小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2013年2月16日)

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。2012年8月の発掘説明会から2013年2月までの発掘成果の現地説明会が2月16(土)に行われたので行って来ました。

御用米曲輪については前回8月の発掘説明会の投稿を御覧ください。
小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会

昨年8月以降、北条氏時代の庭や建物礎石が発見されました。
これらの発見により北条氏時代の御用米曲輪が、これまで考えられていた以上に重要な曲輪であり、城主の居館に相当する建物があった可能性がさらに高まって来ました。

ここでは、今回発見された戦国期の遺構をご紹介します。

・礎石建物跡(地図#1)
この礎石建物は、桁行11メートル、梁間5.5メートルで小田原城周辺で初めて見つかった戦国期の礎石建物です。当時礎石を設けて建てられるのは大規模な瓦葺きの建物や、寺院建築が中心でした。これは礎石を設けたこの建物が重要な建物であったことを物語ります。建物の規模、後でご紹介する庭との位置関係から、御用米曲輪にあったであろうなんらかの大規模建築物(御殿か?)の付属的な建物ではないかとのことです。
礎石建物の下には、礎石建物と直交した玉石道路と石組水路がありました。道路の幅は役1.8メートルで、拳大の石を敷き詰め、その隙間を「目潰し石(砂利)」で埋めています。この丁寧な造りから重要な道路であったと思われます。石組水路は礎石建物の下に入り込んでおり、礎石建物よりも古い遺構であるようです。

礎石建物
礎石建物
玉石敷道路と石組水路
玉石敷道路と石組水路

・庭状遺構
今回の調査では庭状の遺構が3箇所で発見されました。現状ではこれらの庭のつながりが不明瞭なため、今後の発掘調査で解明していくそうです。

三箇所の庭状遺構で最も北に位置するここ(地図#2)では石組水路と石垣付方形竪穴が発見されました。
南側の堀と溝で繋がる石組水路の北側・西側には砂利が濃密に敷き詰められています。そして石組水路に面して、明日香村の酒船石を思わせる凝灰岩の切石が置かれています。
この切石には水路に対して溝があることから、雨水などの処理に用いられたのではないかと考えられています。ただ、全国的にも類例がない遺構のため、同様の遺構をご存知の方はお知らせくださいとのことでした。
また石組水路の北側には、石垣を持つ方形竪穴状遺構が発見されました。壁面の石垣は、10~13段で役1.6メートルの深さがあります。石と石の間は土で固められており、一般的な石垣のような裏込め石がないことが特徴です。小田原城周辺で見つかった戦国時代の石垣はこれで3箇所目となりますが、北条氏の石積み技術を考える上でも貴重な遺構です。

庭状遺構:酒船石(?)と石組水路
庭状遺構:酒船石(?)と石組水路
庭状遺構:石垣付方形竪穴
庭状遺構:石垣付方形竪穴

三箇所の庭状遺構で中間に位置するここ(地図#3)では北の石組水路から続くとおもわれる石組水路が発見されました。この当たりではこの石組水路より南側(本丸側)に、戦国時代には一段高い部分があることがわかりました。どうやらこの石組水路は斜面の裾を巡るように造られていたようです。同例として、福井県の一乗谷朝倉氏関連遺跡の「湯殿跡庭園」が挙げられます。この庭園は斜面を借景としており、ここでは立石などが失われていますが、「湯殿跡庭園」同様に手のこんだ庭であったと考えられます。では、立石などはどこにいったか?というと、豊臣秀吉による小田原攻めで小田原城は無血開城となったため、立派な物品は豊臣方に「分捕り」されたのではないかとのことでした。
石組水路にはさまざまな石が使われています。黒い石は、箱根火山に起因する凝灰岩で「風祭石」と呼ばれています。白い石礫も箱根火山に起因する安山岩です。そして、黄色い石は「鎌倉石」とも呼ばれる三浦半島周辺の砂岩です。ここは庭の裏手に位置するため、色合いの異なる石を使い意識してモザイク模様のようにしているか、あるいは適当に石を配置したのかは不明です。当時独特の美的感覚があったのかもしれません。

庭状遺構:石組水路と玉石敷
庭状遺構:石組水路と玉石敷
庭状遺構:石組水路
庭状遺構:石組水路
庭状遺構:石組水路拡大
庭状遺構:石組水路拡大

三箇所の庭状遺構で最も南に位置するここ(地図#4)では、池、切石積、護岸遺構が発見されました。池は上段、下段からなり、昨年度の調査で見つかった障子堀を半分まで埋め立て、そこに砂利を敷いて導水路としています。背後には、風祭石の切石が2・3段に積み上げられ、背後斜面の土留の役割を果たすとともに、庭の借景となっています。そして切石の前には景色を造るように庭石が配置されています。障子堀からの水は更に下段の池に落ち、下段の池も上段の池と同様に砂利が敷かれ、庭石を配置して景色を造っています。
下段の池は更に法面を守るため、四角い石が貼られ護岸しています。その石は五輪塔の火輪や宝篋印塔の笠を裏返しにして用いています。その数は70個を超え、底面の砂利の下にも続いています。このような構造の護岸遺構は、全国的にも例のないものです。明らかに意図してこのような石材を使用しており、北条氏独特の文化のようなものがあったのかもしれません。

庭状遺構:切石積
庭状遺構:切石積
庭状遺構:護岸遺構
庭状遺構:護岸遺構
庭状遺構:切石積と護岸遺構
庭状遺構:切石積と護岸遺構

だいぶ適当ですが、地図上にこれらの場所をプロットしました。

より大きな地図で 小田原城御用米曲輪発掘調査説明会(2013/2/16) を表示

今回の発掘調査による成果で、戦国期のものをまとめると以下となります。
・戦国時代の礎石建物が確認できた。
・戦国時代の曲輪の形が確認できたとともに、曲輪南辺に沿って大規模な庭が造営されていたことがわかった。

ここからは私見となります。
これまで御用米曲輪で発見された戦国期の遺構を見て、ふと思ったのが江戸城の西の丸の事です。もしかしたら北条氏時代末期、平時は現在の本丸に当主氏直(八幡山古郭は詰の城として使用?)、御用米曲輪に隠居氏政が居住していたのではないかと…御用米曲輪が小田原城の重要な曲輪であったことは間違いないでしょう。しかし、目の前に一段高い本丸があるのだから、そこを差し置いて本丸機能を有していたとはちょっと考えにくい。となると、本丸をしっかりと発掘調査すれば、さぞや戦国期の貴重な遺構が出てくるのではないかと思います。
市の職員の方も本丸をしっかりと掘ってみたいと仰っていましたが、史跡発掘の原則として、史跡の保護を最優先することが国で定められています。戦国期の遺構を探そうとして、先に江戸時代の遺構が見つかるとその先を掘ることは難しくなるそうです。個人的には戦国時代の小田原城の姿が明らかになることを望みますが、江戸時代の遺構も大事なものです。史跡発掘は難しいですね。
今後も御用米曲輪での発掘調査は続きますが、次は庭状遺構のそばから戦国期の御殿礎石を発見!というのを期待したいです。

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