KemaAkeの全国城めぐり

丸岡城 まるおかじょう
別名 霞ヶ城
形態 平山城
築城年 天正4年(1576)
築城者 柴田勝豊
主な城主 柴田氏、本多氏、有馬氏
所在地旧国名 越前
所在地 福井県坂井市丸岡町霞1-59
アクセス ●バスによるアクセス(2010/04/29現在)
JR北陸本線 福井駅
京福バス 福井駅前から丸岡線、本丸岡行き(31系統または36系統)に乗車。 約40分で本丸岡に到着。本丸岡から徒歩10分
城までの道順は城の地図の青線を参照してください。

JR北陸本線 丸岡駅からもバスがありますが、本数が少ないため、福井駅からバスに乗るのが便利です。また、最寄バス停は丸岡城ですが、停車するバスが限られています。バス時刻表などは以下リンクをご覧ください。
ばすでんしゃねっと・ふくい
アクセスレベル ●バスでのアクセスレベル
☆☆☆☆
概要 天正3年(1575)、織田信長から越前8郡を与えられた柴田勝家は、甥の柴田勝豊に豊原を与えた。勝豊は豊原城を築くが、翌天正4年(1576)に豊原に程近い丸岡に城を築いた。これが丸岡城である。天正11年(1583年)、柴田氏が羽柴秀吉によって滅ぼされると、丸岡城は織田家重臣、丹羽長秀の持城となり、長秀の家臣、青山宗勝が城主となる。しかし、関ヶ原の戦いで宗勝の子、忠元が西軍についたため城は没収される。続いて越前に入った結城秀康の家臣、今村盛次が城主となるが、越前騒動により失脚。慶長18年(1613)には徳川家康の家臣『鬼作左』こと本多重次の子、成重が城主となり丸岡藩が成立する。しかし、元禄8年(1695)に本多氏四代目、重益が幕命により改易、変わって有馬清純が5万石で入城する。以後明治維新まで有馬氏が城主を務めた。なお、この有馬氏は戦国時代のキリシタン大名として有名な有馬晴信の子孫である。
登城日 2010/04/29
撮影カメラ RICOH CX1
みどころ 現存12天守のうち、最も古式な天守閣があります。石瓦なども興味深いです。

登城記
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。各写真の下の赤○は、城の地図と対応しています。赤はその場所を示します。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。

霞ヶ城公園西側入り口から見た天守
城の地図:赤1

霞ヶ城公園西側入り口から見た天守です。この入り口が本丸丘のバス停から最も近いです。現在、丸岡城は住宅地の中の小高い丘にポツンと取り残され、天守とわずかな石垣が残るのみとなっています。本丸を囲んでいた五角形の広大な堀ははすべて失われています。写真に写っている階段左の石碑には「国宝 霞ヶ城」と刻まれています。丸岡城は昭和17年(1942)に国宝に指定されましたが、昭和25年(1950)の法改正により、重要文化財となり現在に至ります。
本丸の石垣

本丸の石垣です。前の写真の階段を登り、左に続く坂から見ることができます。この坂の先に本丸跡があります。
北東から見た天守

北東から見た天守です。天守は天守台を含めて22メートルの高さがあります。下見板張り、望楼型の天守で、最上階には廻縁を設け、柱をそのまま見せるなど、古式な造りになっています。この外見と、掘っ立て柱が使用されていたことなどから、現存12天守のうち最も古いものとも言われています。仮に柴田勝豊築城時のものだとすると、安土城天主より古い建物になります。しかし、慶長期の特徴も多く見られることから、もう少し後の時代の造築ではないかという説もあります。
天守の鯱

天守の鯱です。鯱は木彫銅版張りで、瓦製の鯱と比較すると細かい装飾ができないため、簡素な造りになっています。かえってそれが古式な天守にマッチしています。
南東から見た天守

南東から見た天守です。よく小さいと言われる丸岡城の天守ですが、私はそんなに小さいとは感じませんでした。現在の天守は、昭和23年(1948)の福井地震で大破したものを、昭和27年(1952)〜昭和30年(1955)年にかけて可能な限り古材を使用して再建したものになります。
石落とし

石落としです。入り口がある天守東面以外には、出窓形式の石落としが設けられています。
大入母屋の鬼瓦と懸魚

大入母屋の鬼瓦と懸魚(げぎょ)です。懸魚とは棟木や桁を隠すために屋根の下に付けられた飾り板のことです。丸岡城の一階大入母屋の懸魚は三つ花型で、織田木瓜らしき紋が彫られています。また、丸岡城では鬼瓦を初めとした瓦を足羽山から産出する「笏谷石」と呼ばれる凝灰岩で作っています。寒さの厳しい北陸地方や東北地方では、通常の瓦は凍結して割れてしまうため、銅瓦や石瓦が使用されることがよくありました。現に、柴田勝家が築いた北ノ庄城からは石製の鬼瓦が発掘されており、福井城でも天守や櫓は石瓦が使用されてたことが確認されています。
石製の鯱

石製の鯱です。昭和15年(1940)〜昭和17年(1942)の修理の際に木彫銅版張りの鯱に変わって作られ、天守に上げられていたものです。当時は戦争中で、銅版の入手が困難であったため、やむなく天守の石瓦と同質の石材で作られました。しかし、昭和23年(1948)の福井地震により落下してしまい、写真のような形で残されています。現在上がっている鯱は、昭和27年(1952)〜昭和30年(1955)年にかけての再建時に、元の木彫銅版張りで復元されたものです。
天守の腰庇

天守の腰庇(こしびさし)です。腰庇は天守台に雨水が入らないようにするための小さな屋根のことです。写真でもわかるように、丸岡城の石垣は野面積みで、角がいびつな形になっています。通常は野面積みでも角の石に多少の加工を施すのですが、丸岡城では自然石をそのまま使っているためこれが顕著になり、天守台とぴったりの大きさの天守が建てられず、天守台と天守の間に隙間ができてしまいます。内部の掘っ立て柱を保護するためにも、ここから雨水が入らないようにするための腰庇が必要となるわけです。この腰庇も古式豊かな丸岡城の特徴です。
天守一階内部

天守一階内部です。丸岡城の天守は、通し柱を使用せず、一層目が二層目と三層目の台座となっています。これも古い時代の天守に見られる特徴のひとつです。
天守二階内部

天守二階内部です。窓のあるところは大入母屋の裏にある破風部屋です。一人がやっと入れる程度の幅しかありません。
天守二階、切妻破風内部

天守二階、切妻破風内部です。大入母屋の棟とそった面に切妻破風の小部屋が設けられています。このような小部屋は、初期の望楼型天守に多く見られる造りで、犬山城や岡山城でも見ることができます。
切妻破風から見た天守石瓦

切妻破風から見た天守石瓦です。近くで見ると瓦が石で作られているのが良くわかります。

天守二階から三階への階段

天守二階から三階への階段です。丸岡城天守に入ると、ほとんど垂直の急な階段に驚かされます。これまでいくつかの現存天守を見てきましたが、丸岡城の階段が一番急です。あまりに急なので、安全のためロープが用意されています。ここまでくると階段というより梯子です。
天守三階内部

天守三階内部です。最上階である三階には廻縁が設けられ、福井平野を一望することができます。
天守三階の小屋組

天守三階の小屋組です。天井がないため典型的な和小屋組を見ることができます。天井を張らない造りからは、これまでの急な階段や破風部屋と合わせて、古風な実戦向けの城といった印象を強く受けます。
天守三階の廻縁

天守三階の廻縁です。丸岡城の廻縁は、雨水を流すため外側に向かって傾斜しており、手摺と床板の間に隙間があります。そのためか、床板のフチには苔が生えていました。
本丸への南側虎口跡と雲の井

本丸への南側虎口跡と雲の井です。天守台以外ではこの辺りの石垣の保存状態が良好です。雲の井には丸岡城に危機が迫る度に、ここから大蛇が現れ城に「かすみ」をかけて、危機を救ったという伝説が残されています。この伝説から、丸岡城は別名「霞ヶ城」と呼ばれるようになりました。
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