kemaake のすべての投稿

日本城郭検定1級受験(問041~問060)

2015/6/7に行われた日本城郭検定1級の問題です。問021~問040はこちら

問041
『日本書紀』の「天智記」には、朝鮮半島からの侵入に備え、6つの城を築いたことが記されているが、この6城に当てはまらないのはどの城か。
1 水城
2 大野城
3 金田城
4 高安城
正解→1 水城

問042
元の再襲来に備えて、鎌倉幕府は、博多湾に沿って石築地(元寇防塁)を築いたが、直接これを築いたのは誰か。
1 御家人
2 守護
3 地頭
4 太宰府長官
正解→1 御家人

問043
戦国時代、寺院を中心に堀や土塁で囲い込んだ防御都市「寺内町」が築かれた。これは宗教的な運命共同体で、何宗の教えで築いたのか。
1 真言宗
2 臨済宗
3 日蓮宗
4 浄土真宗
正解→4 浄土真宗

問044
松本城天守には、乾小天守と辰巳付櫓と月見櫓が付設しているが、どの建物が最も古くから天守に付設していたか。
1 乾小天守
2 辰巳付櫓
3 月見櫓
4 すべて同時
正解→1 乾小天守

問045
複合式天守は、天守に付櫓等が付設する形式の天守で、通常この付櫓を経由して天守の中にはいるが、下記の天守の中で直接天守に入る入口があるのはどれか。
1 松江城
2 備中松山城
3 彦根城
4 大垣城
正解→3 彦根城

問046
望楼型天守の利点は、どんなにゆがんだ平面の天守台にも建てられることであるが、望楼型を代表する岡山城の天守台は、何角形か。
1 五角形
2 六角形
3 七角形
4 八角形
正解→1 五角形

問047
織田信長は、日本から旅立つ宣教師を見送るため、孟蘭盆会の夜安土城を提灯で飾り付けた。この時、送られた宣教師は誰か。
1 オルガンティーノ
2 フロイス
3 ヴァリニャーノ
4 ザビエル
正解→3 ヴァリニャーノ

問048
江戸幕府は、天保年間諸藩に命じて城絵図を作成させ提出させた。現在、重要文化財に指定されている絵図は全部で何城分か。
1 51城
2 63城
3 74城
4 86城
正解→2 63城

問049
直江兼続率いる上杉景勝軍が、最上義光の治める山形城を攻めるために、その支城で志村光安が籠る城を攻めたが、関ヶ原で西軍が大敗したため撤退した。「北の関ヶ原」と呼ばれた戦いの舞台となった城は何城でしょう。
1 長谷堂城
2 中野城
3 亀ヶ崎城
4 松山城
正解→1 長谷堂城

問050
藤堂高虎は、今治城の天守を解体して、新城の伊賀上野城天守とするつもりだったが、徳川家康の天下普請に使用するために献上してしまった。この天守は、どの城の天守となったと言われているか。
1 丹波篠山城
2 丹波亀山城
3 大坂城
4 二条城
正解→2 丹波亀山城

問051
天守は巨大建築であるため、自然災害等の被害をたびたび受けているが、地震で倒壊したのは、下記の天守のどれか。
1 犬山城
2 彦根城
3 丸岡城
4 岐阜城
正解→3 丸岡城

問052
天守は、城のシンボルであったが、明治維新後観光目的で建てられた最初の天守は、何城か。
1 大坂城
2 岐阜城
3 洲本城
4 大垣城
正解→2 岐阜城

問053
現存する天守のうち、唯一弓や鉄砲で射撃するための狭間が存在しない天守があるが、それは何城の天守か。
1 丸亀城
2 伊予松山城
3 宇和島城
4 高知城
正解→3 宇和島城

問054
天守の最上階に廻縁を付けたにも関わらず、雨よけのために後に板で囲ってしまうことがあった。次の城のうち、板で囲われたのはどの城か。
1 弘前城
2 丸亀城
3 和歌山城
4 津山城
正解→4 津山城

問055
天守の格式をあげるために、最上階に華頭窓を設けることがあったが、この格式高い窓を飾りとして貼り付けただけで、窓として機能していない天守が存在する。それは何城か。
1 犬山城
2 彦根城
3 姫路城
4 広島城
正解→1 犬山城

問056~061 島根県の「松江城天守」が新たに国宝に指定されることになった。松江城天守について次の問に答えなさい。

問056
天守が国宝に指定されるは、姫路城・松本城・犬山城・彦根城に続いて5件目となるが。天守の国宝指定は何年ぶりのことか。
1 28年ぶり
2 42年ぶり
3 63年ぶり
4 84年ぶり
正解→3 63年ぶり

問057
今回の指定は、城が完成した年を裏付ける祈とう札の再発見による所が大きい。この祈とう札に書かれていた年号はどれか。
1 慶長三年
2 慶長十年
3 慶長十三年
4 慶長十六年
正解→4 慶長十六年

問058
天守を支える柱は、写真のように柱に厚板を継ぎ合わせて張り、鎹や鉄輪で留められ強度を増しているが、天守にある総数308本の柱のうち、何本にこのような工夫が施されているか。
(この写真は私が撮影したものです。実際の問題の写真とは異なります)

1 18本
2 49本
3 82本
4 130本
正解→4 130本

 

 

問059
天守の築造は、二代堀尾忠氏が急逝したため、築城の名手と言われた父吉晴が行ったが、吉晴が約10年居城とした前任地の城はどれか。
1 浜松城
2 掛川城
3 横須賀城
4 駿府城
正解→1 浜松城

問060
天守内部には、籠城戦を想定し、井戸や便所が設けられていた。便所は、地階の他にもう一ヶ所あったが、何階に置かれていたか。
1 一階
2 二階
3 三階
4 四階
正解→4 四階

今回はここまでです。

日本城郭検定1級受験(問021~問040)

2015/6/7に行われた日本城郭検定1級の問題です。問001~問020はこちら

問021
織田信長は安土城築城に着手した翌年城下町整備のための「安土山下町中掟書」をだした。いわゆる楽市楽座令だがこの掟書は何条で出来ているのか。
1 3条
2 5条
3 10条
4 13条
正解→4 13条

問022
伊勢の国司から戦国大名となった北畠氏の本拠であり、国の指定史跡になっている城はどれか。
1 阿坂城
2 松ヶ島城
3 松阪城
4 霧山城
正解→4 霧山城

問023
南北朝時代の築城と伝えられ、城下町には武家屋敷などが良好な状態で残されていることから、九州・沖縄地区で最初の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された城下町はどれか。
1 知覧
2 佐土原
3 大分
4 飫肥
正解→4 飫肥

問024
室町時代の創築ながら、近世城郭で主流の水堀を2重にめぐらし、さらに巨大な土塁の断面を実物展示すると言う全国でも珍しい設備がある城はどれか。
1 多聞城
2 三原城
3 湯築城
4 勝龍寺城
正解→3 湯築城

問025・問026
豊臣秀吉が朝鮮出兵の陣城として築いた肥前名護屋城は、現在も発掘調査が進められている。(質問1)これまでに本丸南西部で発見された大型の建物跡は、畳約何条敷か。(質問2)
この建物は、大坂城では何に相当すると考えられているか。
質問1)※問025の解答欄にマークしてください。
1 50
2 100
3 150
4 300
正解→4 300
質問2)※問026の解答欄にマークしてください。
1 対面所
2 秀吉の居室
3 台所
4 大名の控室
正解→1 対面所

問027
戦国期の武将大関氏は関東では珍しく外様大名でありながら転封されることもなく明治まで続き、城下町には松尾芭蕉が奥の細道時に1ヶ所として最長の14日間滞在した城がある。それはどこか。
1 黒羽城
2 烏山城
3 黒須城
4 白河小峰城
正解→1 黒羽城

問028
正保城絵図も残る梯郭式の平城だが、戊辰戦争で焼失し、明治には本丸跡に停車場が造られたのはどれか。
1 長岡城
2 高田城
3 沼田城
4 小諸城
正解→1 長岡城

問029
弘前城では標高差の異なる水堀左右の中央にダム状の土手を作り水位を調整しているが、これを何と言うか。
1 水戸違い
2 尾張違い
3 堅違い
4 水違い
正解→1 水戸違い

問030
日本書紀の天智4年(665年)に記述のある山城はどの城か。
1 大野城
2 鬼の城
3 鞠智城
4 岩屋城
正解→1 大野城

問031
塀の内側に塀と直角に設け歩板などを渡し堀外の敵に攻撃を加えることができる設備はどれか。
1 控塀
2 仕切塀
3 横塀
4 出張塀
正解→1 控塀

問032
北条流の「兵法雄鑑」では土図盤で築城計画をするように記述があるのはどの縄張りの城か。
1 山城
2 水城
3 平山城
4 平城
正解→1 山城

問033
『信長公記』に記述されている安土城築城に従事した近江蒲生郡馬渕の職人の仕事はなにか。
1 石工
2 大工
3 瓦葺き
4 鍛冶
正解→1 石工

問034
「築城記」に山城で高さ5尺2寸、狭間は1町に30ヶ所と書かれているのはどれか。
1 塀
2 木戸
3 櫓[矢倉]
4 天守
正解→1 塀

問035
英国王使節が記した「日本渡航記」でロンドンに匹敵すると記されたのはどの都市か。
1 大阪
2 神戸
3 駿府
4 江戸
正解→3 駿府

問036
随筆「甲子夜話」を執筆した名を清、号を静山という藩主が居たのはどの城か。
1 平戸城
2 福岡城
3 水戸城
4 米沢城
正解→1 平戸城

問037
鳥羽伏見の戦いの時の幕府軍総督・大河内定質(松平定質)の居城はどれか。
1 大多喜城
2 佐倉城
3 川越城
4 甲府城
正解→1 大多喜城

問038
南北朝時代には山岳系密教寺院が城郭化に利用されたが、東北地方で南朝方が最後まで死守した密教系山城はどれか。
1 霊山城
2 船上山城
3 摩耶山城
4 赤坂城
正解→1 霊山城

問039
西の丸は徳川家康が隠居所を江戸城の今の西の丸に築いたのが起源だと言われるが、次の中で西の丸が無いのはどれか。
1 水戸城
2 姫路城
3 岡山城
4 和歌山城
正解→1 水戸城

問040
海上に浮かぶ島全体を城郭化したものを海城、海賊城、水軍城などと呼びならわされるが、小規模な島全体を城郭化した村上水軍の城はどれか。
1 屋島城
2 小豆島城
3 大三島城
4 能島城
正解→4 能島城

今回はここまでです。

日本城郭検定1級受験(問001~問020)

もう1ヶ月以上前になりますが2015/6/7に日本城郭検定1級を受験しました。
日本城郭検定公式サイト

2013/5/13に第2回で準1級を受験してから実に3回ぶり、第6回で1級の初登場です。勇んで挑戦してみましたが結果は散々。自己採点も途中でやめてしまいました。目指せ60点といったところでしょうか…初の1級ということでここで合格したらスゴイぞという思惑でした。本を読んでおさらい等、勉強らしきこともしました。しかしやはり1級、そんなに甘くはないです。

出題傾向
問題で目についたのが”なになにはいくつか”、”コレコレは何年か”といった特定の城に関する数字を当てる非常にディープな問題。特に今年国宝に再指定された松江城天守に関わる一種の時事問題がこれでもかと出てきました。城ファンとしてはこれくいらいアンテナを貼っていて当然といった感じなのでしょうか…なかなか手厳しい。

実問題
というわけでこれからしばらく1級の問題を掲載します(誤字脱字もそのままです)。気が向いたら全部載せるかもしれません。問題集もいずれ出版されるでしょうが、それまでのご参考にどうぞ。
私は気長に合格を目指します。受験でいろいろなところに行くことが出来て楽しいですし。なお、正解は自信がないので結果通知の後に記載します。申し訳ないです。
正解が公開されましたので記載しました。白文字で記載しましたので反転して確認してください。

問001
城に設けられた惣構(総構)代表例といれば後北条氏の小田原城、豊臣氏大坂城、徳川氏江戸城などだが、次の中で総延長が最も長かったのはどれか。
1 金沢城
2 姫路城
3 京都御土居
4 会津若松城
正解→3 京都御土居

問002
馬出には、様々な種類があるが、佐倉城に残っている馬出は江戸時代の軍学書による分類ではどれか。
1 真の馬出
2 草の馬出
3 真の丸馬出
4 草の丸馬出
正解→2 草の馬出

問003
徳川氏大坂城外郭主要4門に出枡形形式のものがあった。それはどれか。
1 大手門
2 玉造門
3 青屋門
4 京橋門
正解→3 青屋門

問004
石垣に使用する石材の産地が近場にない限り、遠方の産地から運搬せざるを得なかったが、城地自体が岩山であるため自前の石で築かれた城がある。それはどれか。
1 会津若松城
2 仙台城
3 盛岡城
4 弘前城
正解→3 盛岡城

問005
品川台場、五稜郭などで使用されている跳出が、石垣の勾配の一つとして挙げている軍学書はどれか。
1 海国兵談
2 武教全書
3 山鹿流兵法伝書
4 甲陽軍鑑
正解→1 海国兵談

問006
徳川幕府は武家諸法度などで全国支配体制を固めて行ったが、参勤交代制度や仕事を求めて江戸にやってきた武士階級・各種職人たちはすべて男性であり、江戸中期に100万に達した江戸人口の何%が男性であったか。
1 80
2 75
3 70
4 65
正解→3 70

問007
1615年、徳川幕府は「一国一城令」を発布したことにより、全国に存在する城の数は170城程度に整理された。発布以前の城の数はどれか。
1 3000
2 2000
3 1000
4 500
正解→1 3000

問008
戦国大名1号と言われる伊勢宗瑞(北条早雲)に始まる北条5代の城主たちは北条家の勢力拡大維持のため、各地の有力大名たちと姻戚関係を築いていた。次の中で関係のない大名は誰か。
1 今川義元
2 武田信玄
3 徳川家康
4 伊達政宗
正解→4 伊達政宗

問009
今日のコンクリート擁壁設計では断面内に引張り応力が発生しないように鉄筋を配置したり断面形状を変更したりするが、城の石垣は鉄筋もセメントも用いないで400年以上安定している。この伝統技術は、石垣断面中に引張り応力が生じないように間詰め石などを介して石材を積み上げて、土圧などを石積み断面内に集めて、なんという作用で抵抗しているものか。
1 アーチ
2 相互
3 複合
4 せん断抵抗
正解→1 アーチ

問010
1990年代の発掘調査により戦国時代の遺構が良好な状態で残されている事が分かり、全国的に見て珍しい山城の復元が行われている武田軍と徳川軍が争った城はどれか。
1 長篠城
2 横須賀城
3 二俣城
4 高根城
正解→4 高根城

問011
石垣断面には鉄筋もセメントも用いられていないので、土圧は出来るだけ小さくしないと安定しない。土圧を小さくするには石垣背面の地盤強度が大きい地山を活用しその場所に石垣を配置する。さらに裏込め・埋戻し土の強度を大きくするためには、どのような物をよく締め固めるなどの配慮が必要か。
1 粒度配分の良い砂質土
2 角の取れた河原石
3 粘土
4 山砂
正解→1 粒度配分の良い砂質土

問012
城とその城下町造りの思想は、東に流水(青竜)・西に大道(白虎)・南にくぼ地(朱雀)・北に丘陵(玄武)が備わる土地が望ましいと言われる。これは、古くからの陰陽道に基づく考えが基本にあるが、このような考えは何と言われるか。
1 四神相応
2 古神道
3 古儒教
4 平安京配置計画
正解→四神相応

問013
戦国時代の日本三大奇襲戦とは、桶狭間の戦い・厳島の戦い・川越城(川越夜戦)の戦いとした江戸時代の歴史書はどれか。
1 日本外史
2 海国兵談
3 大日本史
4 群書類従
正解→1 日本外史

問014
幕末期に異国船の襲来に備えて築城された和式の城は、蝦夷地の松前城の他に西日本にもあった。それはどれか。
1 唐津城
2 石田(福江)城
3 平戸城
4 肥後南関城
正解→2 石田(福江)城

問015
破風板の拝みには、その後方にある棟木の先端を隠す装飾用の材があるが、これは何と呼ばれるか。
1 懸魚
2 蟇股
3 薙眉
4 木連格子
正解→1 懸魚

問016
「養生訓」で著名な江戸時代の儒学者貝原益軒が、編纂にあたった家の歴史書はどれか。
1 黒田家譜
2 細川両家記
3 前田家家譜
4 伊達家治家記録
正解→1 黒田家譜

問017
城の石垣にも残る大名の家紋だが、戦場における識別のため急速に広がったのはいつの時代とされるか。
1 平安時代
2 鎌倉時代
3 室町時代
4 安土桃山時代
正解→2 鎌倉時代

問018
朝鮮半島には約800か所の城跡が確認されているが、朝鮮半島の城の基本形は中国東北地方で発達した北・東・西の三面は山に囲まれその稜線を石積みで囲み、南面は平地に開けた様態の山城である。何型と呼ばれるか。
1 高句麗型
2 任那型
3 百済型
4 朝鮮北方型
正解→1 高句麗型

問019
中国の城郭都市の巨大な城壁は、表面から1~2mの厚さで磚と言われ800℃程度で焼成した黒色煉瓦を鉛直に積み上げ、その内側を版築工法で盛土したものである。磚と盛土に利用されていたのはどれか。
1 黄土
2 洪積層粘土
3 沖積層粘土
4 亜炭
正解→1 黄土

問020
松代城は、山本勘助が縄張りした時は海津城と呼ばれたがその後の城主によって名前が変わった。松代城と呼ばれた時の城主は誰か。
1 松平忠直
2 松平忠輝
3 真田幸道
4 真田信繁
正解→3 真田幸道

今回はここまでにします。

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2015年3月7日)

小田原城の御用米曲輪では今年の3月まで史跡整備のための発掘調査が行われています。最後の現地説明会が3月7日(土)に行われました。

今回は昨年度確認され、歴史ファンの間で大きな話題となった切石敷庭園から続く石組みの溝や、江戸時代の地震による地割跡などが確認されました。

これまでの説明会については以下をご覧ください。

第1回(2012年2月4日)
第2回(2012年8月18日)
第3回(2013年2月16日)
第4回(2013年10月19日)
第5回(2013年11月23日)
第6回(2013年12月21日)
第7回(2014年3月8日)
第8回(2014年11月8日)

  •  切石敷き庭園に続く石組み水路
    現在は遺構保護のため埋め戻された切石敷き庭園には、石組みの溝のようなものが続いていることが確認されていました。今回は江戸時代の蔵の遺構を壊さないように、その石組みの溝の続きを探る調査が行われました。その結果、石組みの溝は曲がりながら北西へと続き、礎石建物の周りをおよそ20メートルの長さで続いていました。
    江戸時代以降に壊されている部分がありましたが、これにより切石敷き庭園とセットになっていたであろう礎石建物の存在が明確になりました。
    これら切石敷き庭園・石組み溝は北条氏時代の終わり頃には埋め立てられ、その跡に礎石建物が建てられていたことがわかりました。このことから小田原合戦の時にはすでに切石敷き庭園は土の下で、秀吉や家康、後の小田原藩主らも目にすることはなく、420年以上の時を経て現代の私達の目の前に現れたわけです。
    切石敷きの庭園から続く石組み構
    切石敷きの庭園から続く石組み構
    石組み水路と数々の礎石
    石組み水路と数々の礎石
  • トレンチ再調査の成果
    今回は昭和57年度に調査されたトレンチの再調査も行われました。以前の調査は江戸時代の深さまでしか行っていませんでしたが、今回は戦国時代の深さまで調査が行われました。
    その結果、戦国時代の建物礎石跡、石組み水路、金製の飾り金具などが見つかりました。特に石組み水路は御用米曲輪で確認された他の石組み水路よりもしっかりとした造りで一見すると近世のもののように見えます。これらの発見から御用米曲輪北側にも戦国時代の遺跡が濃密に分布していることが確認できました。
    戦国時代の少し上の地層からは地震による地割れの跡が確認されました。これは寛永地震の痕跡と考えられ、小田原城と地震の関係を考える上で重要な発見となりました。
    立派な石組み水路
    立派な石組み水路
    礎石
    礎石
    地震による地割れ跡
    地震による地割れ跡
  • 結び
    足掛け3年におよぶ御用米曲輪の発掘調査も3月末で一区切りとなり、調査の場は発掘現場から室内へと移ります。現地説明会もこれが最後です。
    今回の調査での最大の成果はなによりも小田原城中心部で初めて見つかった大規模な戦国時代の遺構になるでしょう。しかもそれは全国にも類例のない切石敷き庭園で、後北条氏独特の切石文化ともいうべきものも見えてきました。
    非常に貴重なこれらの遺構ですが、保護のため埋め戻されることになります。数百年ぶりに姿を現したこれらの遺構が再び人々の目に触れるのはいつになるのでしょうか。数百年に一度の貴重な景色を見ることができ非常に感慨深いものがあります。
    今後、御用米曲輪は戦国時代エリアと江戸時代エリアに分けて整備が行われ、切石敷き庭園も同じ場所に復元展示されるそうです。はやく戦国時代の御用米曲輪の再現イメージを見てみたいものです。

小田原城天守模型等調査報告会

12/20(土)に小田原市民会館にて”小田原城天守模型等調査報告会”が行われました。小田原城関連の報告会ということで行ってきました。会場は定員150名ほどで、本降りの雨の中にもかかわらず、7割ほどが埋まっていました。

  • 調査目的

来年から小田原城天守は大掛かりな耐震補強工事を行います。この工事に際し昭和35年(1960)に建設された現在の鉄筋コンクリート天守の設計方法、設計根拠等を調査する。

  • 現存の天守の設計根拠

現在の天守の外観設計(復元)根拠は主に模型と図面である。模型については3種類が確認されている。

大久保模型…大久保神社所蔵。現在は小田原城天守に展示。壁を省略しており内部の骨組みの様子がよくわかる。

大久保模型
大久保模型

東大模型…旧東京大学所蔵。現在は小田原城天守に展示。壁が表現されている。

東大模型
東大模型

東博模型…東京国立博物館所蔵。現在は神奈川県立歴史博物館に展示。大久保模型と同様に壁が省略されている。

東博模型
東博模型

小田原城三重天守引図…小田原藩作事方川部家に伝わっていたもの。原図は太平洋戦争で焼失。写しが小田原城天守に展示。

現在の天守の復元を行ったのは藤岡通夫氏で、氏は小田原城の他、和歌山城や小倉城などのコンクリート天守の設計を行っている。

小田原城天守の復元にあたって藤岡氏が参考にした模型は大久保模型と東大模型。東博模型については大久保模型と”まったく同一”として参考としていない。総合的な意匠構造は東大模型、平面規模は大久保模型、高さはその中間的なものとして。宝永3年(1706)再建天守の外観を目指して設計された。天守の高欄については往時はなかったものだが、小田原市の強い要望により設けられた。小田原城が外観復元天守と呼ばれず、復興天守と呼ばれるのはこのため。

  • 東博模型と摩利支天

文献資料によると小田原城天守には七尊を祀る空間があったとされる。摩利支天・大日如来・阿弥陀如来・如意輪観世音・弁財天女・子安地蔵・薬師如来で、天守のどこかに祀らていた記録が残る。明治時代の天守解体後、これら七尊は永久寺に移されたが、摩利支天のみコンクリート天守の復興時に天守最上階に戻された。
今回初めて詳細な調査が行われた東博模型には、最上階に特別な施設がある。これこそが上記の摩利支天像を祀る空間と判明した。大久保模型最上階にもその施設らしきもの(一部を上段とし、上段に相対して二本の柱を立てる)が不完全ではあるが存在している。この空間について藤岡氏は「その意図が不明」としている。
東博模型では須弥壇上部の火灯窓など、より詳細に再現がされている。これまで東博模型は神奈川県立歴史博物館に展示されていたが、展示台上に展示されており上層階内部を目にすることはできなかった。調査担当者によると椅子を借りて上層階を確認したところ明らかに他と異なる特別な空間が一目でわかったとのこと。

東博模型4階内観
東博模型4階内観
摩利支天像と厨子
摩利支天像と厨子
永久寺所蔵六尊
永久寺所蔵六尊

来年からの小田原城天守耐震補強工事では、同時に内部の展示もリニューアルするとのこと。今回の調査で判明した摩利支天を祀る特別な空間も復元する予定。

天守最上階内部復元パース
天守最上階内部復元パース
  • 天守模型の類例

全国には江戸時代以前に造られた天守模型が8棟残されている。小田原城天守3棟の他は宇和島城天守、松江城天守、延岡城三重櫓、延岡城二重櫓、大洲城天守である。多くは天守が損傷した際の修築方法検討のために造らえれたと考えられている。
中には縦横比が異なっていたり、柱が異常に太かったりするものもあるが重要な部分を強調しているとも考えられ、模型の造られた目的を考える必要がある。
特に宇和島城の天守模型は保存状態が良好で、完成度が非常に高い。天守も現存しているため天守実物と模型を比較することで、模型独特の表現方法を知ることができる。

宇和島城天守模型
宇和島城天守模型
松江城天守模型
松江城天守模型
大洲城天守模型
大洲城天守模型

  • 感想

天守模型についての調査ということで非常に面白いテーマでした。
コンクリート製であるにせよ木造であるにせよ天守を復元する大きなカギとなるのが模型です。小田原城はそれが3棟もあり、いずれも出来が良いとのことです。その気になれば木造復元も可能なようです。今は行方不明となっていますが小田原城五重天守模型もあったとか。
3棟のうち大久保模型と東大模型は神奈川県重要文化財に指定されていますが、摩利支天を祀る空間の謎の解明につながった東博模型は文化財指定を受けていないとの事。質疑応答でも東博模型を文化財指定して小田原に展示することはできないか、といった質問がありました。この辺りは文化財を適切に管理、展示できる環境の整備が必要なためすぐという訳にはいかないでしょう。小田原市ではようやく出土した文化財を展示するための天守以外の施設である「歴史博物館」整備計画が始まったそうで、こういった環境が整えば、重要な文化財も良好な環境で展示することができると思います。
ひとまずは来年度からの天守耐震補強工事&リニューアル工事で小田原城が昔ながらの展示から、今風の魅力ある展示へ変わってくれることを期待します。
なお冬休みに東博模型を見に行ってみようかと考え中。

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2014年11月8日)

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。約8ヶ月ぶりの現地説明会が11月8日(土)に行われました。

今回は前回までの発掘説明会での目玉であった切石護岸の池(2号池)の大半が埋め戻されていましたが、それによりこれまで発掘の出来なかった部分が発掘可能となり、池の北側護岸が確認されています。切石敷庭園でも新たな発見がありました。

これまでの説明会については以下をご覧ください。

第1回(2012年2月4日)
第2回(2012年8月18日)
第3回(2013年2月16日)
第4回(2013年10月19日)
第5回(2013年11月23日)
第6回(2013年12月21日)
第7回(2014年3月8日)

  • 切石護岸の池周辺
    これまで切石護岸の池と呼ばれていた池は、周囲を切石で護岸した下段の池(2号池)、下段の池と水路で接続し、水を流していた池を上段の池(1号池)と呼ぶようになりました。
    2号池は遺跡保護のため大半が埋め戻されていますが、新たに北側に10メートルほど護岸を確認することが出来ました。これによりおおよそ池の3/4の範囲が確認出たと考えられています。
    1号池はこれまでの調査で確認されていましたが、今回その下層に切石敷きの池が存在していたことがわかりました。池は楕円形の小さなもので根府川石や箱根安山岩を立てて護岸としています。この1号池には西側の石組み遺構から水を引いており、1号池から水路を経て西側の2号池に滝のように水を流していたと思われます。これらは戦国時代のものとは思えないとても凝った造りです。
    2号池北側護岸
    2号池北側護岸
    2号池と1号池
    2号池と1号池
    1号池と石組み遺構
    1号池と石組み遺構

     

  • 切石敷庭園
    御用米曲輪南側のほぼ中央で確認された切石敷きの庭園は、全国的にも類例のない極めて珍しい形状で、歴史ファンの間で大きな話題になりました。切石敷きは鎌倉石と風祭石、安山岩によって造られその規模は最大で東西6メートル、南北9メートルを測るものと考えられています。
    切石敷庭園の中央で出土した板状巨石は本来は立っていたことがわかりました。この巨石には仏像と梵字が刻まれていたようですが、これらは丁寧にノミで削り取られています。誰が何のために削ったのかは謎で、北条氏独特の思想があったのかもしれません。
    切石敷庭園
    切石敷庭園
    仏像の削られた巨石
    仏像の削られた巨石
    巨石に刻まれた梵字の様子
    巨石に刻まれた梵字の様子

     

  • 建物群
    これまでの調査で御用米曲輪の南西部では濃密に建物群が広がっている様子が確認されています。これまでに礎石建物跡が8棟、掘立柱建物跡が7棟を数え、戦国時代の終わりごろの建物跡と考えられています。
    建物群の中心であると思われる最も大きな建物には小さな礎石建物が付随しています。今回の調査で、切石・板石敷きの排水施設が確認され、傍らに切石敷井戸があることからこの建物は湯屋(蒸し風呂)の可能性が高いそうです。蔵と思われる建物も見つかりました。氏政に家督を譲った氏康は「御本城様」と呼ばれ、「大蔵」の管理を行っていたとの記録があります。大蔵とは税収の管理であり、氏康の隠居館には「大蔵」が伴っていたと考えられています。もし御用米曲輪が大蔵を伴う「御本城」であったとすると、全体的には庭園などを伴う居館的な様相を持ちながら、蔵も備えるという発掘結果と合致します。
    南側から見た発掘現場全景
    南から見た発掘現場全景

    いつかの記事で私見として書きましたが、北条氏時代、現在の本丸に当主、本丸の真下に位置する御用米曲輪に前当主が居住し、八幡山は詰城的な位置づけで普段の生活には使用していなかったのでは、といったことを再び想像する今日このごろです。

海から小田原を見てみよう

私の好きな某番組のタイトルをパクってみました。

10/25(土)に小田原ガイド協会主催「海から見る小田原・真鶴〜相模湾から眺める富士・箱根・丹沢〜」が行われました。普段は真鶴から三ツ石のあたりまで運行している遊覧船で小田原方面まで行ってみようという企画です。海から小田原を見る貴重な機会ということで参加しました。
真鶴から早川のあたりまではまとまった平地はほとんどなく、海から直接山が立ち上がる地形が続き、その先に足柄平野が広がります。海から見ると小田原もなかなか都会に見えるから不思議なものです。背後には街を抱くように箱根連山、丹沢山が望めます。
この日は残念ながらガスってて伊豆大島や三浦半島は見ることが出来ませんでした。富士山は少し見えましたがすぐ雲に隠れてしまいました。条件が良いと城山から利島が見えることもあるので、船上からはどこまでの眺望があったのでしょう…

真鶴港の周りは良い意味で神奈川県とは思えないのんびりした雰囲気です。

真鶴 遊覧船のりば
真鶴 遊覧船のりば

普段は城などの建物ばかり撮っている私ですが、遊覧船を追いかけてくるカモメを良い感じに撮ることが出来ました。

カモメその一
カモメその一
カモメその二
カモメその二

写真中央の大きな山は明神ヶ岳です。小田原から見える箱根の山々の中でもそのボリューム感からひときわ目立ちます。歌川広重の小田原宿の浮世絵でもこの山が描かれています。(もしかしたら左どなりの明星ヶ岳かもしれません…)

海から見た小田原その一
海から見た小田原その一

小田原もここ十数年で10階建て程度の中層マンションがずいぶんと増えました。こうやって見ると海側に多くのマンションが建っていることがわかります。目を凝らすと小田原駅の駅ビルも見えます。

海から見た小田原中心街その一
海から見た小田原中心街その一
海から見た小田原中心街その二
海から見た小田原中心街その二

なかなか見ることが出来ない海からの小田原城です。市街地からは周囲の建物に埋もれがちですが、海から見ると遮るものがないため存在感があります。江戸時代の旅人もこのような風景を見ていたのでしょう。

海から見た小田原城天守その二
海から見た小田原城天守その二
海から見た小田原城天守その一
海から見た小田原城天守その一

早川から酒匂川にかけてのパノラマ写真を作ってみました。サイズが8400×1200と大きいため右クリック→新しいタブで開いてください。
海から見た小田原(早川から酒匂川まで)

小田原城プロジェクションマッピング

7/26(土)、27(日)の二日間、小田原城址公園で第23回小田原ちょうちん夏まつりが行われました。毎年恒例のお祭ですが人混みが苦手な私はほとんど行ったことがありません。今年は小田原城天守で流行りのプロジェクションマッピングが行われるとのことで行ってみました。

19:45分位にお堀端に到着しましたが思った以上の人混み。
小田原のまちなかで活気というものを久々に感じました。ちょうちんを眺めつつ馬出門、銅門経由で本丸へ。常盤木門前の階段ではどこかの初詣のような賑わい。ここにこんなに沢山の人が居るのを見たのは初めてです。

天守に投影されるプロジェクションマッピングは音声や動きはなく、1分間隔くらいで投影される絵柄が変わるようで「デジタル掛け軸」と銘打っていました。動きが無いものは正確にはプロジェクションマッピングとは呼ばないらしいですが…

第23回小田原ちょうちん夏まつり
第23回小田原ちょうちん夏まつり
小田原城プロジェクションマッピングその一
小田原城プロジェクションマッピングその一
小田原城プロジェクションマッピングその二
小田原城プロジェクションマッピングその二
小田原城プロジェクションマッピングその三
小田原城プロジェクションマッピングその三
小田原城プロジェクションマッピングその四
小田原城プロジェクションマッピングその四
小田原城プロジェクションマッピングその五
小田原城プロジェクションマッピングその五
小田原城プロジェクションマッピングその六
小田原城プロジェクションマッピングその六
小田原城プロジェクションマッピングその七
小田原城プロジェクションマッピングその七
小田原城プロジェクションマッピングその八
小田原城プロジェクションマッピングその八

色とりどりの光によって様々に表情を変える天守は現実離れした景色です。三脚を持っていかなかったため写真に微妙なブレが発生していますが、それが余計に現実離れ感を加速させています。
赤系は城が燃えているようでなんともドラマチック、青系は涼しげで凛とした雰囲気、虹色系(?)はサイケデリックな感じでした。
普段見ることの出来ない異色の小田原城を見ることが出来ました。来年も是非行ってほしいものです。

小田原城の桜 2014

今年も桜の季節となりました。例年通り桜の写真を撮るために朝の小田原城に行ってきました。4/1(火)の撮影で、この翌日からは天気が下り坂のため、最後のチャンスと思いなんとか都合をつけました。
7時くらいに到着しましたが、さすがに平日の早い時間なので人もまばら。しかし8時くらいになると徐々に人が増え始めました。あまり人が映らないようにしたいため、早めの時間に行って正解でした。
なにはともあれ、今年も小田原城の桜を撮影することが出来て良かったです。来年も無事撮影できることを願います。

お堀端通りの桜
お堀端通りの桜
二の丸の桜
二の丸の桜
隅櫓と桜
隅櫓と桜
天守と桜 その一
天守と桜 その一
天守と桜 そのニ
天守と桜 そのニ
銅門と桜
銅門と桜
天守と桜 その三
天守と桜 その三
隅櫓から銅門方面を望む
隅櫓から銅門方面を望む

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2014年3月8日)

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。今年最初の現地説明会が3月8日(土)に行われました。

本説明会の後、第5次調査で御用米曲輪の西から南にかけて確認された戦国時代の遺構は保存のため埋め戻されます。戦国小田原城の貴重な遺構の数々を直接目にすることが出来る最後の機会となりました。今後も御用米曲輪の発掘調査は引き続き行われますが、ひとつの区切りを迎えたと言ってよいでしょう。
これまでの発掘成果ですでに埋め戻されているものもあり、今回はまだ見ることが出来る戦国時代の遺構についてのまとめ記事としました。写真は過去のものも混ざっているのでご了承ください。これまでの説明会については以下をごらんください。

第1回(2012年2月4日)
第2回(2012年8月18日)
第3回(2013年2月16日)
第4回(2013年10月19日)
第5回(2013年11月23日)
第6回(2013年12月21日)

  • 切石護岸の池
    第5次調査最大の目玉がこの切石護岸の池です。御用米曲輪の南端に位置し、調査範囲内だけでも外周45メートル以上あり、周囲を湾曲させて岬や入江の景色を作り出しています。最大の特徴は護岸に石塔(五輪塔や宝篋印塔)の部材を、二次的な加工を加えながらきれいに並べてタイル上に貼り付けていることで、これは全国にも類例がなく大きな話題となりました。池底から16世紀後半の「かわらけ」が出土しており、北条氏時代に造られたものと考えられています。石塔の部材を意識して使用しており、他に類例がないことから北条氏独特の文化や美意識があったのではないかと考えられています。また、使える石材は墓石であろうと使用していることから当時の人々の価値観を考える良い資料にもなります。池底からは舟の木材も発見されています。
    切石敷きの池
    切石敷きの池
    舟の木材
    舟の木材
    出土した石塔の部材
    出土した石塔の部材
  • 切石敷きの庭園
    切石敷きの庭園は御用米曲輪の南側、昨年の調査で確認された庭状遺構とつながるものです。こちらも切石護岸の池と同様に、地面に多角形の切石をタイル上に敷き詰めています。切石は「鎌倉石」と呼ばれる三浦半島の凝灰岩、「風祭石」と呼ばれる箱根の凝灰岩、安山岩で造られています。一部は江戸時代の土坑によって破壊されていますが、その規模は最大で東西6メートル、南北9メートルになると考えられています。黄色い「鎌倉石」と黒い「風祭石」を幾何学的に加工し、モザイクのように不規則に組み合わせている点は近代的な印象さえ受けます。ところどころに置かれた安山岩の巨石が目を引きます。中央には井戸のような穴があり、切石から水を落としていたとか、通路として用いられたなどさまざまな説がありますが、その目的はわかっていません。切石護岸の池と同様に全国的にも類例がないことから北条氏が斬新な発想を持っていたことを示す貴重な遺構です。
    切石敷き庭園
    切石敷き庭園
    切石敷き庭園
    切石敷き庭園
  • 切石敷きの井戸
    御用米曲輪の南西部では切石敷きの庭園と同様に、切石を用いた井戸が確認されています。井戸は直径0.8メートル、円礫を4メートル以上積み上げた石積み井戸で、周囲には井戸を囲むように約2.5メートル四方に切石が敷かれています。切石には「鎌倉石」と「風祭石」が使われており、極めて丁寧な作りであるため特別な井戸であったと考えられています。発掘範囲の奥にあるため近くから見ることが出来なかったことが悔やまれます。
    切石敷井戸2
    切石敷井戸2
    切石敷井戸1
    切石敷井戸1
  • 礎石建物群と石組水路
    御用米曲輪の南西部、切石敷きの井戸の周囲には建物群が広がっていたようで、建物跡が10棟以上確認されました。最も大きな建物は7間(12メートル)以上の規模がある礎石建物です。これらの建物の周囲には溝や石組水路、石列が整然と配置されています。これらの遺構を境に砂利や玉石が敷分けられており、それぞれ役割や敷地の性格の違いを示していると想定されています。
    南西部の建物群跡
    南西部の建物群跡
    石組水路
    石組水路

これまでの第5次調査の結果から、戦国時代の御用米曲輪は庭園や礎石建物を備えた非常に格式の高い空間であったことが想定されています。全国でも類例のない切石を多用した作庭方法は北条氏独特の文化として「北条切石文化」と呼んでも差し支えないかもしれません。
また、戦国時代の大名居館としては大友氏館跡、大内館跡、一乗谷朝倉氏関連遺跡などが有名ですが、御用米曲輪のように内部の構造が垣間見えた例は極めて稀です。これらのことから文化庁や専門家の方々からも大変希少な遺跡であるとの評価を得ており、北条ファンとしては嬉しい限りです。

これまでの貴重な発掘成果が再び埋め戻されるのは残念ですが、貴重だからこそ埋め戻す必要があるのでしょう。400年ぶりの「お目見え」に立ち会えたことを幸運に思います。今後も御用米曲輪での発掘調査は続きますが、これから何が見つかるのか全く想像ができません。次の説明会が楽しみです。