「小田原」カテゴリーアーカイブ

小田原 歴史的町名碑めぐり その六

小田原 歴史的町名碑めぐり その五の続きです。
これで歴史的町名碑めぐりは終了です。

これまでの小田原 歴史的町名碑めぐりは以下をご覧ください。
小田原 歴史的町名碑めぐり その一
小田原 歴史的町名碑めぐり その二
小田原 歴史的町名碑めぐり その三
小田原 歴史的町名碑めぐり その四
小田原 歴史的町名碑めぐり その五

077 山上横町(やまがみよこちょう)2018/03/25撮影
「町名の由来は、小田原北条氏の家臣山上強右衛門の屋敷があったためといわれている。この横町は、一丁田町と台宿町の境を東西に延びる通りで、誓願町寄りをいう。」

077-01-01_山上横町
077-01-01_山上横町
077-01-02_山上横町
077-01-02_山上横町

078 誓願町(せいがんちょう)2018/03/25撮影
「町名の由来は、誓願寺の門前にあたるためといわれている。この小町は、一丁田町の東寄りの地域をいう。」

078-01-01_誓願町
078-01-01_誓願町
078-01-02_誓願町
078-01-02_誓願町

079-01 台宿町(だいじくちょう)2018/03/25撮影
079-02 台宿町(だいじくちょう)2018/03/25撮影
「この町は江戸時代からの商人町で、後には衣類を扱う店が多かった。町内の東には、山上横町という横町があり、林角(林学)小路がこの町と一丁田町との境を西に向っている。」

079-01-01_台宿町
079-01-01_台宿町
079-01-02_台宿町
079-01-02_台宿町
079-02-01_台宿町
079-02-01_台宿町
079-02-02_台宿町
079-02-02_台宿町

080-01 大工町(だいくちょう)2018/03/25撮影
080-02 大工町(だいくちょう)2018/03/25撮影
「小田原北条氏時代、この町は、大工(この時代、鋳物師や左官、鍛冶工などの諸職の職人頭を大工といった)が住む町であったために、大工町とよばれたと伝えられている。江戸時代からは大工だけではなく商人も住むようになった。」

080-01-01_大工町
080-01-01_大工町
080-01-02_大工町
080-01-02_大工町
080-02-01_大工町
080-02-01_大工町
080-02-02_大工町
080-02-02_大工町

081 本源寺前(ほんげんじまえ)2018/03/25撮影
「地名の由来は、小田原城主大久保忠朝が貞享三年(一六八六)に下総佐倉城(千葉県)から移封された時に移した内庵の一つであった「本源寺」にちなむものである。本源寺前は、「堀川通り」、「内川通り」などとも呼ばれていた。」

081-01-01_本源寺前
081-01-01_本源寺前
081-01-02_本源寺前
081-01-02_本源寺前
081-01-03_本源寺前
081-01-03_本源寺前

082 八反畑(はったんばた)2018/03/25撮影
「小田原北条氏時代、この地には「大雲軒」(市内板橋の興徳寺の前身)という寺があった。稲葉氏時代には藩の蔵屋敷や菜園、茶園などになった。後期大久保氏時代には藩士の屋敷が多く、本源寺の東横から裏手にかけては割屋敷があった。」

082-01-01_八反畑
082-01-01_八反畑
082-01-02_八反畑
082-01-02_八反畑

083 手代町(てだいちょう)2018/03/25撮影
「地名の由来は、この地内の北西の角に「手代」が住んでいたためといわれる。ここでいう「手代」は商家の者ではなく、奉行や代官の配下の藩士たちのことである。」
石碑の脇には笠守稲荷という巴御前にゆかりのある神社があります。神社の由来書きによると小田原市内栢山の善栄寺には巴御前の墓があるとのこと。調べたところ、善栄寺には巴御前ばかりではなくその夫である木曽義仲、北条氏康夫人、二宮尊徳とその一族の墓もあるそうです。北条氏康夫人や二宮尊徳は小田原にゆかりのある人物なので驚きませんが、まさか木曽義仲と巴御前の墓が小田原にあるとは知りませんでした。

083-01-01_手代町
083-01-01_手代町
083-01-02_手代町
083-01-02_手代町
083-01-03_手代町
083-01-03_手代町

歴史的町名碑めぐり終了
一年以上をかけてサボりサボりようやくすべての歴史的町名碑をめぐることができました。
整理したところ町名数は83、石碑の数は105でした。
小田原に30年以上住んでいながら、これまで一度も足を踏み入れたことがない場所もあり、あらためて小田原城とその城下町の広大さを実感できました。
そして、それぞれの場所にかつて意外なものがあったり、今まで知らなかった小田原のエピソードを知ることができました。何気ない街並みを記録することもでき、何年か後にこの写真を見て小田原の街並みの移り変わりを感じることができればなお良いかなと思っています。

小田原 歴史的町名碑めぐり その五

小田原 歴史的町名碑めぐり その四の続きです。

これまでの小田原 歴史的町名碑めぐりは以下をご覧ください。
小田原 歴史的町名碑めぐり その一
小田原 歴史的町名碑めぐり その二
小田原 歴史的町名碑めぐり その三
小田原 歴史的町名碑めぐり その四

063-01 弁財天(べざいてん)2018/03/18撮影
063-02 弁財天(べざいてん)2018/03/18撮影
「江戸時代初期、この地を「弁財天曲輪」と呼んでいた。しかし、元禄十年(一六九七)に蓮池の南側にあった「評定曲輪」を「弁財天曲輪」と名称を変えたため、ここを単に「弁財天」と呼ぶようになった。幕末にはこの地に六・七軒ほどの中堅藩士屋敷があった。」

063-01-01_弁財天
063-01-01_弁財天
063-01-02_弁財天
063-01-02_弁財天
063-02-01_弁財天
063-02-01_弁財天
063-02-02_弁財天
063-02-02_弁財天

064 元蔵(もとぐら)2018/03/18撮影
「小田原城主が稲葉氏であった江戸時代前期、小田原城外の北方に新しく米蔵が建設され、これを「新蔵」と呼んだ。そのため以前から三の丸の弁財天曲輪にあった米蔵は「元蔵」と読んで区別したらしい。元蔵は江戸時代後期廃止され、五軒ほどの藩士屋敷に分割された。やがてその地名も「弁財天」に含まれるようになった。」

064-01-01_元蔵
064-01-01_元蔵
064-01-02_元蔵
064-01-02_元蔵

065 天守裏(てんしゅうら)2018/03/18撮影
「この地は、もと小田原城の天守台の裏手に直接続いていたのでこの地名がある。現代に入り東海道線の開削工事によって東西に分断された。ここは「八幡山古郭群」と呼ばれる小田原城創始期の城跡の残る地域に続き、小田原城の核心部として重要な地域であったことが知られる。」

065-01-01_天守裏
065-01-01_天守裏
065-01-02_天守裏
065-01-02_天守裏

066 小峰畑(こみねばた)2018/03/18撮影
「この盆地状の土地は、古くは城の要害として利用されたと考えられ、江戸時代には、この地の土砂を小田原城の低地部の改修用に運び出したという伝承もある。また、相模湾岸などの警備が重視される幕末のころ、ここには「小峰畑調練場」となり、小田原藩兵の軍事訓練が行われた。」
現在ここには小田原競輪場がありますが、競輪場の地形は盆地状になっています。幕末の小田原城絵図「文久図」を見るとやはりこの競輪場の場所が調練場だったようです。

066-01-01_小峰畑
066-01-01_小峰畑
066-01-02_小峰畑
066-01-02_小峰畑
066-01-03_小峰畑
066-01-03_小峰畑

067 小峰(こみね)2018/03/18撮影
「小峰と呼ばれていた地域はかなり広く、また時代によってその範囲が著しく伸縮したが、武家屋敷としての小峰はこのあたりを指し、江戸時代中期ごろには藩の重臣屋敷が並んでいた。」

067-01-01_小峰
067-01-01_小峰
067-01-02_小峰
067-01-02_小峰

068 天神山(てんじんやま)2018/03/18撮影
「地名の由来は、この地の南側中腹に天神社が祀られていたので、この名があると考えられる。この社には室町時代の天神画像が伝えられており、この地名の古いことがわかる。なお、天神山には社の背後に小田原北条氏時代の三の丸の空堀が東西に伸びていた。」

068-01-01_天神山
068-01-01_天神山
068-01-02_天神山
068-01-02_天神山
068-01-03_天神山
068-01-03_天神山

069-01 新道(しんみち)2018/03/18撮影
069-02 新道(しんみち)2018/03/18撮影
「この道は、小田原城三の丸堀沿いの道で、文化十四年(一八一七)小田原の大火のとき逃げ道がなくて多数の焼死者が出たことから新たに造られたので新道といった。西の出口は箱根口へ、東は宮前町高札場(こうさつば・幕府の法令などを掲示する場所)の北側に通じている。」

069-01-01_新道
069-01-01_新道
069-01-02_新道
069-01-02_新道
069-02-01_新道
069-02-01_新道
069-02-02_新道
069-02-02_新道

070 隅屋敷(すみやしき)2018/03/18撮影
「小田原城の二の丸と三の丸の堀に挟まれた場所は、江戸時代には藩の重臣たちの、長方形の区画の屋敷が並んでいた。しかし、南西角のこの地だけは、三の丸の堀が曲折するため方形にならず三角形の土地になり、屋敷地としては軽視された。そのため稲葉氏が城主の頃には細分して足軽の住む割屋敷とした。大久保氏時代の文政年間(一八一八~二九年)には五軒ほどの藩士の住まいがあった。」

070-01-01_隅屋敷
070-01-01_隅屋敷
070-01-02_隅屋敷
070-01-02_隅屋敷

071 御用所(ごようしょ)2018/03/18撮影
「地名の由来は、この地に藩の御用所があったのでこの名がついた。御用所とは、藩士の執務所で、始め(元禄の頃)箱根口門の東隣にあったが、その後(文政の頃)この地に移された。幕末には母屋(おもや)を囲んで敷地内に六棟の建物があった。」
現在ここはお堀端通りとなっており、小田原観光のメインストリートとなっています。石碑の目の前には小田原公共職業安定所があります。この建物もなかなか古い建物で、昭和レトロの趣があります。

071-01-01_御用所
071-01-01_御用所
071-01-02_御用所
071-01-02_御用所
071-01-03_御用所
071-01-03_御用所

072-01 大手前(おおてまえ)2018/03/18撮影
072-02 大手前(おおてまえ)2018/03/18撮影
「町名の由来は、ここが小田原城大手門に通じていたためといわれ、当時は重臣屋敷が並んでいた。大手前から東に走る道路は、甲州道と交差し、そこには柵門(大手先黒門)があり、その先は唐人町に通じていた。」
現在ここには箱根駅伝で有名な国道1号線、小田原のクランクがあり、突き当りには小田原市民会館が建っています。

072-01-01_大手前
072-01-01_大手前
072-01-02_大手前
072-01-02_大手前
072-02-01_大手前
072-02-01_大手前
072-02-02_大手前
072-02-02_大手前
072-02-03_大手前
072-02-03_大手前

073-01 一丁田町(いっちょうだちょう)2018/03/18撮影
073-02 一丁田町(いっちょうだちょう)2018/03/18撮影
「この町は、商人町の色が濃く、郷宿(ごうやど・公用で藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)も数軒あった。町内の東北部に誓願町という小町があるが、この名は、誓願寺の門前にあったためといわれている。」

073-01-01_一丁田町
073-01-01_一丁田町
073-01-02_一丁田町
073-01-02_一丁田町
073-02-01_一丁田町
073-02-01_一丁田町
073-02-02_一丁田町
073-02-02_一丁田町

074 林学小路(りんがくこうじ)2018/03/18撮影
「林学小路は、小田原城三の丸堀端から一丁田町と台宿町の境とを東西に結ぶ小路をいう。この地名は、小田原北条氏時代からの住人であった渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものといわれている。」

074-01-01_林学小路
074-01-01_林学小路
074-01-02_林学小路
074-01-02_林学小路

075 林学横町(りんがくよこちょう)2018/03/18撮影
「この地名は、小田原北条氏時代からの住人であった渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものといわれている。林学横町は、大工町から林学小路まで南北に走る横町をいう。」

075-01-01_林学横町
075-01-01_林学横町
075-01-02_林学横町
075-01-02_林学横町

076-01 林学(りんがく)2018/03/18撮影
076-02 林学(りんがく)2018/03/18撮影
「この地名は、小田原北条氏時代からの住人であった渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものといわれている。なお、この地は「林角」や「林岳」とも表記された。」

076-01-01_林学
076-01-01_林学
076-01-02_林学
076-01-02_林学
076-02-01_林学
076-02-01_林学
076-02-02_林学
076-02-02_林学

小田原 歴史的町名碑めぐり その四

小田原 歴史的町名碑めぐり その三の続きです。

これまでの小田原 歴史的町名碑めぐりは以下をご覧ください。
小田原 歴史的町名碑めぐり その一
小田原 歴史的町名碑めぐり その二
小田原 歴史的町名碑めぐり その三

048 御厩小路(おうまやこうじ)2017/12/02撮影
「御厩小路は、西海子小路がこの小路に交差する地点の西側に位置し、地名の由来は小田原藩の馬屋があったことによる。小田原城主稲葉正則がここに馬を見に来たという記録も残されている。この小路は、熱海街道の起点でもあった。」

048-01-01_御厩小路
048-01-01_御厩小路
048-01-02_御厩小路
048-01-02_御厩小路

049 御花畑(おはなばた)2017/12/02撮影
「この地には、もと小田原北条氏の家臣松田氏の屋敷があった。江戸時代、藩主稲葉氏は寛永十一年(一六三四)、京都に上る将軍徳川家光を御花畑の客室に迎えて宴を催したり参勤交代で通る大名の迎賓館として、また弓・水泳など自信の鍛錬の場として使った。その後、大久保氏の時代には武家屋敷となり、その末期には長屋や藩の御作事小屋も建てられた。」

049-01-01_御花畑
049-01-01_御花畑
049-01-02_御花畑
049-01-02_御花畑

050 天神小路(てんじんこうじ)2017/12/02撮影
「この地は、「貞享三年御引渡記録」(一六八六)に初めて御花畑小路の名で表れ、その後、天神小路と呼ばれた。地名は、東海道を隔てて北方にある天神社に由来する。道の両側は武家地で中級の藩士が住んでいた。なお、御花畑小路の名は、西海子小路から御花畑入口までの短い区間の呼び名として残った。」

050-01-01_天神小路
050-01-01_天神小路
050-01-02_天神小路
050-01-02_天神小路

051 諸白小路(もろはくこうじ)2017/12/02撮影
「この地名は、小田原城主稲葉正則の時代、この地に上方(かみがた)の杜氏(とうじ・酒造の職)を招いて諸白酒(もろはくしゅ・よく精白した蒸米と麹米で醸造した酒)を造らせたことから生まれたといわれている。道の両側は武家地で、中級の藩士が住んでいた。」

051-01-01_諸白小路
051-01-01_諸白小路
051-01-02_諸白小路
051-01-02_諸白小路

052 狩野殿小路(かのどのこうじ)2017/12/02撮影
「地名の由来については、この小路に絵師の「狩野古法眼」が住んでいたとも、また小田原北条氏の家臣、狩野氏宅があったとも、伝承されてきた。江戸時代、この一帯は、中級の藩士が住んでいた。なお、この地は、狩野小路(かのうこうじ)とも呼ばれ、金殿小路(かなどのこうじ)とも書かれた。」

052-01-01_狩野殿小路
052-01-01_狩野殿小路
052-01-02_狩野殿小路
052-01-02_狩野殿小路

053 西海子小路(さいかちこうじ)2017/12/02撮影
「さいかちの木が立っていたことからこの名が由来するという説がある。江戸時代末期に中級の家臣十八軒の武家屋敷が道の両側に並んでいた。」
このあたりは現在の小田原市南町の一帯で、小田原文学館などもある高級住宅街です。西海子小路の通りは、道の両側に桜の木がたくさん植えられており、春になると桜のトンネルができ、小田原でも有数の桜の名所となっています。

053-01-01_西海子小路
053-01-01_西海子小路
053-01-02_西海子小路
053-01-02_西海子小路

054 水主長屋(かこながや)2017/12/02撮影
「江戸時代、稲葉氏が藩主であったころ、この地に御船小屋と並んで水主長屋(加子長屋)があった。しかし、これが地名となったのは、いつごろか不明である。江戸時代末期、ここは藩士の家一軒、長屋三軒の他に水車小屋(車屋)があった。なお、この地を、水主屋敷とも呼んだ」

054-01-01_水主長屋
054-01-01_水主長屋
054-01-02_水主長屋
054-01-02_水主長屋

055 安斎小路(あんさいこうじ)2017/12/02撮影
「この地名は、地内に小田原北条氏の侍医田村安斎(栖)宅があったためといわれている。小田原北条氏四代の氏政と弟の氏照は、豊臣秀吉の小田原攻めに敗れた後、この家で自害させられたと伝えられている。」
現在、北条氏政、氏照の墓は小田原駅前のおしゃれ横丁内にありますが、切腹の場所はこのあたりだったようです。
なお余談ではありますが、この石碑のすぐ近くに「レロア」というパン屋さんがあります。お値段は少々張りますが、とても美味しいパン屋さんです。デニッシュやお菓子系のパンがたくさんおいてあり、甘党の方にはオススメです。海岸も近いので、ここでパンを買って海を眺めながら食べるのも良いかもしれません。

055-01-01_安斎小路
055-01-01_安斎小路
055-01-02_安斎小路
055-01-02_安斎小路

056 安斎町(あんさいちょう)2017/12/02撮影
「町名の由来は、町内に小田原北条氏の侍医田村安斎(栖)宅があったためといわれている。この町は、欄干橋町と筋違橋町との境を東海道から南へ折れ、安斎小路に至るまでの横町をいう。」

056-01-01_安斎町
056-01-01_安斎町
056-01-02_安斎町
056-01-02_安斎町

057 茶畑町(ちゃばたけちょう)2017/12/02撮影
「江戸時代前期の文書に初めて町名が見られるが、その由来は明らかではない。町内には郷宿(ごうやど-藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)があり、海に近いこともあって、漁業・廻船業者なども住んでいた。」

057-01-01_茶畑町
057-01-01_茶畑町
057-01-02_茶畑町
057-01-02_茶畑町

058 町組(まちぐみ)2017/12/02撮影
「地名の由来は、町奉行配下の町方同心組の長屋があったためといわれる。この地は、江戸時代の始め蔵屋敷であったが、後に同心小屋や町同心長屋と呼ばれ、小田原城絵図の一つである「天保図」(一八三九)には、町組長屋の名が見られる」
今回の石碑めぐりで、一番わかりにくい場所がこの「町組」の石碑でした。車一台が通れるほどの通りから、さらに住宅街の中に入った袋小路にあります。正直、こんなところに石碑を建てても近辺の住人以外は絶対に見ることがないだろうという場所です。

058-01-01_町組
058-01-01_町組
058-01-02_町組
058-01-02_町組

059 南横町(みなみよこちょう)2017/12/02撮影
「南横町は、中宿町と本町との境を東海道から南へ延び、代官町の西端部を通る横町である。」

059-01-01_南横町
059-01-01_南横町
059-01-02_南横町
059-01-02_南横町

060 代官町(だいかんちょう)2017/12/02撮影
「小田原北条氏時代には代官小路と呼ばれていた。江戸時代、町内には魚座(魚商人の同業組合)商人が多く、魚座名主も住んでいた。」

060-01-01_代官町
060-01-01_代官町
060-01-02_代官町
060-01-02_代官町

061 千度小路(せんとこうじ)2017/12/02撮影
「小田原北条氏時代、この町は漁村であったため、船方村と呼ばれたといわれている。江戸時代においても上下の漁業、廻船業、魚商の拠点であった。なお、明治以降昭和四十三年までここに魚市場があった。」
代官町から千度小路のあたりは、古くから漁業関係者が多く住んでいたためか、現在も小田原名物のかまぼこ店が立ち並んでおり、「小田原かまぼこ通り」と呼ばれています。揚げたてさつま揚げのお店「すぎせい」がおすすめです。

061-01-01_千度小路
061-01-01_千度小路
061-01-02_千度小路
061-01-02_千度小路

062 市場横町(いちばよこちょう)2017/12/02撮影
「市場横町は、本町と宮前町と千度小路の境を抜けている横町である。この横町は、海に臨んでいるので魚座(魚商人の同業組合)の魚商が多く住み、その名のとおり魚市場が開かれていたところである。」

062-01-01_市場横町
062-01-01_市場横町
062-01-02_市場横町
062-01-02_市場横町

小田原 歴史的町名碑めぐり その三

小田原 歴史的町名碑めぐり その二の続きです。

これまでの小田原 歴史的町名碑めぐりは以下をご覧ください。
小田原 歴史的町名碑めぐり その一
小田原 歴史的町名碑めぐり その二

031 鍋弦小路(なべつるこうじ)2017/03/19撮影
「揚土(あげつち)道に接する小路で、その姿がコの字形で鍋の釣手に似ているため、この名がついたといわれている。江戸時代末期には、この小路の両側に二十軒ほどの藩士の家があった。」

031-01-01_鍋弦小路
031-01-01_鍋弦小路
031-01-02_鍋弦小路
031-01-02_鍋弦小路

032 入谷津(いりやつ)2017/03/19撮影
「現在、平地に近い東側のこの辺も、山地に近い西側と同じように入谷津と呼ばれる。しかし、稲葉氏が小田原城主でもあった江戸時代前期にはこの辺は谷津と呼ばれ、武家地であった。(貞享三年御引渡記録)稲葉氏時代末期、この地には藩士屋敷が十二軒ほどあった。江戸時代後期になってこの地域は、入谷津と呼ばれるようになったようである。」

032-01-01_入谷津
032-01-01_入谷津
032-01-02_入谷津
032-01-02_入谷津

033 八幡曲輪(はちまんくるわ)2017/03/19撮影
「この地は、古くは「裏大門」と呼ばれたところで「八幡曲輪」の地名は、武家屋敷地としての名である。東西に延びる坂道の両側には藩の中堅武士の屋敷があり、江戸時代を通じて五軒の住まいがあった。幕末にはこの地名は、単に「八幡山」とも呼ばれるようになった。」

033-01-01_八幡曲輪
033-01-01_八幡曲輪
033-01-02_八幡曲輪
033-01-02_八幡曲輪

034 八幡山(はちまんやま)2017/03/19撮影
「この地には、二つの八幡社があった。その一つは、北条氏が鎌倉八幡宮から勧請(かんじょう・神仏の分身を他に移す)したといわれ、江戸時代には、「元宮」または、「本丸八幡」と呼ばれた。他の一つは江戸時代初期、小田原城主大久保忠世が祀ったもので、「新御宮」または、「若宮八幡」とも呼ばれた。地名はこのように二つの八幡社にちなんだものである。」

034-01-01_八幡山
034-01-01_八幡山

035 鍛冶曲輪(かじくるわ)2017/03/19撮影
「鍛冶曲輪は丘陵地に位置し、小田原北条氏時代の小田原城の重要な曲輪(くるわ)であったと考えられる。この地は早くからこの地名があったが、江戸時代前期の寛文二年(一六六二)小田原城主稲葉正則に召抱えられた刀工藤原清平も移り住んだといわれ、「相州八幡山住藤原清平」の銘がある刀剣も残っている。」

035-01-01_鍛冶曲輪
035-01-01_鍛冶曲輪

036 御前曲輪(ごぜんくるわ)2017/03/19撮影
「この地は、今も底の広い窪地で、以前は土塁や空堀をもつ城郭遺構であった。この一角から中世の祭祀遺構と考えられる敷石遺構が発掘され、現在も保存されている。城郭でいう御前曲輪とは、一般例では城内で神仏をまつる場所である。なお、この曲輪には「人質曲輪」という別称もあった。」
現在の城山競技場一帯です。

036-01-01_御前曲輪
036-01-01_御前曲輪
036-01-02_御前曲輪
036-01-02_御前曲輪

037 毒榎平(どくえだいら)2017/03/19撮影
「この地の西端に残る巨大な土塁と空堀は、小田原城三の丸外郭の遺構で、小田原北条氏時代後期に築造されたものである。この遺構は豊臣秀吉の小田原攻めに備えた大外郭成立以前の小田原城の最西端に当たる重要な場所であった。毒榎は植物の油桐のことであるが、ここで栽培されたという記録は、残されていない。」
現在このあたりは城山公園となっており、戦没者慰霊碑があることから小田原市民からは「慰霊塔」と呼ばれています。小田原市屈指の桜の名所となっています。

037-01-01_毒榎平
037-01-01_毒榎平
037-01-02_毒榎平
037-01-02_毒榎平
037-01-03_毒榎平
037-01-03_毒榎平

038 御鐘ノ台(おかねのだい)2017/03/19撮影
「天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の小田原攻めに備え、小田原北条氏が小田原城大外郭を設けた時、この地は城域に取り入れっられた。小田原城の西端に当たり、中世の城郭遺構が最も良く残っているところである。地名の由来は、小田原攻めの時、この地に陣鐘が置かれていたためといわれている。」
小田原城惣構の西の果てがこのあたりで、小田原城惣構で最も高い場所で、標高は約110メートルあります。

038-01-01_御鐘ノ台
038-01-01_御鐘ノ台
038-01-02_御鐘ノ台
038-01-02_御鐘ノ台

039 鉄砲矢場(てっぽうやば)2017/03/19撮影
「この地は、小田原北条氏時代に造られた小田原城の三の丸空堀と惣構(そうがまえ)の空堀とに挟まれた東西に細長い地域で、両方の空堀が接する西端には「二重外張」(ふたえとばり)と呼ばれる虎口(こぐち・城の出入り口)があった。ここが矢場として利用されたかどうかは、明らかではない。」

039-01-01_鉄砲矢場
039-01-01_鉄砲矢場
039-01-02_鉄砲矢場
039-01-02_鉄砲矢場

040-01 御組長屋(おくみながや)2017/03/19撮影
040-02 御組長屋(おくみながや)2017/03/19撮影
「江戸時代前期、小田原城下の山王口、板橋口と井細田口の三つの出入口の沿道には、先手筒(先鋒の鉄砲隊)や先手弓(先鋒の弓組)などの組の者が住む御組長屋(新宿町組・山角町組・竹花組)が設けられていた。その中で地名となって残ったのは、ここ、山角町組だけである。」
近くには大久寺と居神神社があります。大久寺は小田原藩主大久保毛の菩提寺です。墓石は向かって右から、大久保忠常、忠隣、忠世、忠良、忠勝、忠俊、忠良の娘の順になっており、初代ただ夜の墓石は、小田原市の代表的な宝塔となっています。
居神神社には北条早雲が滅ぼした、三浦半島の新井城主であった三浦義意が祀られています。新井城落城後、義意の首はこの神社の松の梢に晒されましたが、三年間眼目せず通行人をにらんだとも、自刃後に三浦半島から海を超えて小田原まで飛来し、居神の森の古松にかぶりついたともいわれています。その後、小田原城下の僧が供養を試みましたが、成仏しなかったため、この社を建て居神神社として祀ったとされています。

040-01-01_御組長屋
040-01-01_御組長屋
040-01-02_御組長屋
040-01-02_御組長屋
040-01-03_御組長屋
040-01-03_御組長屋
040-01-04_御組長屋
040-01-04_御組長屋
040-02-01_御組長屋
040-02-01_御組長屋
040-02-02_御組長屋
040-02-02_御組長屋
040-02-03_御組長屋
040-02-03_御組長屋

041 大久寺小路(だいきゅうじこうじ)2017/03/19撮影
「この地名は、小田原城主大久保忠世が建立し。前期大久保家の菩提寺でもある大久寺の門前の小路があったためといわれている。」

041-01-01_大久寺小路
041-01-01_大久寺小路
041-01-02_大久寺小路
041-01-02_大久寺小路

042-01 山角町(やまかくちょう)2017/03/19撮影
042-02 山角町(やまかくちょう)2017/03/19撮影
「小田原北条氏の家臣山角定吉の屋敷があったので、この町名がついたといわれている。町内には小田原北条氏時代から畳職人、屋根職人の頭(かしら)などが住んでいた。東海道筋の西から御厩(おうまや)小路、天神小路(いずれも武家屋敷が並ぶ)が南へ伸びている。」

042-01-01_山角町
042-01-01_山角町
042-01-02_山角町
042-01-02_山角町
042-02-01_山角町
042-02-01_山角町
042-02-02_山角町
042-02-02_山角町

043-01 筋違橋町(すじちがいばしちょう)2017/03/19撮影
043-02 筋違橋町(すじちがいばしちょう)2017/03/19撮影
「橋の名が町名になっているが、橋についての資料は見当たらない。町内の東海道筋を西から、諸白小路、狩野殿小路、安斎小路(いずれも武家屋敷が並ぶ)が南へ伸びている。」

043-01-01_筋違橋町
043-01-01_筋違橋町
043-01-02_筋違橋町
043-01-02_筋違橋町
043-02-01_筋違橋町
043-02-01_筋違橋町
043-02-02_筋違橋町
043-02-02_筋違橋町

044-01 欄干橋町(らんかんばしちょう)2017/03/19撮影
044-02 欄干橋町(らんかんばしちょう)2017/03/19撮影
「この町から城内にかけられた橋の名前により、この名がついたといわれる。町内には小田原北条氏時代からの旧家外郎(ういろう)があり、江戸時代末期には本陣一、旅籠(はたご)が十軒ほどあった。」
近くには上記外郎家が営む「ういろう」本店があります。立派なお城風の建物で、お菓子の「ういろう」と透頂香(とうちんこう)と呼ばれる、昔からの薬を売っています。幕末の写真にも「ういろう」の店が写されており、白壁の瓦葺き、屋根には千鳥破風を設けた立派な建物が確認でき、昔からこういった感じのお店だったようです。

044-01-01_欄干橋町
044-01-01_欄干橋町
044-01-02_欄干橋町
044-01-02_欄干橋町
044-01-03_欄干橋町
044-01-03_欄干橋町
044-02-01_欄干橋町
044-02-01_欄干橋町
044-02-02_欄干橋町
044-02-02_欄干橋町

045 中宿町(なかしゅくちょう)2017/03/19撮影
「この町には上(かみ)の問屋場(人足や馬による輸送の取継ぎ所)が置かれ、高梨町の下(しも)問屋場と十日交代で勤めていた。町内には御用商人の小西家があり、江戸時代末期には脇本陣一、旅籠(はたが)が十一軒ほどあった。」
現在も近くに御用商人の小西家の薬局が残っています。

045-01-01_中宿町
045-01-01_中宿町
045-01-02_中宿町
045-01-02_中宿町
045-01-03_中宿町
045-01-03_中宿町

046-01 本町(ほんちょう)2017/03/19撮影
046-02 本町(ほんちょう)2017/03/19撮影
「小田原北条氏時代、この町は通小路(とおりこうじ)といわれていたが江戸時代前期にこの町を基準にして城下の町人町を左右に町割りしたとき本町と改められた。隣の宮前町とともに小田原宿の中心で江戸時代末期には本陣二、脇本陣二に旅籠(はたご)が二十六軒ほどあった。」

046-01-01_本町
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046-01-02_本町
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046-02-01_本町
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046-02-02_本町
046-02-02_本町

047 金箆小路(かなべらこうじ)2017/03/19撮影
「この小路は、ほぼ直線状で行き止まりとなっていて、その形が箆(へら)に似ているためこの名がついたといわれている。稲葉氏時代(一六三二~八五年)、この地に藩の御細工所があった。後期大久保氏時代(一六八六~一八七一年)には、藩士の家が八軒ほど建っていた。」

047-01-01_金箆小路
047-01-01_金箆小路
047-01-02_金箆小路
047-01-02_金箆小路

小田原 歴史的町名碑めぐり その二

小田原 歴史的町名碑めぐり その一の続きです。
これまでの小田原 歴史的町名碑めぐり。

小田原 歴史的町名碑めぐり その一

016 竹花広小路(たけのはなひろこうじ)2017/02/26撮影
「地名の由来は、井細田口の木戸から府内に入る甲州道を少し上って裏組に分岐する地点までの小路で、特に道幅が広くなっていたから「竹花広小路」といわれていた。」
このあたりは国道255号線がクランク状になっており、これはかつての井細田口の名残です。付近には暗渠になっていますが、かつての惣構の堀の一部が残っています。

016-01-01_竹花広小路
016-01-01_竹花広小路
016-01-02_竹花広小路
016-01-02_竹花広小路

017-01 先町(さきちょう)2017/02/26撮影
017-02 先町(さきちょう)2017/02/26撮影

「地名の由来は竹花町の町境から竹花広小路にかけての甲州道の両側に、表組の先手筒(先鋒の鉄砲隊)と先手弓(先鋒の弓組)の御組長屋があったことにより、これらを総称して「先町」といった。」

017-01-01_先町
017-01-01_先町
017-01-02_先町
017-01-02_先町
017-02-01_先町
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017-02-02_先町
017-02-02_先町

018-01 竹花町(たけのはなちょう)2017/02/26撮影
018-02 竹花町(たけのはなちょう)2017/02/26撮影

「この町は、小田原北条氏時代からある北の城門であった井細田口の近く、江戸時代末期には郷宿(ごうやど・公用で藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)や日用雑貨品などを売る店が多く、城下町の出入口らしい町並みであった。」

018-01-02_竹花町
018-01-02_竹花町
018-01-01_竹花町
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018-02-01_竹花町
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018-02-02_竹花町
018-02-02_竹花町

019 裏組(うらぐみ)2017/02/26撮影
「この地は、持筒(鉄砲隊)や持弓(弓隊)の人たちが住む組長屋であった。地名の由来は甲州道筋の御組長屋を「表組」と呼んだのに対し、これと対象的に「裏組」といった。なお、明治以降は、「浦町」と呼ばれるようになった。」

019-01-01_裏組
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019-01-02_裏組
019-01-02_裏組

020 半幸町(はんこうちょう)2017/02/26撮影
「この地名は、「貞享三年御引渡記録」(一六六八年)に「竹花裏はんこ町」として見られる。江戸時代後期、この地には長沼流軍学者山下与太夫が住み、彼は四国から菱(ひし)の種子を取り寄せ、忍びの者の侵入を防ぐため小田原城の堀にこれを植えたとの伝承もある。」

020-01-01_半幸町
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020-01-02_半幸町
020-01-02_半幸町

021-01 須藤町(すとうちょう)2017/02/26撮影
021-02 須藤町(すとうちょう)2017/02/26撮影

「町名の由来は、小田原北条氏の総職人頭で、北条氏の領内の職人を統括する立場にあった須藤惣左衛門が住んでいたためといわれている。町並みには商家が多く、江戸時代を通じ有力な商人が住んでいた。」
このあたりには古くからのお店も多く、中でも寛文元年(1661)に創業した、茶製品と和紙を扱う「江嶋」は小田原屈指の老舗です。

021-01-01_須藤町
021-01-01_須藤町
021-01-02_須藤町
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021-02-02_須藤町
021-02-02_須藤町
021-02-01_須藤町
021-02-01_須藤町

022 錦織町(にしこりちょう)2017/02/26撮影
「この地内に「錦織明神」がまつられていたところから「錦織町」(東海道分間延絵図)といわれた。明治以降は、「錦織横町」と呼ばれ、現在の「錦通り」の那覇、この「錦織神社」や「錦織町」に由来する。」

022-01-01_錦織町
022-01-01_錦織町
022-01-02_錦織町
022-01-02_錦織町

023 愛宕下(あたごした)2017/02/26撮影
「この地の西側にあった小高い丘の上には、古くから摩利支天(まりしてん)が祀られ、この山を「愛宕山」と呼んだ。この丘の東側の地なので愛宕下と呼ばれ、江戸時代前期のの稲葉氏時代(一六三二~八五年)には田畑の中に武家屋敷が点在していた。しかし、江戸時代の後期になると、道路の両側に組長屋が造られ、武家地の性格が強まった。この道路を中心にして「愛宕通り」とも呼んだ。」

023-01-01_愛宕下
023-01-01_愛宕下
023-01-02_愛宕下
023-01-02_愛宕下

024 新蔵(しんくら)2017/02/26撮影
「稲葉氏時代、小田原城主稲葉氏がこの地に新たに蔵屋敷を建てた。そこで、以前からあった小田原城三の丸弁財天曲輪の蔵を「本(元)蔵」と呼び、こちらを「新蔵」と呼ぶようになった。なお、この地を「新蔵屋敷」ともいい、幕末には八棟の蔵が並んでいた。」

024-01-01_新蔵
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024-01-02_新蔵
024-01-02_新蔵

025 揚土(あげつち)2017/02/26撮影
「地名の由来は、小田原城三の丸の空堀を造成した時の土や、そこに流入した土砂をこの地に揚げて埋め立てたためといわれている。ここは小田原城の城門の一つであった谷津口門に近く、小田原城を守る重要な地点でもあった。なお、揚土で植栽されたいた梅の実は、種子が小さく、果肉が厚いため「揚土の梅」と呼ばれ、食用に珍重したといわれる。」
現在の小田原駅が建っているのが揚土で、石碑も小田原駅ロータリーの中にあります。近くには小田原高校発祥の地の石碑もあります。

025-01-01_揚土
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025-01-02_揚土
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025-01-03_揚土
025-01-03_揚土

026 高部屋(たかべや)2017/02/26撮影
「稲葉氏時代、ここに鷹匠(たかじょう)の屋敷が設けられていたため、この地は「鷹部屋」、「高部屋」などと呼ばれていた。しかし、江戸時代中期以降は、専ら侍屋敷となっていた。」
現在は、小田原駅東口周辺の小田原市街の繁華街がこのあたりになります。

026-01-01_高部屋
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026-01-02_高部屋
026-01-02_高部屋

027-01 上幸田(うわこうだ)2017/02/26撮影
027-02 上幸田(うわこうだ)2017/02/26撮影

「地名の由来は、小田原北条氏時代、北条氏の家臣幸田氏がこの地に居住していたからといわれている。この地は、小田原城内に入る門の一つ、幸田門から北へ走る道路の両側にあった長方形の侍町で、隣の下幸田とともに、幸田門を守る重要な位置にあった。」

027-01-01_上幸田
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027-01-02_上幸田
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027-02-01_上幸田
027-02-01_上幸田
027-02-02_上幸田
027-02-02_上幸田

028 下幸田(しもこうだ)2017/02/26撮影
「地名の由来は、小田原北条氏時代、北条氏の家臣幸田氏がこの地に居住していたからといわれている。この地は、小田原城内に入る門の一つ、幸田門近くにあり、隣の上幸田とともにこの門を守る侍町にふさわしいたたずまいであった。」

028-01-01_下幸田
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028-01-02_下幸田
028-01-02_下幸田

029 藪幸田(やぶこうだ)2017/02/26撮影
「この地名は、小田原北条氏時代、北条氏の家臣幸田氏が居住していたためといわれる。下幸田(しもこうだ)・上幸田(うわこうだ)の西方に位置し、幕末には藩士の住まいが約十六軒あった。」

029-01-01_藪幸田
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029-01-02_藪幸田
029-01-02_藪幸田

030 日向屋敷(ひゅうがやしき)2017/02/26撮影
「地名の由来は、慶長十九年(一六一四)、小田原城主大久保忠隣が改易(かいえき)となった時、その夫人である「日向御前」が閉居した屋敷跡があったためといわれている。江戸時代末期には、約十四軒の藩士の住まいがあった。」

030-01-01_日向屋敷
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030-01-02_日向屋敷
030-01-02_日向屋敷

小田原 歴史的町名碑めぐり その一

生まれも育ちもずっと小田原の私ですが、物心がついたときには小田原の街中のあちこちに昔の地名を記した、この石碑が建っていました。これまでなんとなく眺めてきた石碑ですが、全部でどのくらいの数が有るのだろうと思っていました。最近、小田原市のサイトでこの石碑の場所を網羅した資料を見つけたので、街中めぐりも兼ねて全てを写真に収め、町並みを記録しようと思い立ちました。

市のサイトによると、昭和60年度から設置を初め、105カ所にあるようです。同じ町名で複数の石碑となっている場合もあり、町名の数はこれより少ないです。
石碑はかつての小田原城惣構の内側に点在しており、広範囲に広がっています。
小田原駅周辺に長年住んでいますが、実はまだ足を踏み入れたことのない場所が多いことに驚きながら、写真を撮っていきたいと思います。

なお、石碑の掲載順番は私が巡った順番となります。

001 大新馬場(おおしんばば)2017/02/11撮影
「地名の起りは、南隣の中新馬場と区別するため新たにこの名がついたと考えられる。江戸時代の藩主稲葉氏の「永代日記」の天和二年(一六八二)3月の記録に「竹花町に近く新馬場があり、足軽小屋を設けた」とあるのは、この大新馬場のことと思われる。」

001-01-01_大新馬場
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001-01-02_大新馬場
001-01-02_大新馬場

002 渋取(しぶとり)2017/02/11撮影
「古い時代の渋取は、花ノ木の北方の広い区域を示す地名であった。ところが、天正十八年(一五九〇)の豊臣秀吉の小田原攻めに備え、北条氏が小田原城惣構(そうがまえ)を築いたとき、渋取は惣構の内側と外側に分断された。この地域は内側の渋取で、江戸時代のはじめは町人地であったが、稲葉氏の時代に武家地に変えられ、その範囲も「渋取口」付近の極く限られた区域を指すようになった。」

002-01-02_渋取
002-01-02_渋取
002-01-01_渋取
002-01-01_渋取

003 中新馬場(なかしんばば)2017/02/11撮影
「地名の起こりは、古くはここが馬場に利用されていたためと考えられる。稲葉氏時代(一六三二~八五年)にはここに十二軒ほどの藩士屋敷があったが、幕末には大久保藩士の屋敷として約十六軒に増えている。」

003-01-01_中新馬場
003-01-01_中新馬場
003-01-02_中新馬場
003-01-02_中新馬場

004 七枚橋(しちまいばし)2017/02/11撮影
「抹香町から大新馬場に通ずる道路と護摩堂川とが交差するところに、七枚の切石を並べて作った石橋があり、「七枚橋」といわれていたという。後にこれが付近の地名となった。」

004-01-01_七枚橋
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004-01-02_七枚橋
004-01-02_七枚橋

005 花ノ木(はなのき)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代の花ノ木は、主として蓮乗院の寺地であった。江戸時代にはその一部が武家地などに変わった。」

005-01-01_花ノ木
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005-01-02_花ノ木
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006-01 新宿町(しんしくちょう)2017/02/11撮影
006-02 新宿町(しんしくちょう)2017/02/11撮影
「江戸時代前期、城の大手口変更によって東海道が北に付け替えられた時にできた新町。町は、藩主帰城の時の出迎場であったほか、郷宿(ごうやど-藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)や茶店があり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。」

006-01-01_新宿町
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006-01-02_新宿町
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006-02-01_新宿町
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006-02-02_新宿町
006-02-02_新宿町

007-01 古新宿町(こしんしくちょう)2017/02/11撮影
007-02 古新宿町(こしんしくちょう)2017/02/11撮影
「この町は、もと新宿町と呼ばれていたが、江戸時代前期、東海道が町の北寄りにつけかえられたとき、新たな東海道沿いに町ができ、これを新宿町としたため、この町を古新宿町と改めた。千度小路とともに漁業の中心地であった。」

007-01-01_古新宿町
007-01-01_古新宿町
007-01-02_古新宿町
007-01-02_古新宿町
007-02-01_古新宿町
007-02-01_古新宿町
007-02-02_古新宿町
007-02-02_古新宿町

008 鍋町(なべちょう)2017/02/11撮影
「この町の規模は、はっきりしないが、古新宿町と新宿町の一部を含む小町だった。小田原北条氏時代から町には鍋などを作る鋳物師(いもじ)が多く住んでいたので、この名がついたといわれている。」
鍋町付近には、早川浄水跡の碑があります。
「昔、西方の板橋村で早川を分水して山門町を通り、旧東海道を疏通して鍋町の屋並に沿って東に流れ新宿から山王松原江戸口の連池に入った。」

008-01-01_鍋町
008-01-01_鍋町
008-01-02_鍋町
008-01-02_鍋町
008-01-03_鍋町
008-01-03_鍋町

009 十王町・抹香町(じゅうおうちょう・まっこうちょう)2017/02/11撮影
「十王町は、別にこの付近の武家地も含んで抹香町とも呼ばれた。地名の由来は、十王堂(閻魔堂・えんまどう)のほか近くに寺が多く、線香の煙がいつもたえなかったからと言われている。」

009-01-01_十王町・抹香町
009-01-01_十王町・抹香町
009-01-02_十王町・抹香町
009-01-02_十王町・抹香町

010 唐人町(とうじんちょう)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代、中国人が遭難して小田原に漂着し、その中の四十余人が許されてこの地に居住したので、「唐人村」と呼ばれていたことが、唐人町の名称と関係があるものと考えられている。唐人町の通りは、寛永年間(一六二四~四三年)、将軍家光の上洛に先立ち、小田原城大手門に至る御成道(おなりみち)として新設されたもので、その東端には土塁をともなった柵門(黒門)が設けられていた。」

010-01-01_唐人町
010-01-01_唐人町
010-01-02_唐人町
010-01-02_唐人町

011-01 万町(よろっちょう)2017/02/11撮影
011-02 万町(よろっちょう)2017/02/11撮影
「町名は古くから「よろっちょう」とよばれた。町内には、七里役所という紀州(和歌山)藩の飛脚継立書(ひきゃくつぎたてじょ)があった。江戸時代末期には、旅籠(はたご)が五軒あり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。」

011-01-01_万町
011-01-01_万町
011-01-02_万町
011-01-02_万町
011-02-01_万町
011-02-01_万町
011-02-02_万町
011-02-02_万町

012 高梨町(たかなしちょう)2017/02/11撮影
「東海道から北へ向かう甲州道の起点に当たり、古くから商家、旅籠(はたご)が並んでいた。町の中央南寄りには下(しも)の問屋場(人足や馬による輸送の取継ぎ所)が置かれ、中宿町の上(かみ)の問屋場と十日交代で勤めていた。」

012-01-01_高梨町
012-01-01_高梨町
012-01-02_高梨町
012-01-02_高梨町

013-01 青物町(あおものちょう)2017/02/11撮影
013-02 青物町(あおものちょう)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代、町内に野菜の市(いち)が開かれていたのでこの名がついたといわれ、商人の多い町であった。東京の日本橋にあった青物町は、徳川家康のころ江戸の町づくりのため、この土地の人たちが移り住んだ町といわれる。」

013-01-01_青物町
013-01-01_青物町
013-01-02_青物町
013-01-02_青物町
013-02-01_青物町
013-02-01_青物町
013-02-02_青物町
013-02-02_青物町

014-01 宮前町(みやのまえちょう)2017/02/11撮影
014-02 宮前町(みやのまえちょう)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代には上町・下町に分かれていたと伝えられている。町の中央に城主専用の入口、浜手門口高札場(幕府の法令などを掲示する場所)があり、江戸時代末期、町内には本陣一、脇本陣二、旅籠(はたご)が二十三軒あって、本町とともに宿場町の中心であった。
宮前町には小田原宿に四軒あった本陣のうちの筆頭で、町年寄も勤めた清水金左衛門の本陣がありました。この本陣の敷地面積はおよそ二四〇坪で、大名や宮家などの宿泊に当てられました。明治天皇もここに五回ほど宿泊しており、それを記念した石碑が残されています。

014-01-01_宮前町
014-01-01_宮前町
014-01-03_宮前町
014-01-03_宮前町
014-02-01_宮前町
014-02-01_宮前町
014-02-02_宮前町
014-02-02_宮前町

015-01 宮小路(みやこうじ)2017/02/11撮影
「町名の由来は、松原神社の門前にあたるためといわれている。この横町は、神社の門前から東へ伸び、青物町に至るまでの通りをいう。」
宮小路にある松原神社は、小田原北条氏時代から江戸時代に至るまで、小田原城主から崇敬され、小田原宿の総鎮守とされた神社です。創建の時期は不明ですが、かつては鶴の森明神、松原大明神と呼ばれてました。
ここには可愛らしい亀をかたどった石があります。これは小田原の海岸に現れた大亀に由来するもので、これを吉兆として氏康は松原神社に参詣し舞を奉納しました。翌年、日本三大夜戦のひとつ、河越夜戦で北条氏康は寡兵で敵を打ち破り、関東制覇に大きな一歩を踏み出しました。

015-01-01_宮小路
015-01-01_宮小路
015-01-02_宮小路
015-01-02_宮小路
015-01-03_宮小路
015-01-03_宮小路

早川石丁場群関白沢支群見学会

11月6日(土)に行われた早川石丁場群関白沢支群(はやかわいしちょうばぐんかんぱくさわしぐん)の現地見学会の様子をお伝えします。この見学会は今年3月に早川石丁場群関白沢支群(小田原市)、中張窪(ちゅうばりくぼ)石丁場(静岡県熱海市)、宇佐美北部石丁場群(静岡県伊東市)が江戸城石垣石丁場跡として国指定史跡となったことをきっかけに開催されました。一夜城の近くに江戸城のための石切場跡があるということは聞いていたのですが、なかなか行く機会がなく、今回は通常入ることが出来ない民間地にも入れるとのことでこれは見逃す訳にはいかないと参加しました。

出発は入生田の神奈川県立生命の星・地球博物館、解散地は一夜城ということで足掛け3時間ほど、山を200メートルほど登ることになります。

生命の星地球博物館
生命の星地球博物館
8:45に生命の星地球博物館前に集合です。ここから早川にかかる太閤橋を渡り山を登っていきます。石垣山一夜城までの道はそこまで急ではないため、余裕を持って登ることができます。

太閤橋から早川上流方面を望む
太閤橋から早川上流方面を望む
太閤橋は石垣山一夜城の大手道として早川に掛けられたと伝えられる橋です。今では一夜城の正面は早川方面のイメージですが、考えてみると京都から東海道を進むとこちらが正面になります。17世紀の江戸城修築の際には、石垣山の石丁場からこのあたりに石を下ろして早川を下り、早川河口で大船に積み替えて江戸に向かったと考えられています。ただ現在の早川を見ているとこの水深と水量で石材を積めるだけの船を航行させることができたのかは疑問です。昔は今とは随分違う様子だったのでしょうか。

段々畑の中の石垣用石材
段々畑の中の石垣用石材
しばらく舗装された農道を登っていくと右側に段々畑が見えてきます。段々畑には取り残された巨大な石垣用石材が残されています。この辺りの林の中にはこのような石がゴロゴロしているそうです。

運び出そうとした石垣用石材
運び出そうとした石垣用石材
段々畑を進みしばらくすると右側にいわゆる残念石が残されています。残念石は石垣用の石材として整形されながら何らかの理由で途中で運搬を止めた石で、この辺りだと伊豆半島の各所に残されているものが有名です。この残念石は整形の様子から17世紀前半の江戸城修築時のもので、なんらかの理由でこの沢(関白沢)に落としてしまったため縁起が悪い(落ちる=落城)ために放置されたものと考えられています。

斜面から突き出た大岩
斜面から突き出た大岩
残念石からしばらく、左側には斜面から突き出た大岩があります。昔の石工はこのような岩を目ざとく見つけて石垣用の石材に整形していきました。この岩は安山岩で固く大きくなる傾向があるため石垣に適しています。

下から見た石曳道
下から見た石曳道

上から見た石曳道
上から見た石曳道
途中で車道と別れ林道を進むと階段があります。この階段の脇に2005年から2006年の発掘調査で「石曳道」が発見されました。長さ175メートルに渡って残され斜面を切り通し状に掘り込んで南から北東に緩やかなカーブを絵が描きなら続いています。彫り込みの幅は約3.5メートル~約4.5メートル、路面の幅は約1.2メートル~約1.5メートルあります。路面は傾斜角約12度~15度、平均約14度となっており石材の運搬を考慮した一定の角度となっています。路面には轍が残されており、石材を運ぶための「地車」と呼ばれる荷車のものと考えられています。この地車を牛に牽かせて石を運搬していた様子が屏風に残されています。当時はこのような石曳道が延々と早川まで続いていたと考えられています。

石垣用石材の刻印
石垣用石材の刻印
石垣用石材とそこに根を張った木
石垣用石材とそこに根を張った木
斜面に残された石垣用石材群その一
斜面に残された石垣用石材群その一
斜面に残された石垣用石材群その二
斜面に残された石垣用石材群その二
矢穴の残る巨石その一
矢穴の残る巨石その一

矢穴の残る巨石その二
矢穴の残る巨石その二
石曳道の先、舗装路のヘアピンカーブの先には未舗装の林道が続いています。ここから先は民有地で通常立ち入りできませんが、今回は見学会ということで特別に立ち入り許可をいただいたとのことで奥に進みます。民有地ということでまだ史跡整備等がされていないため案内板はないのですが、このあたりが今回の見学会で一番の見どころになります。というのもこの一帯には加工途中で放置された石材が木々の間に多数転がっているからです。中でも目算になりますが、幅5メートル以上、高さ5メートル以上はあろう巨石は見ごたえがあります。縦に矢穴を彫り石を四等分しようとしていたようですが、真ん中の矢穴から想定外の割れ方をしたようで放置されたようです。あるいはこの辺り一帯の石材が矢穴を彫られかなりの行程まで切り出しが進んでいるようなので、もしかしたら場所的な問題で運び出しを断念したのかもしれません。市職員の方から矢穴の有無で石垣の修築時期を知ることができるとの解説がありなるほどと思いました。確かに織豊期の古い石垣には矢穴はなく(石材の大きさも原因でしょうが)矢穴があるとういうことは石材加工技術の発達した慶長期移行の石垣と見ることができるそうです。

保存された石丁場
保存された石丁場

先程のヘアピンカーブに戻り先に舗装路を進むと車道の走る開けた場所に出ます。ここには車道の橋の下に続く細い階段があり、橋の下にひっそりとこの石丁場があります。車道は広域農道小田原湯河原線で、建設に伴う発掘調査によってこのあたりで最大規模、保存状態も良好なこの石丁場が発見されました。車道建設のため失われるところでしたが、その価値から橋を架ける設計に変更され、現地保存されています。そのためちょうど橋が屋根の代わりにもなっておりなかなかユニークな史跡となっています。
ここでは石材の加工がつい先程まで行われていたかのような生々しい状況が残されており、石丁場を理解する上で極めて重要な場所となっています。石材の加工は以下の行程となります。
1. 安山岩の転石を割るために「矢穴」を一列に彫る
2. 目的とする大きさに割る
3. 形を整える
4. 整形が完了した石材を集める

石垣山一夜城入り口
石垣山一夜城入り口
移設された石垣用石材
移設された石垣用石材

八の刻印
八の刻印
本日のゴール、石垣山一夜城に到着です。今回見てきたのはあくまで江戸時代の石丁場であり、石垣山一夜城に使われた石材の石丁場とは別のものです。石垣山一夜城に使用されている石材は矢穴を用いない野面積みで、明らかに本日見てきた石丁場の石材とは異なっています。小田原合戦の翌年に築城が始まった肥前名護屋城は矢穴を用いた野面積みとなっており、この石垣山一夜城が矢穴の有無の転機となったとも考えられています。そういった意味でもこの石垣山一夜城とその周辺の石丁場群は日本城郭史を語る上で重要な場所と言えそうです。
こうなると石垣山一夜城に使用された石材の石丁場も見てみたいものです。市職員の方の説明では「今回見てきた石丁場は人海戦術で石を切り出したもので、未熟練工もたくさんいたため時間がかかっていたであろう」とのこと。対して石垣山一夜城の石材は「熟練職人がカンと経験を頼りに短期間で切り出したもの」とのことでした。野面積みは石材の加工度が低く、打込ハギに比べ石材は小さめになるため、石丁場も小規模であり、このあたりの自然に完全に埋もれてしまっているのかも…などととりとめのないことを考えています。

石垣山一夜城へは入生田方面からゆるゆると登って、残念石や石丁場を見学していくとよりどっぷりお城の世界に浸れると思います。早川方面からのルートより坂道も緩いのでおすすめです。

海から小田原を見てみよう

私の好きな某番組のタイトルをパクってみました。

10/25(土)に小田原ガイド協会主催「海から見る小田原・真鶴〜相模湾から眺める富士・箱根・丹沢〜」が行われました。普段は真鶴から三ツ石のあたりまで運行している遊覧船で小田原方面まで行ってみようという企画です。海から小田原を見る貴重な機会ということで参加しました。
真鶴から早川のあたりまではまとまった平地はほとんどなく、海から直接山が立ち上がる地形が続き、その先に足柄平野が広がります。海から見ると小田原もなかなか都会に見えるから不思議なものです。背後には街を抱くように箱根連山、丹沢山が望めます。
この日は残念ながらガスってて伊豆大島や三浦半島は見ることが出来ませんでした。富士山は少し見えましたがすぐ雲に隠れてしまいました。条件が良いと城山から利島が見えることもあるので、船上からはどこまでの眺望があったのでしょう…

真鶴港の周りは良い意味で神奈川県とは思えないのんびりした雰囲気です。

真鶴 遊覧船のりば
真鶴 遊覧船のりば

普段は城などの建物ばかり撮っている私ですが、遊覧船を追いかけてくるカモメを良い感じに撮ることが出来ました。

カモメその一
カモメその一
カモメその二
カモメその二

写真中央の大きな山は明神ヶ岳です。小田原から見える箱根の山々の中でもそのボリューム感からひときわ目立ちます。歌川広重の小田原宿の浮世絵でもこの山が描かれています。(もしかしたら左どなりの明星ヶ岳かもしれません…)

海から見た小田原その一
海から見た小田原その一

小田原もここ十数年で10階建て程度の中層マンションがずいぶんと増えました。こうやって見ると海側に多くのマンションが建っていることがわかります。目を凝らすと小田原駅の駅ビルも見えます。

海から見た小田原中心街その一
海から見た小田原中心街その一
海から見た小田原中心街その二
海から見た小田原中心街その二

なかなか見ることが出来ない海からの小田原城です。市街地からは周囲の建物に埋もれがちですが、海から見ると遮るものがないため存在感があります。江戸時代の旅人もこのような風景を見ていたのでしょう。

海から見た小田原城天守その二
海から見た小田原城天守その二
海から見た小田原城天守その一
海から見た小田原城天守その一

早川から酒匂川にかけてのパノラマ写真を作ってみました。サイズが8400×1200と大きいため右クリック→新しいタブで開いてください。
海から見た小田原(早川から酒匂川まで)