KemaAkeの全国城めぐり

肥前名護屋城 ひぜんなごやじょう
別名 なし
形態 平山城
築城年 天正19年(1591)
築城者 豊臣秀吉
主な城主 豊臣氏
所在地旧国名 肥前
所在地 佐賀県唐津市鎮西町名護屋
アクセス ●徒歩によるアクセス
JR唐津線、唐津駅下車。徒歩10分で昭和バス大手口バスセンター着。
昭和バス大手口バスセンターから波戸岬行きまたは玄海エネルギーパーク行きのバスに乗車。
約40分で名護屋城博物館入口に到着。徒歩5分。

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アクセスレベル ●公共交通機関でのアクセスのしやすさ
☆☆
概要 ●安土桃山時代
天下統一を果たした豊臣秀吉が、大陸出兵のための拠点として天正19年(1591)に築いたのが名護屋城である。
城地は大陸に近い松浦半島北端で、標高約90メートルの孤立した丘陵上である。東西は深い入り江に守られ、特に東側の入江(名護屋浦)は加部島によって外波から守られた天然の良港で、船団の基地として申し分なかった。
築城は天正19年(1591)10月から九州の諸大名により始まり、これら九州の諸大名が朝鮮へ渡海すると、全国の諸大名が工事を引き継ぎ、翌年の11月にほぼ全体が完成した。
戦のための陣城でありながら、総石垣造りで天守を設ける本格的な城で、当時大坂城についで全国で二番目の規模を誇った。
城の周囲には全国諸大名の陣屋が建てられ、兵士相手の商売をするため各地から商人が集まり、わずかの間に人口10万人を超える城下町が出現した。
慶長3年(1598)に秀吉が死亡すると、大陸出兵は中止され、名護屋城は廃城となった。城内の建物は唐津城や仙台城に移築されたといわれる。
●江戸時代
江戸時代には石垣の一部が破壊されている。元和元年(1615)の一国一城令で、あるいは寛永14年(1637)の島原の乱の際に、一揆勢が城を利用するのを防ぐために破壊したと言われる。
●明治時代以降
大正15年(1926)に国指定史跡となる。
遺構 普請:石垣、土塁、堀、
作事:なし
天守:天守台のみ残る
城内案内図など 城内案内図(960x1300)
登城日 2011/08/10
2023/10/15

登城記
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。各写真の下の番号は城の地図と対応しています。赤い番号は写真の撮影対象の場所を示し、青い番号は写真の撮影場所を示します。

1. 大手口
大手口全景
城の地図:撮影対象1
旗竿石
大手口からは唐津に通じる「太閤道」と呼ばれる道が続いていました。門脇には二重櫓が建てられていたようで、櫓台石垣が修理され現在に残っています。門跡からは掘立柱跡が見つかっています。
入口には旗竿石と呼ばれる大きな石が三つならんでいます。これは軍旗や馬印などを立てるためのもので、中央に直径26センチメートル、深さ12センチメートルの大きな穴が穿ってあります。
大手口脇櫓台
大手口から見た東出丸方面

2. 東出丸
東出丸櫓台
城の地図:撮影対象2
櫓台から見た東出丸
東出丸は大手口から続く緩やかな坂を登った先にあり、その名の通り三段からなる名護屋城の二段目東方に貼り出した曲輪です。千人升とも呼ばれています。大手口、三の丸警固のための侍詰所があったとされています。
大手口と同様に東出丸門跡の脇には櫓台がありますが、名護屋城の様子を伝える唯一の資料である肥前名護屋図屏風ではここに櫓は描かれていません。また、門跡からは礎石が発見されていますが、肥前名護屋城図屏風には門は描かれていません。
東出丸から見た三の丸方面

3. 三の丸
三の丸
城の地図:撮影対象3
三の丸井戸
三の丸は本丸の一段下に位置する曲輪で、東西68メートル、南北124メートルの規模があります。玉砂利敷や礎石の痕跡が残っています。肥前名護屋城図屏風では三の丸に公家風の人物や御殿風の建物が描かれており、玉砂利敷や礎石の痕跡と一致しています。
大手口から本丸に通じる重要な曲輪で、本丸周辺を警固する侍が詰めていたと考えられています。
三の丸南西隅の櫓台は城内で最大規模を誇り、南西正面には城内最大の鏡石を用いて石垣が築かれています。四枚目写真の中央の石は城内最大の石材でその重量は約11トンと推定されています。解体修理では栗石の一部に大型石材を使用していることや、石材を一尺(約30センチメートル)単位の規格で割ろうとした矢穴後が確認されています。櫓台北側では門礎石が見つかり、その下層からはより古い時期の石垣が発見されており、このことから何度かの修築が行われたと推定されています。
また、三の丸には城内の高台では唯一の井戸跡が残っています。
三の丸から見た本丸石垣
三の丸櫓台南西面
三の丸櫓台

4. 本丸大手
本丸大手入口
本丸大手渡櫓門跡
三の丸と本丸を結ぶ門で、屈曲させた通路の途中に門を設ける古い形式となっています。肥前名護屋城図屏風では渡櫓門とその脇に二重櫓が描かれています。発掘の結果、大きな礎石やL型に曲がった階段、石垣の上へあがる雁木の遺構、大量の瓦などが見つかっています。また、数度の改築が行われていることがわかりました。
太平洋戦争で焼失した仙台城の大手門は、この渡櫓門を移築したという伝説もあります。
平成5年(1993)の石垣修理の際、発掘の結果判明した変化の最終時期を基本に、門礎石を加えて整備されました。
本丸から見下ろした本丸大手

5. 本丸旧石垣
本丸旧石垣
本丸大手を抜け、本丸に入るとまず目に入るのがこの石垣です。名護屋城は築城後に何らかの理由で大規模な改造が行われています。この石垣は本丸を南側および西側に拡張する際に、完全に埋められた築城当時の石垣の一部です。埋没している他の部分では高さ10メートル以上の石垣が、そのまま埋められているものと推定されています。写真の石垣は小さく屈曲していることから、横矢をかけ防御力を高めるため「折れ」、あるいは櫓が建てられていた可能性があります。

6. 本丸と天守台
本丸
城の地図:撮影対象4
本丸から見た天守台
城の地図:撮影対象5
名護屋城の最高所である三段目が本丸になります。本丸にはかつて、当時のキリスト教宣教師が「驚嘆(に値)する程の美麗、清潔、新鮮、巨大なもの」と記録した本丸御殿が建っていました。発掘調査では本丸一面に玉石が敷かれ、一部に玉石が敷かれていない部分がありました。その部分には礎石が点在していたことから、13棟の建物と各建物を繋ぐ廊下、門が確認されました。最も大きな建物は300畳の広さがあり、諸大名が秀吉と謁見する「御対面所」と考えられています。建物周辺からは瓦の出土が少なく、肥前名護屋城図屏風で描かれたように桧皮・こけら葺の格式の高い御殿だったようです。現在これらの遺構は保護のため埋め戻され、盛土を行い規模や形を示すと共に、擬似礎石を置き整備されています。
本丸北西隅には天守台があります。肥前名護屋城図屏風には五重七階地下一階の天守が描かれており、その高さは25〜30メートルであったと推定されています。発掘調査で、礎石、穴蔵の石垣、穴蔵への二か所の出入り口などが発見され、穴蔵の床面は玉石敷きの土間であったことがわかりました。天守は江戸時代に入って間もなく取り壊され、天守台石垣も同時に取り壊されたものと推定されています。江戸時代を通して唐津藩によって古城を管理する「古城番」が城内に置かれますが、天守台からも番所のものと思われる石列などが見つかっています。
現在天守台で発掘された穴蔵の石垣や玉石敷は、本丸御殿と同様に盛土して保護されています。そのため一見すると穴蔵がある天守台には見えなくなっています。
天守礎石と玉石敷き
天守台から見た本丸西側の石垣
天守台から見た二の丸
天守台から見た遊撃丸

7. 天守台からの眺め
天守台からの眺め
天守台からは玄界灘とそこに浮かぶ島々を一望することがきます。秀吉も同じ風景を見ていたのでしょう。
この日は天気がよく、壱岐はもちろんさらにその奥の対馬まで見ることが出来ました。天守台でお会いした地元の方曰く対馬が見えるのは運がよいとのことでした。いつまでもずっと眺めていたい風景でした。

8. 水手曲輪周辺
石垣の復元工事
水手口へ至る道
本丸北東隅からは水手曲輪下を経て、水手口に至る道がのびています。その途中では本丸北面の石垣の復元工事が行われていました。水手口へ至る道の脇にも石垣が残り、石垣の上に民家が建っている場所もありました。
9. 山里丸
上山里丸石垣1
上山里丸石垣2
山里丸は本丸の一段下、北東に位置する曲輪で、上・下2つの曲輪からなっています。秀吉が在陣中に居住し、その広さは本丸、二の丸、三の丸に匹敵し、城内でも重要な部分を占め、書院、御台所、添の間、上台所などの建物が建ち並んでいました。秀吉はこの曲輪に側室の広沢局らを呼び、芝居・能・茶の湯を楽しんだと言われています。上山里丸にはこの広沢の局が眼病治癒のお礼に仏像を祀ったのことが始まりとされる広沢寺があります。広沢局は秀吉死後に出家し、この寺で秀吉の菩提を弔ったと伝えられています。
山里口は上山里丸に通じる虎口のひとつです。発掘調査により門礎石・石段・玉砂利敷が発見されました。いくつもの折れを持った複雑な虎口となっており、城内の虎口で最も見応えがあります。このような折れを多用した通路は織豊系城郭の特徴とされています。築城後400年を経て孕み、脱落、風化が著しかったため、平成2年に大規模な修理が行われ、現在に至っています。
山里口1
城の地図:撮影対象6
山里口2
10. 台所丸
台所丸
城の地図:撮影対象7
台所丸の石垣
台所丸は山里丸の一段下、北側に位置する曲輪です。鯱鉾池と呼ばれる掘に三方を囲まれた曲輪で、近くには肥前名護屋城図屏風にも描かれ、秀吉も飲用したと言われる太閤井戸が残されています。
現在、台所丸は木々に覆われ、整備も行われていないようで、鯱鉾池越しに写真を撮り中には入りませんでした。また、太閤井戸には時間の都合で立ち寄ることができませんでした。
このあたりは民家が立ち並び、道が入り組んでいるため、迷わないように注意が必要です。
11. 二の丸
二の丸西面の石塁
矢跡の残る石
二の丸は本丸の一段下、西側に位置する曲輪です。肥前名護屋城図屏風では、二の丸に桧皮葺あるいはこけら葺きで入母屋造りの屋根を持つ御殿風建築や、瓦葺の門や塀、西面の石塁上には多聞櫓が描かれています。発掘調査では、そのほぼ全域が後の時代に削られてしまったためが、多くの遺構は発見されませんでした。
西面の石塁の合坂からは発掘調査で、最下段から軒丸瓦や丸瓦を重ねあわせた瓦積みが整然と6列並んだ状態で発見されました。これらの瓦群の上に石材や裏栗石が堆積していたことから、瓦を置いた後に石垣を破却したものと推定されています。これらは江戸時代に行われた名護屋城の破却を考える上での重要な資料となっています。
また、二の丸からは名護屋城時代のものと思われる掘立柱建物跡が発見されています。建物は3棟で、周辺から瓦が発見されず、掘っ立柱の簡素な建物であることから、築城時の仮説的な建物であったのではないかと推定されています。
二の丸から見た遊撃丸の石垣と天守台
二の丸
城の地図:撮影対象8
二の丸長屋建物跡
二の丸から見た天守台
12. 遊撃丸
遊撃丸
城の地図:撮影対象9
遊撃丸から見た天守台1
遊撃丸は本丸の一段下、北西に位置する曲輪です。文禄2年(1953)に明の講和施設(遊撃将軍)が滞在し、もてなしを受けた曲輪といわれています。発掘調査では、門礎石・石段・玉砂利敷が発見され、船手門や天守台北側からは金箔瓦が出土しています。遊撃丸や天守台の石垣は打ち込みハギとなっていますが、天守台の石垣は後の破却でかなり破壊されており、大きな盛土の表面に石材が張り付いているといった感じです。
天守台の真下に位置するこの曲輪からは、天守がさぞ立派に見えたことでしょう。秀吉は自分の力を誇示するために明の講和施設をこの曲輪でもてなしたのではないでしょうか。
遊撃丸から見た天守台2
13. 馬場
馬場から見た本丸石垣
馬場櫓台
馬場は本丸の一段下、南側に位置する長さ100メートル、幅15メートルの細長い曲輪です。ここで乗馬の訓練をしたとも伝えられ、二の丸から三の丸へ至る重要な通路と考えられています。本丸までの高さは12メートルあり、本丸南面の高石垣がよく残されています。南側の石垣は櫓に通じる石段も残り、築城時の様子と崩壊した状況を同時に観察することができます。
馬場の途中には馬場櫓台があり、この櫓台は城内でも得意な配置となっており、馬場の通路の途中に設けられています。櫓台西方の石垣上部と馬場通路面には海岸産玉砂利が敷き詰められていたようですが、この周辺に門等の建物を示す痕跡は発見されませんでした。肥前名護屋城図屏風でも馬場はちょうど本丸の裏側に隠れ、描かれていないため謎の多い曲輪のようです。
馬場から見た弾正丸石垣
馬場
城の地図:撮影対象10
14. 弾正丸と搦手口
搦手口1
城の地図:撮影対象11
搦手口2
弾正丸は二の丸の南側に位置する曲輪です。名前の由来は秀吉の近親者の浅野弾正長政が居住したことからこの名前で呼ばれています。現在西半分は貯水施設(?)のようになっており、立ち入ることができません。
弾正丸には名護屋城にある5つの虎口のうちのひとつ、搦手口があります。守りを固めるために通路を屈曲させた、典型的な食違い虎口となっており、通路の途中では瓦敷排水口跡が見つかっています。
搦手口から続く通路からは弾正丸の石垣を見上げることができます。名護屋城の石垣はところどころ等間隔に石垣が崩壊しており、これは江戸時代に行われた破却の跡になります。この弾正丸の石垣や本丸西面の石垣にも見ることができます。
弾正丸石垣1
弾正丸石垣1
15. 名護屋城博物館
名護屋城博物館全景
城の地図:撮影対象12
北東から見た名護屋城模型
名護屋城博物館は名護屋城跡の隣にある博物館です。平成5年(1993)にオープンしました。入館料は無料で、満足度によっていくらかの寄付を行うシステムになっています。
名護屋城や、文禄・慶長の役に関する資料が展示されています。特に名護屋城の模型と、秀吉の御座船「日本丸」と朝鮮軍の「亀甲船」の模型は必見です。名護屋城を訪れる場合はまずこの博物館を見学してから城跡に行くと理解が深まると思います。 模型の写真は拡大後、マウスの乗せると建物名や曲輪の名前を表示するようにしました。これで各曲輪の位置関係が多少はわかりやすくなるでしょうか。
南から見た名護屋城模型
西から見た名護屋城模型

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