アクセス
明知鉄道はJR恵那駅を起点としておおむね一時間に一本の頻度で運行されており、ローカル線としては十分な本数があります。このあたりは人によって感覚が違うと思いますが北海道のローカル線に比べれば恵まれています。明知鉄道は日本有数の急勾配路線であり、恵那駅から岩村駅の途中にある飯沼駅は日本一の急勾配駅(33パーミル)として有名で、田園風景の中をトコトコと急勾配を登って行く一両の電車に揺られるのも風情があります。
最寄り駅である岩村駅から登城道の入口、かつての藩主居館跡にある岩村歴史資料館までは徒歩25分ほどです。その道筋は古い街並みが残る城下町で情緒たっぷりで退屈しません。登城後に帰りの電車まで時間が余っても岩村の街を散策すれば時間をつぶつすのは簡単かと思います。
感想
前回登城では積雪でじっくり見ることができなかった岩村城に10年ぶりの再登城です。前回は2月上旬の登城で、考えてみれば雪が積もっていても不思議ではないという時期でした。まだ若かったので勢い任せで結構無謀だったのかもしれません。
日本三大山城の一つに数えられる岩村城ですが、他の二つ(
高取城、
備中松山城)に比べると本丸までの道のりはだいぶ楽です。確かに本丸の標高は717メートルもありますが、本丸へ至る各ポイントの標高と直線距離は以下となっておりそこまでの急斜面ではないことがわかります。
岩村駅(標高約500メートル)
↓ 直線距離約1200メートル
岩村歴史資料館(標高約560メートル)
↓ 直線距離 約600メートル
本丸(標高717メートル)
岩村歴史資料館から本丸までの登城道は曲がりくねっているため、距離は伸びますが傾斜はさらに緩やかになります。実際に歩いてみると山城の急峻な趣はあまり感じません。山城としてはそれぞれの曲輪も広大で平山城の雰囲気さえあります。山の中に忽然と現れる石垣群は見事で日本三大山城の名に恥じない立派な城です。
他の城には見られない不思議な構造(埋門や橋櫓)もあったようで、木々の間に立ち当時の様子に思いを馳せるのに最適な城です。
登城記
写真をクリックすると画像ファイルが表示できます。
1. 岩村駅と岩村城下町
岩村駅から数分歩くと岩村の古い街並みが現れます。ここから上町常夜灯までは道なりで情緒ある街並みが続きます。高い建物はなく電柱も地中化されており町ぐるみで景観を良くしようとしていることがうかがえます。岩村駅から岩村歴史資料館までは約1.6キロメートルの道のりですが、その間に信号機のある交差点が一つだけというのも驚きです。
・下町(しもまち)枡形
岩村城下町の入口は下町、新市場、新屋敷の三か所でそれぞれに枡形が設けられていました。下町枡形は西の入口にあたり、岩村から名古屋や中山道へ向かう街道の起点でした。周囲は土塁で厳重に囲まれ本町の入口には木戸が建てられていました。枡形内には高札場もあり人通りの多い場所であったことがうかがえます。
・上町常夜灯
寛政7年(1795)に有志により現在の場所から約100メートル南東の上町木戸付近に建立されたもので、昭和62年(1987)の岩村築城800年を機に現在の場所に移されました。岩村の城下町は度々大火に見舞われたことから火防を祈願して建立されたと伝えられています。現在は岩村城への道しるべになっており、岩村駅から歩いてくると常夜灯を左に曲がると岩村歴史資料館に至ります。
岩村駅
岩村の街並み
岩村歴史資料館まで緩やかな坂道が続く。写真奥が岩村城方面。
下町枡形
土塁に囲まれた枡形で写真中央に木戸があり高札場でもあった。
上町常夜灯
常夜灯を左に曲がると岩村歴史資料館へ至る。
2. 藩主邸跡
岩村城のある城山の山麓には慶長6年(1601)に松平家乗によって藩主邸が築かれました。居館跡は東西約60メートル、南北約67メートルの広さで、23の建物がありました。平成2年(1990)には藩主邸の表向きに建てられていた太鼓櫓、表御門、脇櫓、平重門が復元されました。太鼓櫓が建つ石垣は扇の勾配となっていますが、最上部は少し外側に反り返り鼠返しのようになっています。これは江戸軍学に基いて築かれたものですが、勾配の延長をそのままねずみ返し状にするこのような石垣は全国でも珍しいものです。
・藩校知新館
藩主低跡には元禄15年(1702)に松平乗紀によって創立された藩校、知新館の正門も移築されています。知新館は美濃で最初の藩校で、全国的にも初期に創立された藩校の一つです。創立当時の岩村藩は二万石であり、小藩でありながら文教政策に力を入れていたことがうかがえます。
・岩村歴史資料館
現在藩主低跡には昭和47年(1972)に開館した岩村歴史資料館があり、岩村城や岩村藩に関する資料が展示されています。巨大な岩村城の古絵図が複数展示されておりこれから登城するルートを追うのも楽しいかと思います。2024年時点で日本100名城スタンプはここに設置してあります。
太鼓櫓
表御門と太鼓櫓
太鼓櫓と石垣
石垣の反りが強く石垣上部が外側に反り返っている。
内側から見た太鼓櫓と表御門
藩校知新館正門
藩主低跡
中央の建物は岩村歴史資料館。
3. 藤坂 〜 土岐門
藩主邸脇から続く登城道はしばらくすると石畳の道となり岩村城本丸へと続きます。この登城道は当時のルートのままで、岩村藩の人々もこの道を使って岩村城と城下町を行き来していました。藩主低跡のすぐ上には何段かの平場がありかつては武家屋敷があったようです。石垣も見られますがこれは近代になってから築かれたもののようです。
・藤坂
登城道が急坂になるあたりは藤坂と呼ばれ一の門まで続いています。岩村城の中では急坂になりますが、他の山城の登城道に比べると緩やかな坂道です。築城者である加藤景廉の妻が輿入れの際に生まれ故郷である紀州藤代村から持参した種から育ったとされる藤の大木があったことが由来とされています。
・初門跡
初門は藤坂で唯一鍵の手状に折れ曲がる部分に位置し、有事の際はここに臨時の門を設けて通行を遮断していました。岩村城最初の城門となります。
・一の門跡
藤坂を登り終え両側に石垣が見えてくると一の門跡になります。二重の櫓門で大手一の門とも呼ばれていました。内側には番所が建てられ、両側の石垣上の曲輪には武家屋敷があったようです。
・土岐門跡
土岐門は一の門付近から見通すことが可能で、登城道はこの門の内側で180度折れ曲がり小さな曲輪を形成しています。薬医門または四脚門で、石垣は丁寧な切込接となっており格式の高い門でした。土岐氏を破ってその城門を奪い移築したことからこの名前がついたとされています。この門は恵那市内の徳祥寺に移築され現存しています。
藤坂
藤阪案内板
初門跡
初門案内板
一の門跡
一の門案内板
土岐門跡遠景
一の門脇の石垣上から見る。
土岐門跡
土岐門跡
内側から見る。
土岐門案内板
4. 追手門周辺
土岐門跡から少し進むと木々の間の突き当りに高石垣が見えてきます。このあたりが追手門跡になります。かつては追手門手前に畳橋が架けられていましたが、現在は空堀の堀底が登城道となっており、近世に整備された石段を上がって大手門内に入ります。
・畳橋跡
畳橋は北から続く登城道と西向きに開かれた追手門を接続するため門前で左に直角に折れ曲がっていました。このような形の橋は全国でも珍しいです。有事の際には床板を畳のようにめくることができ、畳橋と呼ばれていました。
・三重櫓跡
登城道から続く畳橋正面の石垣上には三重櫓が建てられていました。岩村城唯一の三重櫓のため天守代用とされ、城下町の馬場と本通りはこの櫓が正面に見えるように設計されました。 攻め手はこの三重櫓真下に位置する畳橋上を直角に折れ曲がる必要があり、畳橋が外枡形のような役割を果たしていたと言えます。
・追手門跡
追手門は外門(棟門)と内門(渡櫓門)で構成される内枡形門で、三重櫓を含め三方から射撃ができるようになっていました。畳橋の外枡形、内枡形、そして天守代用の三重櫓で守りを固めた岩村城で最も堅固かつ豪華な門で、ここから先が岩村城の主郭部と言えそうです。
追手門周辺の石垣
正面奥の石垣上に三重櫓が建っていた。
追手門周辺の石垣
現在はかつての堀底が通路となっている。中央の低い石垣が畳橋の橋台と思われる。
畳橋跡
右側石垣上(城外側)から左側(城内側)にかけて畳橋が架けられていた。
畳橋跡
三重櫓跡から畳橋跡を見下ろす。手前(城内側)から奥の石垣上(城外側)にかけて畳橋が架けられていた。
畳橋案内板
追手門・三重櫓案内板
5. 八幡曲輪 〜 廊下橋跡
追手門を過ぎると登城道は直線上の緩やかな坂道となり両脇には広々とした曲輪が段々状に広がり、山城というよりは平山城に居るような錯覚を覚えます。
・八幡曲輪
登城道左手に広がる八幡曲輪には岩村城を築城した加藤景廉を祀った八幡神社がありましたが、明治5年(1872)に山麓に移転しています。城内にあったため庶民の参拝はできませんでしたが、美濃遠山氏の始祖を祀るため苗木と明智の遠山家が毎年参拝に訪れていました。現在でも八幡神社の社殿に続いていたと思われる石段が残っています。現在は八幡神社跡地に霧ヶ城龍神社がありますがこの神社の由緒は不明です。
・霧ヶ井
霧ヶ井は岩村城の別名「霧ヶ城」の由来となった井戸です。敵が攻めてきたとき、城内秘蔵の蛇骨をこの井戸に投じると、たちまちに霧が城を覆い隠し城を守ったといわれています。蛇骨は二の丸の宝蔵に収蔵されており、虫干しをした記録が残されています。今でも水をたたえ岐阜県の名水五十選に認定されています。
・菱櫓跡
山城ということで自然地形を生かした石垣も多く方形とならない櫓もありました。このしのぎ積み(鈍角)の石垣の上には平櫓があり菱櫓と呼ばれていました。
・廊下橋跡
古絵図によると菱櫓の少し先、登城道右側の石垣上から登城道左側の橋櫓の二階に直接接続する廊下橋(屋根付きの橋)が登城道をまたいでいました。この櫓と廊下橋という組み合わせが奇妙で、通常は櫓には城主クラスの人物は入らないのですが、そこに城主が行き来するための廊下橋が接続していることが矛盾しているとされてきました。この矛盾について私が尊敬する
三浦正幸先生のYoutube動画で解説がされており、橋櫓は月見櫓であり、月見櫓であれば城主クラスの人物が出入りしても不思議ではないということでした。
八幡曲輪周辺の石垣
八幡曲輪周辺の石垣
反りが強く石垣上部の外側への反り返りが顕著。
八幡曲輪周辺の石垣
隅石は算木積となっている。
八幡曲輪周辺の石垣
左側上部が八幡曲輪となる。
霧ヶ井
登城道右側に位置する。
霧ヶ井
霧ヶ井案内板
八幡曲輪
霧ヶ城龍神社
八幡神社跡地に鎮座する。
八幡神社案内板
菱櫓跡石垣
廊下橋跡
電柱の黄黒支線ガード左の石垣上から登城道をまたいで廊下橋が架けられ右側の二重櫓二階に接続していた。
6. 六段壁
菱櫓跡のあたりからすでに登城道正面には岩村城を代表する景観である六段壁が見えてきます。本丸帯曲輪の北東面に雛壇状に築かれた六段の石垣は岩村城のシンボルとなっています。
古絵図では石垣は最上部の一段のみ描かれており、崩落を防ぐために順次補強の石垣を積んでいった結果、現在の姿になりました。石垣というと下から上に築かれるイメージですが、ここでは上から下に長い年月をかけて築かれていったわけです。これらの石垣は犬走りとしても活用でき防御面も強化されています。石垣の修築等にも利用されたと考えられています。
六段壁
菱櫓跡前から見る。
六段壁
岩村城で最も有名な景観。
六段壁手前の石段
石段は本丸下の東曲輪に続く。
六段壁案内板
7. 長局埋門跡
六段壁横の石段を登ると本丸東下に位置する東曲輪に至ります。東曲輪の西側登り坂の先は本丸の北・東を囲む帯曲輪となっており、一部は長局と呼ばれていました。長局埋門はその正門になります。埋門とは呼ばれていますが、古絵図を見ても門上部を石垣で閉じているようには描かれていないため実際には長屋と一体化した渡櫓門だったようです。
長局埋門跡
東曲輪から見上げる。右側は六段壁となる。
長局埋門跡
長局埋門跡
突き当りは本丸東面石垣。
長局埋門跡
本丸石垣上から見る。
長局埋門跡
本丸石垣上から見る。奥は東曲輪。
長局埋門跡案内板
8. 本丸周辺
標高約717メートルに位置する本丸は近世城郭としては最も高所にあり、細長い八角形で東西約36メートル、南北役65メートルの広さがあります。天守は設けられず二重櫓が二基、多門櫓が二棟、門が三棟ありました。
門は東面と北面に設けられいずれも簡素な棟門あるいは冠木門で、本丸帯曲輪にある二つの埋門が本丸最後の関門だったようです。
本丸には昇竜(のぼりりゅう)の井戸が覆屋に覆われ今も水をたたえています。岩村城は山城でありながら他にも温故の井戸、霧ヶ井、竜神の井戸など17の井戸があり、そのうち10は今も水をたたえているそうで、山城でありながらこれだけの数の井戸があることに驚きです。
山城の本丸ということで絶景を期待しますが、周りが深い木々に覆われているため360度の大パノラマというわけではありません。それでも北西に城下町、北東に遠く木曽山脈を望むことができます。前回登城時は本丸から城下町を見ることができなかったのですが、令和1年(2019)にヒノキが伐採され城下町が見えるようになりました。岩村城で伐採されたヒノキは名古屋城天守復元のための木材として利用される予定とのことです。
本丸帯曲輪
長局埋門の奥は本丸帯曲輪で南側に長局がある。
本丸東口門跡
本丸帯曲輪から続く本丸の正門。
本丸
本丸からの眺め
本丸東口門方面には遠くに木曽山脈を見ることができる。
昇龍の井戸
多門櫓跡
本丸西面の多門櫓跡。
本丸北面の石垣
本丸北門跡
9. 埋門跡
埋門は本丸帯曲輪北面に位置する門で、本丸北面の狭小な埋門と一体を成すように設けられています。長局埋門と同様に埋門と呼ばれてはいますが、実際には渡櫓門で、正面右には渡櫓門に接続して二重の納戸櫓がありました。
正面から見ると両側と奥の石垣上にすっぽりとかぶさるように櫓が載せられ、石垣の間の通路は左側に直角に折れています。これだけですと
姫路城にの門も同様の構造ですが、奇妙なのは礎石が六つ、つまり三つの門扉があった形跡があることです。
外側から見て一番手前と二番目の礎石は石段途中にあり内開きの門であったとすると、奥の石段にあたり扉を開くことができません。二番目の礎石位置ではかろうじて扉を開けそうですが、そもそも一つの城門に複数の門扉があること自体稀です。
高知城詰門のような例もありますがこれは城門というよりは櫓を城門代わりとしたものです。
古絵図をよく見ると一番手前の門扉が描かれていないようにも見え、何度かの改修で複数の礎石が残っただけという可能性もあります。あるいは常識にとらわれず外開きの扉を採用していたのかもしれません。文章ではお伝えするのが難しいのですが、現地で建物があったことを想像すると不思議な構造であることがよくわかります。 埋門の謎についても
三浦正幸先生のYoutube動画で解説がされています。
埋門跡(本丸帯曲輪)
正面から見る。左側の石垣は岩村城最古のものと考えられ、右側には二重の納戸櫓があった。
埋門跡(本丸帯曲輪)
礎石が四つ写る。内開き両扉だとすると石段に引っかかってしまう。
埋門跡(本丸帯曲輪)
外側(写真左)から内側(写真上)に折れ、礎石が六つ写る。高低差もあり門全体の構造が不明。
埋門跡(本丸帯曲輪・本丸)
前の写真に続きさらに右に折れ小さな門を経て本丸へ至る。
埋門跡(本丸)
本丸へ至る最後の門。幅が狭く礎石も左側にしかないため片扉と思われる。
埋門案内板
10. その他
・出丸
本丸西面には帯曲輪を挟んで出丸がありました。本丸とは高低差があるため出丸側の本丸石垣は二段で築かれていますが、六段壁の石垣に比べると高いものになっています。
現在出丸は駐車場となっておりトイレがあります。車であれば城下町の反対側からここまで来てすぐに本丸へ到達できます。しかし、岩村城はそこまできつい山城ではないため車でも岩村歴史資料館に駐車してそこから正規の登城道を登ることを強くおすすめします。
・南曲輪
南曲輪は本丸の南の尾根に伸びる戦国時代の遺構で、2本の堀切や竪堀、土橋などの遺構が残っています。江戸時代になっても石垣が築かれることはなく、侍屋敷として使用されていたようです。南曲輪は便宜上つけられた名前で無数にある戦国時代の曲輪の一つとして名前も伝わっていない、あるいは名無しの曲輪だったのだと思います。
本丸西面の石垣
高低差があるため二段の石垣となっており、このあたりの石垣が城内で最も高いと思われる。
本丸南西面の石垣
しのぎ積み(鈍角の隅部)となっている。背後が出丸となる。
出丸
本丸から見る。
南曲輪の堀切
南曲輪に二本ある堀切の一つ。
南曲輪案内板
岩村城再現鳥瞰図
岩村歴史資料館に展示されている。
地図が表示されない場合は、F5キーでページを更新してください。