「小田原城」カテゴリーアーカイブ

小田原城天守耐震改修工事

2015年7月から小田原城天守は昭和35年(1960)の建築後初めてとなる大規模改修工事を行っています。建築後55年がたち老朽化が進む鉄筋コンクリート製の天守の耐震補強が目的です。
小田原市では当所、柱をカーボンファイバーで補強するといった小規模な耐震補強を考えていたようですが、専門家の検査によりそれでは耐震性に問題ありとのことで耐震壁を新たに設置するなどの大規模な耐震補強工事をすることになりました。

ここでは昨年の7月以来、気が向いた時に撮影した小田原城天守の様子をご紹介します。スマホでの撮影のため雑ですがご勘弁を。
足場で囲まれた小田原城は建築以来55年ぶり、この先も当分見ることはできない貴重な光景です。

  • 2015年8月22日
    夏の暑い盛りに足場設置が本格始動です。
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  • 2015年9月5日
    二週間で一重くらいのペースで足場の建築は進むようです。
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  • 2015年9月23日
    足場の設置はかなりのペースで進みます。
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  • 2015年10月18日
    工事開始から三ヶ月ほどで足場で完全に覆われました。このころ最上部にあった2本の避雷針が取り外されました。
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  • 2016年2月20日
    足場の解体が始まりました。壁も塗り替えられたようで綺麗になっています。
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小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2015年3月7日)

小田原城の御用米曲輪では今年の3月まで史跡整備のための発掘調査が行われています。最後の現地説明会が3月7日(土)に行われました。

今回は昨年度確認され、歴史ファンの間で大きな話題となった切石敷庭園から続く石組みの溝や、江戸時代の地震による地割跡などが確認されました。

これまでの説明会については以下をご覧ください。

第1回(2012年2月4日)
第2回(2012年8月18日)
第3回(2013年2月16日)
第4回(2013年10月19日)
第5回(2013年11月23日)
第6回(2013年12月21日)
第7回(2014年3月8日)
第8回(2014年11月8日)

  •  切石敷き庭園に続く石組み水路
    現在は遺構保護のため埋め戻された切石敷き庭園には、石組みの溝のようなものが続いていることが確認されていました。今回は江戸時代の蔵の遺構を壊さないように、その石組みの溝の続きを探る調査が行われました。その結果、石組みの溝は曲がりながら北西へと続き、礎石建物の周りをおよそ20メートルの長さで続いていました。
    江戸時代以降に壊されている部分がありましたが、これにより切石敷き庭園とセットになっていたであろう礎石建物の存在が明確になりました。
    これら切石敷き庭園・石組み溝は北条氏時代の終わり頃には埋め立てられ、その跡に礎石建物が建てられていたことがわかりました。このことから小田原合戦の時にはすでに切石敷き庭園は土の下で、秀吉や家康、後の小田原藩主らも目にすることはなく、420年以上の時を経て現代の私達の目の前に現れたわけです。
    切石敷きの庭園から続く石組み構
    切石敷きの庭園から続く石組み構
    石組み水路と数々の礎石
    石組み水路と数々の礎石
  • トレンチ再調査の成果
    今回は昭和57年度に調査されたトレンチの再調査も行われました。以前の調査は江戸時代の深さまでしか行っていませんでしたが、今回は戦国時代の深さまで調査が行われました。
    その結果、戦国時代の建物礎石跡、石組み水路、金製の飾り金具などが見つかりました。特に石組み水路は御用米曲輪で確認された他の石組み水路よりもしっかりとした造りで一見すると近世のもののように見えます。これらの発見から御用米曲輪北側にも戦国時代の遺跡が濃密に分布していることが確認できました。
    戦国時代の少し上の地層からは地震による地割れの跡が確認されました。これは寛永地震の痕跡と考えられ、小田原城と地震の関係を考える上で重要な発見となりました。
    立派な石組み水路
    立派な石組み水路
    礎石
    礎石
    地震による地割れ跡
    地震による地割れ跡
  • 結び
    足掛け3年におよぶ御用米曲輪の発掘調査も3月末で一区切りとなり、調査の場は発掘現場から室内へと移ります。現地説明会もこれが最後です。
    今回の調査での最大の成果はなによりも小田原城中心部で初めて見つかった大規模な戦国時代の遺構になるでしょう。しかもそれは全国にも類例のない切石敷き庭園で、後北条氏独特の切石文化ともいうべきものも見えてきました。
    非常に貴重なこれらの遺構ですが、保護のため埋め戻されることになります。数百年ぶりに姿を現したこれらの遺構が再び人々の目に触れるのはいつになるのでしょうか。数百年に一度の貴重な景色を見ることができ非常に感慨深いものがあります。
    今後、御用米曲輪は戦国時代エリアと江戸時代エリアに分けて整備が行われ、切石敷き庭園も同じ場所に復元展示されるそうです。はやく戦国時代の御用米曲輪の再現イメージを見てみたいものです。

小田原城天守模型等調査報告会

12/20(土)に小田原市民会館にて”小田原城天守模型等調査報告会”が行われました。小田原城関連の報告会ということで行ってきました。会場は定員150名ほどで、本降りの雨の中にもかかわらず、7割ほどが埋まっていました。

  • 調査目的

来年から小田原城天守は大掛かりな耐震補強工事を行います。この工事に際し昭和35年(1960)に建設された現在の鉄筋コンクリート天守の設計方法、設計根拠等を調査する。

  • 現存の天守の設計根拠

現在の天守の外観設計(復元)根拠は主に模型と図面である。模型については3種類が確認されている。

大久保模型…大久保神社所蔵。現在は小田原城天守に展示。壁を省略しており内部の骨組みの様子がよくわかる。

大久保模型
大久保模型

東大模型…旧東京大学所蔵。現在は小田原城天守に展示。壁が表現されている。

東大模型
東大模型

東博模型…東京国立博物館所蔵。現在は神奈川県立歴史博物館に展示。大久保模型と同様に壁が省略されている。

東博模型
東博模型

小田原城三重天守引図…小田原藩作事方川部家に伝わっていたもの。原図は太平洋戦争で焼失。写しが小田原城天守に展示。

現在の天守の復元を行ったのは藤岡通夫氏で、氏は小田原城の他、和歌山城や小倉城などのコンクリート天守の設計を行っている。

小田原城天守の復元にあたって藤岡氏が参考にした模型は大久保模型と東大模型。東博模型については大久保模型と”まったく同一”として参考としていない。総合的な意匠構造は東大模型、平面規模は大久保模型、高さはその中間的なものとして。宝永3年(1706)再建天守の外観を目指して設計された。天守の高欄については往時はなかったものだが、小田原市の強い要望により設けられた。小田原城が外観復元天守と呼ばれず、復興天守と呼ばれるのはこのため。

  • 東博模型と摩利支天

文献資料によると小田原城天守には七尊を祀る空間があったとされる。摩利支天・大日如来・阿弥陀如来・如意輪観世音・弁財天女・子安地蔵・薬師如来で、天守のどこかに祀らていた記録が残る。明治時代の天守解体後、これら七尊は永久寺に移されたが、摩利支天のみコンクリート天守の復興時に天守最上階に戻された。
今回初めて詳細な調査が行われた東博模型には、最上階に特別な施設がある。これこそが上記の摩利支天像を祀る空間と判明した。大久保模型最上階にもその施設らしきもの(一部を上段とし、上段に相対して二本の柱を立てる)が不完全ではあるが存在している。この空間について藤岡氏は「その意図が不明」としている。
東博模型では須弥壇上部の火灯窓など、より詳細に再現がされている。これまで東博模型は神奈川県立歴史博物館に展示されていたが、展示台上に展示されており上層階内部を目にすることはできなかった。調査担当者によると椅子を借りて上層階を確認したところ明らかに他と異なる特別な空間が一目でわかったとのこと。

東博模型4階内観
東博模型4階内観
摩利支天像と厨子
摩利支天像と厨子
永久寺所蔵六尊
永久寺所蔵六尊

来年からの小田原城天守耐震補強工事では、同時に内部の展示もリニューアルするとのこと。今回の調査で判明した摩利支天を祀る特別な空間も復元する予定。

天守最上階内部復元パース
天守最上階内部復元パース
  • 天守模型の類例

全国には江戸時代以前に造られた天守模型が8棟残されている。小田原城天守3棟の他は宇和島城天守、松江城天守、延岡城三重櫓、延岡城二重櫓、大洲城天守である。多くは天守が損傷した際の修築方法検討のために造らえれたと考えられている。
中には縦横比が異なっていたり、柱が異常に太かったりするものもあるが重要な部分を強調しているとも考えられ、模型の造られた目的を考える必要がある。
特に宇和島城の天守模型は保存状態が良好で、完成度が非常に高い。天守も現存しているため天守実物と模型を比較することで、模型独特の表現方法を知ることができる。

宇和島城天守模型
宇和島城天守模型
松江城天守模型
松江城天守模型
大洲城天守模型
大洲城天守模型

  • 感想

天守模型についての調査ということで非常に面白いテーマでした。
コンクリート製であるにせよ木造であるにせよ天守を復元する大きなカギとなるのが模型です。小田原城はそれが3棟もあり、いずれも出来が良いとのことです。その気になれば木造復元も可能なようです。今は行方不明となっていますが小田原城五重天守模型もあったとか。
3棟のうち大久保模型と東大模型は神奈川県重要文化財に指定されていますが、摩利支天を祀る空間の謎の解明につながった東博模型は文化財指定を受けていないとの事。質疑応答でも東博模型を文化財指定して小田原に展示することはできないか、といった質問がありました。この辺りは文化財を適切に管理、展示できる環境の整備が必要なためすぐという訳にはいかないでしょう。小田原市ではようやく出土した文化財を展示するための天守以外の施設である「歴史博物館」整備計画が始まったそうで、こういった環境が整えば、重要な文化財も良好な環境で展示することができると思います。
ひとまずは来年度からの天守耐震補強工事&リニューアル工事で小田原城が昔ながらの展示から、今風の魅力ある展示へ変わってくれることを期待します。
なお冬休みに東博模型を見に行ってみようかと考え中。

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2014年11月8日)

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。約8ヶ月ぶりの現地説明会が11月8日(土)に行われました。

今回は前回までの発掘説明会での目玉であった切石護岸の池(2号池)の大半が埋め戻されていましたが、それによりこれまで発掘の出来なかった部分が発掘可能となり、池の北側護岸が確認されています。切石敷庭園でも新たな発見がありました。

これまでの説明会については以下をご覧ください。

第1回(2012年2月4日)
第2回(2012年8月18日)
第3回(2013年2月16日)
第4回(2013年10月19日)
第5回(2013年11月23日)
第6回(2013年12月21日)
第7回(2014年3月8日)

  • 切石護岸の池周辺
    これまで切石護岸の池と呼ばれていた池は、周囲を切石で護岸した下段の池(2号池)、下段の池と水路で接続し、水を流していた池を上段の池(1号池)と呼ぶようになりました。
    2号池は遺跡保護のため大半が埋め戻されていますが、新たに北側に10メートルほど護岸を確認することが出来ました。これによりおおよそ池の3/4の範囲が確認出たと考えられています。
    1号池はこれまでの調査で確認されていましたが、今回その下層に切石敷きの池が存在していたことがわかりました。池は楕円形の小さなもので根府川石や箱根安山岩を立てて護岸としています。この1号池には西側の石組み遺構から水を引いており、1号池から水路を経て西側の2号池に滝のように水を流していたと思われます。これらは戦国時代のものとは思えないとても凝った造りです。
    2号池北側護岸
    2号池北側護岸
    2号池と1号池
    2号池と1号池
    1号池と石組み遺構
    1号池と石組み遺構

     

  • 切石敷庭園
    御用米曲輪南側のほぼ中央で確認された切石敷きの庭園は、全国的にも類例のない極めて珍しい形状で、歴史ファンの間で大きな話題になりました。切石敷きは鎌倉石と風祭石、安山岩によって造られその規模は最大で東西6メートル、南北9メートルを測るものと考えられています。
    切石敷庭園の中央で出土した板状巨石は本来は立っていたことがわかりました。この巨石には仏像と梵字が刻まれていたようですが、これらは丁寧にノミで削り取られています。誰が何のために削ったのかは謎で、北条氏独特の思想があったのかもしれません。
    切石敷庭園
    切石敷庭園
    仏像の削られた巨石
    仏像の削られた巨石
    巨石に刻まれた梵字の様子
    巨石に刻まれた梵字の様子

     

  • 建物群
    これまでの調査で御用米曲輪の南西部では濃密に建物群が広がっている様子が確認されています。これまでに礎石建物跡が8棟、掘立柱建物跡が7棟を数え、戦国時代の終わりごろの建物跡と考えられています。
    建物群の中心であると思われる最も大きな建物には小さな礎石建物が付随しています。今回の調査で、切石・板石敷きの排水施設が確認され、傍らに切石敷井戸があることからこの建物は湯屋(蒸し風呂)の可能性が高いそうです。蔵と思われる建物も見つかりました。氏政に家督を譲った氏康は「御本城様」と呼ばれ、「大蔵」の管理を行っていたとの記録があります。大蔵とは税収の管理であり、氏康の隠居館には「大蔵」が伴っていたと考えられています。もし御用米曲輪が大蔵を伴う「御本城」であったとすると、全体的には庭園などを伴う居館的な様相を持ちながら、蔵も備えるという発掘結果と合致します。
    南側から見た発掘現場全景
    南から見た発掘現場全景

    いつかの記事で私見として書きましたが、北条氏時代、現在の本丸に当主、本丸の真下に位置する御用米曲輪に前当主が居住し、八幡山は詰城的な位置づけで普段の生活には使用していなかったのでは、といったことを再び想像する今日このごろです。

小田原城プロジェクションマッピング

7/26(土)、27(日)の二日間、小田原城址公園で第23回小田原ちょうちん夏まつりが行われました。毎年恒例のお祭ですが人混みが苦手な私はほとんど行ったことがありません。今年は小田原城天守で流行りのプロジェクションマッピングが行われるとのことで行ってみました。

19:45分位にお堀端に到着しましたが思った以上の人混み。
小田原のまちなかで活気というものを久々に感じました。ちょうちんを眺めつつ馬出門、銅門経由で本丸へ。常盤木門前の階段ではどこかの初詣のような賑わい。ここにこんなに沢山の人が居るのを見たのは初めてです。

天守に投影されるプロジェクションマッピングは音声や動きはなく、1分間隔くらいで投影される絵柄が変わるようで「デジタル掛け軸」と銘打っていました。動きが無いものは正確にはプロジェクションマッピングとは呼ばないらしいですが…

第23回小田原ちょうちん夏まつり
第23回小田原ちょうちん夏まつり
小田原城プロジェクションマッピングその一
小田原城プロジェクションマッピングその一
小田原城プロジェクションマッピングその二
小田原城プロジェクションマッピングその二
小田原城プロジェクションマッピングその三
小田原城プロジェクションマッピングその三
小田原城プロジェクションマッピングその四
小田原城プロジェクションマッピングその四
小田原城プロジェクションマッピングその五
小田原城プロジェクションマッピングその五
小田原城プロジェクションマッピングその六
小田原城プロジェクションマッピングその六
小田原城プロジェクションマッピングその七
小田原城プロジェクションマッピングその七
小田原城プロジェクションマッピングその八
小田原城プロジェクションマッピングその八

色とりどりの光によって様々に表情を変える天守は現実離れした景色です。三脚を持っていかなかったため写真に微妙なブレが発生していますが、それが余計に現実離れ感を加速させています。
赤系は城が燃えているようでなんともドラマチック、青系は涼しげで凛とした雰囲気、虹色系(?)はサイケデリックな感じでした。
普段見ることの出来ない異色の小田原城を見ることが出来ました。来年も是非行ってほしいものです。

小田原城の桜 2014

今年も桜の季節となりました。例年通り桜の写真を撮るために朝の小田原城に行ってきました。4/1(火)の撮影で、この翌日からは天気が下り坂のため、最後のチャンスと思いなんとか都合をつけました。
7時くらいに到着しましたが、さすがに平日の早い時間なので人もまばら。しかし8時くらいになると徐々に人が増え始めました。あまり人が映らないようにしたいため、早めの時間に行って正解でした。
なにはともあれ、今年も小田原城の桜を撮影することが出来て良かったです。来年も無事撮影できることを願います。

お堀端通りの桜
お堀端通りの桜
二の丸の桜
二の丸の桜
隅櫓と桜
隅櫓と桜
天守と桜 その一
天守と桜 その一
天守と桜 そのニ
天守と桜 そのニ
銅門と桜
銅門と桜
天守と桜 その三
天守と桜 その三
隅櫓から銅門方面を望む
隅櫓から銅門方面を望む

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2014年3月8日)

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。今年最初の現地説明会が3月8日(土)に行われました。

本説明会の後、第5次調査で御用米曲輪の西から南にかけて確認された戦国時代の遺構は保存のため埋め戻されます。戦国小田原城の貴重な遺構の数々を直接目にすることが出来る最後の機会となりました。今後も御用米曲輪の発掘調査は引き続き行われますが、ひとつの区切りを迎えたと言ってよいでしょう。
これまでの発掘成果ですでに埋め戻されているものもあり、今回はまだ見ることが出来る戦国時代の遺構についてのまとめ記事としました。写真は過去のものも混ざっているのでご了承ください。これまでの説明会については以下をごらんください。

第1回(2012年2月4日)
第2回(2012年8月18日)
第3回(2013年2月16日)
第4回(2013年10月19日)
第5回(2013年11月23日)
第6回(2013年12月21日)

  • 切石護岸の池
    第5次調査最大の目玉がこの切石護岸の池です。御用米曲輪の南端に位置し、調査範囲内だけでも外周45メートル以上あり、周囲を湾曲させて岬や入江の景色を作り出しています。最大の特徴は護岸に石塔(五輪塔や宝篋印塔)の部材を、二次的な加工を加えながらきれいに並べてタイル上に貼り付けていることで、これは全国にも類例がなく大きな話題となりました。池底から16世紀後半の「かわらけ」が出土しており、北条氏時代に造られたものと考えられています。石塔の部材を意識して使用しており、他に類例がないことから北条氏独特の文化や美意識があったのではないかと考えられています。また、使える石材は墓石であろうと使用していることから当時の人々の価値観を考える良い資料にもなります。池底からは舟の木材も発見されています。
    切石敷きの池
    切石敷きの池
    舟の木材
    舟の木材
    出土した石塔の部材
    出土した石塔の部材
  • 切石敷きの庭園
    切石敷きの庭園は御用米曲輪の南側、昨年の調査で確認された庭状遺構とつながるものです。こちらも切石護岸の池と同様に、地面に多角形の切石をタイル上に敷き詰めています。切石は「鎌倉石」と呼ばれる三浦半島の凝灰岩、「風祭石」と呼ばれる箱根の凝灰岩、安山岩で造られています。一部は江戸時代の土坑によって破壊されていますが、その規模は最大で東西6メートル、南北9メートルになると考えられています。黄色い「鎌倉石」と黒い「風祭石」を幾何学的に加工し、モザイクのように不規則に組み合わせている点は近代的な印象さえ受けます。ところどころに置かれた安山岩の巨石が目を引きます。中央には井戸のような穴があり、切石から水を落としていたとか、通路として用いられたなどさまざまな説がありますが、その目的はわかっていません。切石護岸の池と同様に全国的にも類例がないことから北条氏が斬新な発想を持っていたことを示す貴重な遺構です。
    切石敷き庭園
    切石敷き庭園
    切石敷き庭園
    切石敷き庭園
  • 切石敷きの井戸
    御用米曲輪の南西部では切石敷きの庭園と同様に、切石を用いた井戸が確認されています。井戸は直径0.8メートル、円礫を4メートル以上積み上げた石積み井戸で、周囲には井戸を囲むように約2.5メートル四方に切石が敷かれています。切石には「鎌倉石」と「風祭石」が使われており、極めて丁寧な作りであるため特別な井戸であったと考えられています。発掘範囲の奥にあるため近くから見ることが出来なかったことが悔やまれます。
    切石敷井戸2
    切石敷井戸2
    切石敷井戸1
    切石敷井戸1
  • 礎石建物群と石組水路
    御用米曲輪の南西部、切石敷きの井戸の周囲には建物群が広がっていたようで、建物跡が10棟以上確認されました。最も大きな建物は7間(12メートル)以上の規模がある礎石建物です。これらの建物の周囲には溝や石組水路、石列が整然と配置されています。これらの遺構を境に砂利や玉石が敷分けられており、それぞれ役割や敷地の性格の違いを示していると想定されています。
    南西部の建物群跡
    南西部の建物群跡
    石組水路
    石組水路

これまでの第5次調査の結果から、戦国時代の御用米曲輪は庭園や礎石建物を備えた非常に格式の高い空間であったことが想定されています。全国でも類例のない切石を多用した作庭方法は北条氏独特の文化として「北条切石文化」と呼んでも差し支えないかもしれません。
また、戦国時代の大名居館としては大友氏館跡、大内館跡、一乗谷朝倉氏関連遺跡などが有名ですが、御用米曲輪のように内部の構造が垣間見えた例は極めて稀です。これらのことから文化庁や専門家の方々からも大変希少な遺跡であるとの評価を得ており、北条ファンとしては嬉しい限りです。

これまでの貴重な発掘成果が再び埋め戻されるのは残念ですが、貴重だからこそ埋め戻す必要があるのでしょう。400年ぶりの「お目見え」に立ち会えたことを幸運に思います。今後も御用米曲輪での発掘調査は続きますが、これから何が見つかるのか全く想像ができません。次の説明会が楽しみです。

雪の小田原城

2月8日(土)、関東地方は45年ぶりとも言われる大雪になりました。

この機会を逃すまいとカメラを持って小田原城まで散歩することに。玄関を開けると思った以上の雪の勢いに少々怯みましたが意を決して出発。

馬屋曲輪では靴がずぶずぶと雪に沈むのが正直楽しかったです。積雪は10センチくらいあったのでしょうか。この悪天候の中、写真を撮っている人が結構いました。滅多にないチャンスですから写真好きにはたまりません。私もその一人ですが。

非常に珍しい小田原の雪景色を見ることができ大満足でした。

学橋
学橋
桜の木
桜の木
天守と常盤木門望遠
天守と常盤木門望遠
馬出門
馬出門
銅門1
銅門1
銅門2
銅門2
天守
天守
豆汽車踏切
豆汽車踏切
猫

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2013年12月21日)

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。先月に引き続き1ヶ月間の発掘成果の現地説明会が12月21(土)に行われたので行って来ました。 前回の現地説明会の投稿はこちらです。

今回の現地説明会では、先月からの1ヶ月間の調査で北条氏時代の「池」の西側から確認された北条氏時代の切石敷遺構、切石敷井戸を見ることが出来ました。

  • 切石敷遺構
    鎌倉石や風祭石を用いて構築されています。これらの石を巨石を配しながら幾何学的に敷き詰め、独特の景色を作り上げています。中心部には井戸のような穴がありますが、高低差を考えると周りの切石からの水がこの穴に流れ込んでしまうため、井戸ではないと考えらます。この遺構の用途は不明ですが、これまでに見つかった池の護岸とともに、北条氏の志向として方形の切石をタイルのように用いる考え方があったのは間違いなさそうです。

    切石敷遺構1
    切石敷遺構1
    切石敷遺構2
    切石敷遺構2
    切石敷遺構3
    切石敷遺構3
  • 切石敷井戸
    風祭石の切石を幾何学的に組み合わせて造られており、井戸の内部は円礫を4メートル以上積み上げています。遺物が出土していないことから、井戸の時期を特定する要素は少ないですが、北条氏時代の石組水路が並行に走っていること、近世の遺構面より80センチメートルほど低い位置にあることから戦国期の井戸と考えられます。小田原城には同様の井戸が馬屋曲輪で確認されていますが、江戸時代のものになります。今回は発掘調査の都合上、近くから見ることは出来ませんでしたが、遺構の写真が展示されていました。
    切石敷井戸1
    切石敷井戸1
    切石敷井戸2
    切石敷井戸2

今回の説明会で3ヶ月連続説明会ラッシュは終了となります。これまでの発掘により北条氏時代の御用米曲輪南側の全容が明らかになってきました。 おおまかには東から順に池(五輪塔・宝篋印塔の部材を護岸に使用した全国的に類例のないもの)→掘立柱建物→砂利敷および石組井戸→切石を使用した庭園(今回の説明会部分)→掘立柱建物→大規模な礎石建物(詳細未発掘部分)という構成になっているようです。

近世蔵跡から見た発掘現場全景
近世蔵跡から見た発掘現場全景(拡大画像は右クリックメニューから新しいタブを開いてください)
鉄門坂から見た発掘現場全景
鉄門坂から見た発掘現場全景

次回の調査説明会についてはまだ未定ですが、新たな発見があり次第説明がを行いたいとのことでした。今後の調査でも驚くべき新発見があることでしょう。引き続き小田原城御用米曲輪は私のような城マニアの注目を集めそうです。

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2013年11月23日)

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。先月に引き続き1ヶ月間の発掘成果の現地説明会が11月23(土)に行われたので行って来ました。

前回の現地説明会の投稿はこちらです。

今回の現地説明会では、これまでに確認された北条氏時代の「池」の水を抜いた状態を見ることが出来ました。また先月からの1ヶ月間の調査により、舟と思われる木材、橋の柱穴、石組井戸、暗渠水路、新たな礎石建物跡が確認されました。

これまでの調査でこの池は西側が上段、東側が下段に分かれており上段の池から滝のように下段の池に水を流していたと推測されています。
先月の現地説明会以降の調査成果は以下のとおりです。

  • 下段の池の護岸に貼り付けられた石塔部材は最大15段、190センチメートル程度の高さで積み上げられている
  • 下段の池の中央に突出した岬部分から本丸方面に向かって柱穴が見つかった。池にかかっていた橋のものと推測される
  • 下段の池から舟の木材(底板、側板)が見つかった。水に浸かっていた部分のみが腐らずに残ったものと推測される
  • 上段の池付近から石組井戸、暗渠水路が見つかった。掘立柱建物跡も見つかっており、この建物の地下を通し池に水を流していたものと推測される

鉄門坂から見た池
鉄門坂から見た池
舟の木材
舟の木材
橋の柱穴
橋の柱穴
石組井戸
石組井戸
暗渠水路
暗渠水路

また、上記の他にも上段の池付近から新たな礎石建物跡が見つかったそうで、来月の現地説明会までに調査を進めるとのことでした。

実際に現地に行ってみると確認された部分だけでも池の規模に目を見はります。御用米曲輪にはこの池に釣り合うのような立派な建物があったであろうことが想像できます。450年近い時を越えて北条氏康や氏政といった名だたる武将が見たであろう光景が明らかになりつつあります。来月の現地説明会が楽しみです。