス停からの風景

千枚田・通り峠入口バス停からの風景

人がいる気配はありませんでしたが、バス停近くには小さな観光案内所のような建物があります。ここ以降赤木城まで、自動販売機はありませんでした。
写真右の橋をわたると右側に今回進む道が続いています。Google Mapではこの道は載っていませんが、某ルート検索サイトを信用して進みます。道はコンクリートで舗装されており歩きやすいです。

千枚田・通り峠入口の観光案内所?

千枚田・通り峠入口の観光案内所?

(05) 10:00ころ 熊野古道・通り峠ルート入り口
千枚田・通り峠入口バス停からコンクリートで舗装された道を20分ほど進むと、県道40号線に合流します。ここには小さな駐車場とトイレがあります。そして、目の前には急な坂道があり、ここが熊野古道・通り峠ルートの入り口になります。まさか某ルート検索サイトが熊野古道をルートとして提示してくるとは思わず、しばらくそこでスマホを見ながら確認をしていましたが、まちがいなくこの石畳の道を指していす。

(06) 熊野古道・通り峠ルート
今回の登城は舗装された道路のみで完結すると思っていたのですが、ここでまさかの巡礼道を歩くことになります。城同様に歴史の香りがするものは大好きなので、これは一石二鳥ということで喜んで進み始めました。杉の木立の間に苔むした石畳が続く非常に雰囲気の良い場所ではあるのですが、想像以上に勾配が激しく、存外歩きづらい。考えてみれば峠というくらいなので当然なのですが…昔の人はここを草履で歩いていたのですから本当に大したものです。

熊野古道・通り峠ルート その1

熊野古道・通り峠ルート その1

熊野古道・通り峠ルート その2

熊野古道・通り峠ルート その2

熊野古道・通り峠ルート その3

熊野古道・通り峠ルート その3

熊野古道・通り峠ルート その4

熊野古道・通り峠ルート その4

普段全く運動をしない私が休み休み20分ほど歩くと、通り峠に到着します。
通り峠は吉野方面へと向かう「北山道」の入り口にある峠で、かつてはここから海を望むことができたそうです。通り峠ルートは山林を直線的に抜ける約1キロメートルのルートで、写真のように石畳もよく残っており、峠には子安地蔵が祀られています。

通り峠の子安地蔵

通り峠の子安地蔵

通り峠からは脇道があり、170段の階段を登ると、丸山千枚田を眼下に一望できる展望台があります。
平地がほとんどないこの当たりでは、人々が一粒でも多く米を収穫したいとの思いで棚田を開墾しました。その中のひとつが丸山千枚田です。慶長6年(1601)にはすでにその数は2000枚を超えるほどになっており、昭和40年代半ばまではその規模が維持されていました。しかし、その後の稲作転換政策や過疎化・高齢化の進行で放棄される棚田が増え、平成初期には530枚までに減っていました。近年になり丸山地区の人々が荒廃していく丸山千枚田を憂い保存会を結成。徐々に棚田を復活させ現在は1340枚になっています。
藤堂高虎が赤木城を築いた天正期、文禄期にはすでに多くの棚田があったと思うと、感慨深いものがあります。

眼下に広がる丸山千枚田

眼下に広がる丸山千枚田

約1キロメートルの熊野古道・通り峠ルートを約1時間かけて抜けました。某ルート検索サービスはたぶん高低差や道の整備状況などは考慮していないのでしょう。千枚田・通り峠入口バス停から赤木城まで徒歩1時間10分ほどで到着となっていましたが、まだ半分しか来ていません。途中で休んだ時間を差し引いても、ちょっとこの時間での到着は無理な気がします。それとも私の体力が低すぎるのか…平地で舗装された道であればこれくらいの時間でいける気はします。

(07) 11:30ころ 赤木城の案内版を発見
熊野古道・通り峠ルートからは舗装された比較的平坦な道路をひたすら歩きます。途中何台かの車を見かけましたが歩行者は私のみでした。30分ほど歩くと道路の分岐点に赤木城の文字を発見!だいぶ近づいてきました。

赤木城案内板

赤木城案内板

(08) 11:40ころ 田平子処刑場跡・田平子峠
分岐点から先程まで歩いてきた道路より細めの道路を10分ほど進むと、赤木城とともに国指定史跡となっている田平子処刑場跡があります。
もともと藤堂高虎がこの地に入った理由のひとつが一揆の鎮圧だったわけですが、その鎮圧の現場のひとつがこの田平子処刑場跡になります。天正と慶長に起こった北山一揆で処刑された村人の数は513名に上ると言われ、道路建設の際にはたくさんの人骨が発見されたそうです。高虎は赤木城が完成すると村人に祝儀に来るように命じ、祝儀に来た村人を捕らえ、ここで打首にしてその首を晒したと言われています。「行たら戻らぬ赤木の城へ 身捨てどころは田平子じゃ」という里歌が今に伝わっています。

田平子処刑場跡

田平子処刑場跡

田平子処刑場の少し先が田平子峠になります。写真の左側に田平子バス停があり、写真右の道路を下ると赤木城にたどり着きます。熊野古道・通り峠ルートを抜けた跡は比較的平坦な道路が続いていましたが、ここから赤木城までの道路はそこそこの勾配が続きます。

田平子峠

田平子峠

田平子バス停

田平子バス停

(09) 12:00ころ 赤木城到着!
千枚田・通り峠入口バス停から2時間半ほど歩いてようやく赤木城に到着しました。

赤木城

赤木城

赤木城には土産店や管理事務所等はなく、あるのは自動販売機ひとつです。そこで久しぶりに見たmiuを一杯。あれ?昔はAQUARIUSみたいな味だったんだけど、ただのミネラルウォーターになってる…
城を見学していると初老の夫婦から「おお、早いね。もう着いたんだね」と声を掛けられました。どうやら追い越された車から目撃されていた模様。まああんなところを一人で黙々と歩いていれば目立つのも納得です。
城をゆっくり見学し、西郭でのどかな風景を眺めながらのんびりと遅めの昼食(おにぎり2つ)を食べました。天気が良くて本当に良かった。
ちなみに私がいた約2時間の間に6人ほどが城を訪れましたが、どの人もすぐ帰ってしまい、1時間半くらいは貸切状態でした。
赤木城の登城記は“こちら”をご覧ください。

・13:50ころ 赤木城出発
帰りは14:16 田平子発のバスに乗るので、登り坂ということもあり余裕を持って出発しました。

(10) 14:16 田平子 発 [熊野市バス 瀞流荘紀南病院線 紀南病院行] に乗車
再び熊野市バスに乗ります。乗客は私一人でした。
運転手さんによると赤木城で使用されている石材は、近くの北山川から調達してきたらしいです。なるほど、確かに赤木城まで歩く間に北山川の支流と思われる小さな川がいくつもありましたが、どこも大きめの石が露出しており、石材の調達には困らなそうです。

(11) 14:23 小栗須 着
最後のバス乗り換え地です。乗り換えバスまでは30分ほどあるので城郭検定公式問題集を読んで時間をつぶしました。

小栗須バス停から田平子峠方面を望む

小栗須バス停から田平子峠方面を望む

・14:52 小栗須 発 [熊野市バス 熊野古道瀞流荘線 木本高校行] に乗車
ここで乗ったバスは普通の路線バスと同じ大きさのバスでしたが、例のごとく最後まで乗客は私一人でした。
このバスに乗れば40分ほどで熊野市駅前に到着しますが、まだホテルに戻るには時間が早いので熊野市の名所に寄り道をすることにしました。熊野市駅前から2つ手前のバス停、(12) 松原で下車し「獅子岩」まで歩きます。

(13) 15:35ころ 獅子岩
松原バス停から少し歩くと海岸沿いに続く国道42号線に突き当たります。朝にバスで通った道路です。
そこから右を見ると、海岸に小さな岩山が見えます。これが獅子岩です。しかし獅子を見るためには反対側まで行く必要があります。反対側に行くと想像以上の獅子振りに少し感動しました。だいたいこういう”岩系”のものは、そう見えなくもないという感じがなのですが、確かにこれは獅子です。奥の大きな岩が阿行、手前の小さい丸い岩が吽形と呼ばれています。これらは熊野市の山奥にある大馬神社の狛犬とされており、大馬神社には狛犬がないそうです。ですが、この奇跡の造形は少し角度を変えると消えてしまい元の小さな岩山に戻ってしまいます。
近くの海岸には5月ということで、たくさんの鯉のぼりが泳いでいました。

獅子岩

獅子岩

違う角度から見た獅子岩

違う角度から見た獅子岩

海岸の鯉のぼり

海岸の鯉のぼり

(14) 15:55ころ 花の窟神社
獅子岩から400メートルほど歩くと日本最古の神社ともされる花の窟神社があります。
祭神は皇祖神である天照大神の母神である伊奘冉尊(いざなみのみこと)、その子神の火の神・軻遇突智(かぐつち)神です。伊奘冉尊は、日本神話で国生みをしたあのイザナミです。伊奘冉尊は軻遇突智神を産んだ時に火傷を負って亡くなり、この地に葬られたとされています。
御神体は境内にある巨大な岩山そのもので、そのため本殿は建てられていません。御神体ということで写真撮影は控えましたが、巨大な岩山の中央に割れ目があり、そこが岩で塞がれているように見え、確かにお墓のような印象を受けます。この岩山の中になにかあるのか、あるいはなにもないのかはわかりませんが、神話と現実の交錯点といった感じで不思議な気分になりました。

花の窟神社

花の窟神社

16:40ころ 熊野市駅
少し寄り道をしましたが、出発点に帰って来ました。おおよそ8時間の道のりでしたがローカルバスあり、巡礼道あり、秘境(?)の名城あり、日本最古の神社ありの充実した1日でした。赤木城まで公共交通機関でたどり着いたということで、どんな城でも行けると少し気が大きくなっている今日このごろです。

小田原城の桜 2013

今年は例年よりだいぶ早い桜の開花となりました。早速、朝の小田原城に行って来ました。
朝7時ごろに到着しましたが、写真を取りに来ている方が沢山いました。日本人は本当に桜が好きですね。かく言う私も大好きですが。

3日前に様子を見に来た際は、ほとんど花は開いていなかったのですが、わずか二日間でほぼ満開になり、綺麗な桜を見ることができました。
近世小田原城は東向きに建てられており、順光となる午前中が写真撮影に適しています。おもな桜の見所としては二の丸堀周辺、本丸、かつて屏風岩と呼ばれ現在は遊園地となっている天守の裏側になるでしょうか。

しかし、こうやって写真を撮っていると、城と桜って最高の組み合わせだなぁと改めて実感しました。

二の丸堀周辺の桜1

二の丸堀周辺の桜1

二の丸堀周辺の桜2

二の丸堀周辺の桜2

二の丸堀周辺の桜3

二の丸堀周辺の桜3

二の丸堀周辺の桜4

二の丸堀周辺の桜4

本丸の桜1

本丸の桜1

本丸の桜2

本丸の桜2

本丸の桜3

本丸の桜3

屏風岩の桜1

屏風岩の桜1

屏風岩の桜2

屏風岩の桜2

屏風岩の桜3

屏風岩の桜3

小田原城の桜(様子見編)

先週、東京の靖国神社で桜が開花したとのニュースがありました。東京が咲いたなら小田原は?ということで、休日なのに早起きして、小田原城の桜の様子を見て来ました。

二の丸堀、馬出門、銅門、常盤木門、天守裏を回りましたが、木によっては五分咲きくらいのものもありましたが、ごく少数です。全体的には一分から二分咲き程度でした。これからの気温にもよるでしょうが、見頃まではもう少しでしょう。また土曜日に見に来ます。

小田原城の桜(様子見編)1

小田原城の桜(様子見編)1

 

小田原城の桜(様子見編)2

小田原城の桜(様子見編)2