KemaAkeの全国城めぐり
和歌山城
わかやまじょう
別名竹垣城、虎伏城 楠門と天守
形態平山城
築城年天正13年(1585)
築城者羽柴秀長
主な城主羽柴氏、桑山氏、浅野氏、徳川氏
所在地旧国名紀伊
所在地和歌山県和歌山市一番丁3
アクセス 南海本線、和歌山市駅
↓徒歩(約20分)
大手門
アクセスのしやすさ☆☆☆☆
概要
-----------歴史------------
●羽柴秀長による築城
天正13年(1585)、羽柴秀吉による紀州征伐に副将として参陣した秀吉の弟、秀長は紀州の平定後、紀伊・和泉など約64万石を加増された。 同年、藤堂高虎を普請奉行に任命し、紀ノ川河口の平野にある岡山(虎伏山)北端に築城を開始し、1年あまりで城を完成させた。 完成後は家臣の桑山重晴が3万石で城代となった。
●浅野幸長による天守創建
慶長5年(1600)、桑山氏は大和新庄藩に転封となり、変わって浅野幸長が約37万石で紀州藩主となった。 浅野氏は内堀、外堀、石垣の改修を行い、慶長10年頃(1605)下見板張りの天守を建てた。
●徳川頼宣による大改修
元和5年(1619)、浅野氏が安芸広島に転封となり、変わって徳川家康の十男、徳川頼宣が約55万石で紀州藩主となった。徳川御三家のひとつ、紀州徳川家の創設である。 頼宣は元和7年(1621)から城の大改修と城下町の拡張を始めた。 虎伏山が城外に接していた城の西部から南部にかけて高石垣を築き、砂の丸、南の丸を造成、さらに二の丸の拡張を行った。 その規模があまりにも大きいため、幕府から謀反を疑われるほどであった。これらの大改修により城の中心部の縄張りはほぼ現在の姿となった。
●明治維新後
明治4年(1871)、廃城令により多くの建物が取り壊された。 二の丸御殿の一部は大阪城に移築されたが、太平洋戦争の後、失火により消失している。 天守を始めとした天守曲輪の建物は取り壊しを免れ旧国宝に指定されたが、昭和20年7月9日の和歌山大空襲によりことごとく消失した。 昭和33年(1958)に鉄筋コンクリート造りで天守および小天守など、天守曲輪の建物が外観復元された。

---------構造・特徴--------
天守曲輪と本丸はそれぞれが虎伏山の並列した2つの峰の頂上に置かれ、独立した曲輪となっている。 天守は天守曲輪を天守・小天守・乾櫓・二の門櫓およびそれらを接続する多門櫓で囲んだ連立式天守となっている。 虎伏山の麓には二の丸、西の丸、砂の丸、南の丸を置き、その周りを内堀が囲む。内堀の外側に三の丸を置き、三の丸を外堀が囲む。 羽柴氏時代から改修が繰り返されたため、石垣には様々な時代の特徴を見ることが出来る。石垣には緑がかった緑泥片岩(紀州青石)が多用されている。 現在、各曲輪は動物園やグランドなどとして使用されているが、内堀以内の縄張りはほぼその姿を留めている。
遺構 普請:岡口門、岡口門続土塀、追廻門
作事:堀、石垣
天守:昭和33年(1958)築 鉄筋コンクリート製外観復元天守
案内図など 案内図(1400x1000)
登城日2013/5/1
感想など 和歌山城へのアクセスはJR和歌山駅よりも南海鉄道和歌山市駅のほうが近くて便利です。JR和歌山駅周辺のほうが栄えていますが、城メグラ―には関係のないことです。

城は紀州徳川家55万石の居城にふさわしい巨大な城で、姫路城や松山城などと並んで、連立式天守の構造を見ることが出来る貴重な城です。 大手門のある北側から見ると比較的なだらかな丘の上に天守群があるように見えますが、岡口門や不明門のある南側から見ると、堂々とした高石垣の上に天守群を見ることができます。 天守曲輪と本丸がそれぞれ独立した峰に置かれているのも印象的で、昔の人はこの2つの峰を虎の頭とお尻に見立てて虎伏山と呼んだのでしょうか。
築城時の城域であったとされる天守曲輪や本丸周辺は、虎伏山の地形をそのまま利用した小さな曲輪となっており、中世城郭的な印象を受けます。 一方、江戸時代に入ってから改修された二の丸や南の丸は広大かつ平坦な曲輪となっています。また、内堀は広い所で幅が70メートル以上のところもあり、こういった部分からは近世城郭的な印象を受けます。 このように縄張りからも、除々に城が拡張されていったことがわかる城だと思います。
登城記 各写真は大きな写真にリンクしています。各写真の下の番号は城の地図と対応しています。赤い番号は写真の撮影対象の場所を示し、青い番号は写真の撮影場所を示します。
1. 大手門
一の橋と大手門 撮影対象1
大手門
二の丸の北東に位置する大手門は高麗門形式で、かつては正面右側に二重の月見櫓が建てられていました。 枡形や渡櫓門を設けない比較的簡素な造りで、一見すると大手門には見えません。 羽柴秀長による築城当時は岡口門が大手門でしたが、浅野幸長による改修の際に、ここに一の橋を掛け大手門としました。
大手門は明治42年(1909)に倒壊しましたが、昭和57年(1982)に再建され、翌年には一の橋も架け替えられました。
2. 一中御門跡
一中御門跡 撮影対象2
櫓門台
鏡石
雁木
一中御門は御蔵(みくら)の丸の北に位置する門で、門を抜けると正面が御蔵の丸となり、右には広大な二の丸御殿が建てられていました。 大型の喰違虎口で、かつては渡櫓門と虎口を監視するように太鼓櫓が建てられていました。 門の周囲の石垣は大きな石材を使用した切込ハギで、一際巨大な鏡石もあり、見栄えを意識した造りとなっています。 かつてはこの辺りの曲輪は内堀に面して多聞櫓が延々と続いており、石垣の大部分には雁木を設け昇降をしやすくしています。
3. 虎伏像と築城時の石垣
虎伏像 撮影対象3
築城時の石垣
和歌山城の建つ山は海上から見た姿が猛虎が伏している姿に見えたことから、古くから虎伏山と呼ばれていました。 この像はこの名前にちなんで、昭和34年(1959)に建てられたものです。
この虎伏像の背後の石垣は、羽柴秀長築城時のものと考えられている石垣で、緑色片岩(紀州青石)を中心とした結晶片岩を使用した野面積みとなっており、隅も算木積みにはなっていません。 石材は和歌山城近く、現在の岡公園周辺や和歌浦等で容易に入手できたようです。
4. 松の丸御門と松の丸
松の丸御門跡 撮影対象4
松の丸櫓台石垣
礎石
七福の庭
松の丸御門は松の丸の東端に位置し、御蔵の丸からの登り坂を登り切ったところに、高麗門が建てられていたようです。今でも礎石を見ることができます。 周辺の石垣は打込ハギで、和歌山城の中でもかなり高い石垣です。 松の丸は本丸の南側に接する一段低い帯曲輪で、東西に細長く、曲輪というよりは通路といった感じです。
また「七福の庭」と呼ばれる7つの石組があり、これはその名の通り七福神を模したものです。徳川頼宣が藩の永久の隆盛を願い、元和7年(1621)に本丸御殿の中央に作庭しました。 大正12年(1923)に、本丸御殿跡に貯水池を建設するため現在の場所に移されました。
5. 松の丸から本丸方面への通路
通路から見た天守
天守曲輪下段から見た通路
本丸御殿跡 撮影対象5
本丸御殿跡から見た天守
松の丸から本丸方面に続く通路はつづら折れになっており、天守曲輪と本丸御殿の間の一段低い曲輪に続いています。 天守曲輪下段からはこのつづら折れの通路が一望でき、枡形のような防御拠点となりそうです。
本丸御殿跡は現在貯水池となっており立入禁止となっていますが、本丸御殿跡に続く階段を登った貯水池の門の前は絶好の天守撮影ポイントです。
6. 天守曲輪周辺
南東から見た天守 撮影対象6
楠門と天守
天守の青海波と鯱
二の門櫓と楠門 撮影対象7
楠門
天守曲輪からみた楠門と大天守
天守と小天守
玄関唐破風と小天守の鯱
天守曲輪下段から見た小天守 撮影対象8
天守曲輪下段から見た台所
乾櫓台の転用石
天守曲輪下段から見た乾櫓 撮影対象9
虎伏山の山頂に位置する天守曲輪は、おおよそ不等辺四角形の曲輪です。 南東角に天守、北東角に小天守、北西角に乾櫓、北に台所、南西角に二の門櫓および楠門があり、これらを多門櫓で接続した連立式の造りとなっています。 姫路城、松山城と並び日本三大連立式平山城のひとつに数えられています。

羽柴秀長による築城時は、現在の天守の一段下の北西にあった蔵が天守だったとの説があります。 続いて浅野幸長が入城すると、現在の天守の位置に下見板張で現在の形に近い天守を建てました。 この天守は寛政10年(1798)に白壁に改修され、弘化3年(1846)に落雷で消失するまで、200年以上残っていました。 消失した天守は嘉永3年(1850)に徳川御三家ということで、特例としてほぼ元の形で再建されました。 しかし、残念ながら昭和20年(1945)の和歌山大空襲で消失しました。現在の天守および天守曲輪の建物は、昭和33年(1958)に 鉄筋コンクリート造りで外観復元されたものになります。ただし楠門だけは木造で復元されています。

天守と小天守は不定形な地盤に建てられた層塔型天守ということで、初重の屋根は層塔型でありながら複雑な構造となっています。 また、三重天守でありながらその初重面積は五重天守に匹敵するのも特徴でしょう。 江戸時代には五重化計画もあったそうですが、幕府にはばかり実現しなかったと言われています。

曲輪の石垣は野面積みで、二の丸などで見ることが出来る切込ハギや打込ハギの石垣よりも古そうです。 緑色片岩も使用されており、おそらくは羽柴秀長による築城時のものでしょう。 また、乾櫓の天守台隅石に転用石を見つけました。こういった転用石を探すのも石垣観察の醍醐味です。
7. 天守最上階から見た和歌山の街並み
南海電鉄和歌山市駅方面
JR和歌山駅方面を見るt
天守最上階には廻縁高欄が設けられ、和歌山市街を一望出来ます。
一枚目は南海電鉄和歌山市駅方面で、巨大な紀ノ川の河口が目に入ります。二枚目はJR和歌山駅方面で、眼下に本丸御殿跡を見ることができます。
8. 砂の丸の石垣刻印と瓦片
砂の丸の石垣 撮影対象10
刻印1
刻印2
瓦片
天守曲輪の二の門櫓の脇には、砂の丸に続く新裏坂があります。 古絵図にこの坂は描かれていないことから、おそらく明治時代以降に造られたものだと思われます。 新裏坂を下ると砂の丸になります。
この辺りの石垣は和歌山城でも屈指の石垣刻印スポットです。 石垣は浅野氏時代のもで、和泉砂岩の打込ハギで積まれています。和歌山城の石垣刻印の約4割に当たる854個がこの辺りに集中しており、 おそらくは浅野家の家臣が主家の城普請に協力した印ではないかと考えられています。 地面をよく見るといかにも古そうな瓦辺も見つけることが出来ました。
9. 追廻門
追廻門正面 撮影対象11
追廻門裏面
追廻門は砂の丸西側にある門で、和歌山城の搦手門にあたります。門の外側に馬術を練習する追廻があったのが名前の由来です。
大手門と同様に枡形を設けない高麗門形式の門で、徳川頼宣入城時に砂の丸や南の丸を拡張したときに建立されました。 岡口門とともに和歌山城内で現存する数少ない遺構です。裏鬼門に当たるため、除災のため朱色に塗られたと考えられています。
10. 砂の丸周辺
砂の丸外側の石垣 撮影対象12
不明御門跡石垣
不明御門跡 撮影対象13
南堀跡
追廻門から不明御門跡にかけての砂の丸外側は高石垣のみで防御しています。切込ハギないし打込ハギで積まれ、算木積みも完成域に達した見事な石垣です。 さながら分厚い城壁のようですが、上部に櫓等の建築物はなかったようです。
和歌山城の内郭は他の面はすべて水堀を設けていますが、砂の丸のこの辺りだけは堀がありません。 本来はここにも堀を設ける予定が、徳川頼宣が謀反の嫌疑を掛けられたためか、幕府へはばかり堀を造るのを中止したとも言われています。
砂の丸の南側の堀は現在では公園になっていますが、かつては水堀でした。
11. 岡口門
岡口門正面 撮影対象14
岡口門と天守
岡口門裏面
岡口門近くの合坂
岡口門は南の丸南東に位置する門で、羽柴秀長による築城時は、熊野街道につながっていたこの門が和歌山城の大手門でした。浅野氏時代に大手門が移されてからも重要な門として機能しました。 徳川頼宣が入城する際の記録には、門の一階部分に畳の部屋があったようで、元和7年(1621)の和歌山城大改修の際に現在の門に整備されたと考えられています。 追廻門とともに和歌山城に現存する数少ない遺構です。
一見すると切妻造りの楼門のように見えますが、かつては左側に二重櫓、右側に多聞櫓が続いていました。北側には土塀も残されており、これも貴重な遺構となっています。
ところで、和歌山城の内郭には名古屋城や大坂城に見られる大型の枡形虎口がありません。豊臣氏滅亡後であり、防御を固める必要もなく、幕府にはばかってのことでしょうか。 ですが、徳川頼宣の肖像画を見るとかなり剛毅そうな顔立ちで、そんなことは知ったことか!と言いそうですが。
12. 東堀
東堀と天守
東堀 撮影対象15
岡口門の前には広大な水堀である東堀があります。その最大幅は75メートルにもなります。和歌山城の他の内堀は明治維新後に幅が縮小されていますが、東堀だけはそのままの姿が残されています。
往時には北は大手門から南は岡口門まで、東堀に面した石垣上に延々と多門櫓が続き、その奥に天守を望む壮大な眺めを見ることができたことでしょう。
13. 岡公園から見た天守
岡公園から見た天守曲輪 撮影場所16
岡公園から見た天守曲輪ズーム
岡口門前の三年坂通りを渡ると目の前に岡公園があります。奥に進むと小高い丘がありその頂上からは和歌山城の天守曲輪を南側から望遠することができます。 和歌山城周辺で気軽に寄り道できる小高い場所はこの岡公園くらいで、絶好の撮影スポットでです
公園内にはゴツゴツした岩が露出しており、丘の上に進むほど目につくようになります。調べたところ、弁財天山と言う岩山がこの丘のベースのようです。かつてはこの岩山が和歌山城の石切り場で、 緑泥片岩(紀州青石)はここから切りだされました。余談ですが、この緑泥片岩、妙に滑りやすいので登るときは注意してください。
14. 二の丸跡・西の丸跡・西の丸庭園
御廊下橋と天守1 撮影場所17
御廊下橋と天守2
御廊下橋内部
穴蔵状遺構
化石のある和泉砂岩
鳶魚閣 撮影対象18
鳶魚閣と御渡廊下
御渡廊下から見た天守
虎伏山の北麓には、西堀を挟んで二の丸と西の丸がありました。 二の丸には表・中奥・大奥からなる二の丸御殿が建てられていました。 西の丸は徳川頼宣の隠居所として造営され、御数寄屋や能舞台などの施設が建てられました。

・御橋廊下
西堀には藩主と近習者だけが通ることができる御廊下橋が架けられ二の丸と西の丸を結んでいました。 廊下橋はいくつかの城に見ることできますが、和歌山城の廊下橋は二の丸に向かって登り坂になっており、このような構造の廊下橋は珍しいものです。 平成18年(2006)に復元され、内部は自由に見学することができます。廊下には滑り止めのため横木が渡してあるのですが、これを踏みしめていくのがなかなかに痛いです…

・穴蔵状遺構
二の丸跡、御橋廊下入り口近くには穴蔵状遺構が残されています。 床面には瓦製の"せん"が菱形に目地を通して敷かれています。はっきりとした用途はわかりませんが、なにか特定のものを収納する施設であったと考えられています。 江戸城でも大奥付近に石室と呼ばれる施設があり、非常時に大奥用の調度などが納められていました。 すぐ近くには付近の石垣に使用されていた化石のある和泉砂岩が展示されています。

・西の丸庭園
徳川頼宣が西の丸の一部に造った庭園が西の丸庭園です。紅葉渓とも呼ばれています。 西堀の端を取り込み、地形の起伏を匠に利用して、懸造り構造の聴松閣や水月軒と名付けられた茶室が建てられていました。 堀に突き出た鳶魚閣は昭和48年(1973)に復元され、御渡廊下とともに往時を偲ぶことができます。
15. 鶴の渓
鶴の渓 撮影対象19
鶴の渓石垣
鶴の渓(たに)は砂の丸から二の丸へ通じる通路で、西の丸庭園の裏手に当たります。 浅野氏時代にここで鶴が飼われていたため、この名前で呼ばれています。江戸時代には切手御門などがあり、商人などが二の丸へ出入りするために使用していました。
16. 裏坂と銀明水
裏坂
銀明水 撮影対象20
裏坂は本丸と天守曲輪の間から北側に下りる通路で、二の丸へ通じています。途中には銀明水と呼ばれる井戸があります。天守曲輪の「金明水」と共に日常用水ならびに籠城時の非常用水として使用されました。
17. 天守曲輪遠景
北西から見た天守曲輪1 撮影場所21
北西から見た天守曲輪2
北東から見た天守曲輪1 撮影場所22
北東から見た天守曲輪2
連立天守は離れたところから見るのが絵になるということで、遠景を何枚かご紹介します。
一、二枚目は虎伏山の麓、北西にある砂の丸グランドから撮影しました。
三、四枚目は大手門の前にある某ホテルから撮影しました。前日に和歌山入りした私が宿泊したこのホテル、お値段も手頃な上に高層ホテルなので見晴らしは素晴らしく、和歌山市街でおすすめのホテルです。


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