感想など
JR二本松駅から現在の城の入口である箕輪門までは徒歩20分ほどかかります。
比較的高所にある平山城ということで、電車の車窓や駅からその姿が望めるかと思いきや…その姿は一切見えません。
それもそのはずでJR二本松駅と二本松城の間には観音丘陵があるためです。トンネルはないため徒歩での丘超えとなります。
この観音丘陵の頂上でようやく復元された箕輪門や二階櫓を望むことができます。
とはいっても小高い丘陵なので、ちょっとしたハイキングだと思ってください。
二本松城は白旗ケ峯の南側山裾から頂部にかけて築かれています。
中世に畠山氏が築いた城を蒲生氏、加藤氏が改修、最終的に丹羽光重による大改修で本格的な近世城郭になりました。そのため各所に中世の城のなごりである平場が残っています。
石垣は麓の三の丸周辺、山頂部の本丸周辺に設けられています。
蒲生氏、加藤氏、丹羽氏が足掛け70年近くに渡って改修を繰り返したため石垣の技法も様々なものを見ることができます。
特に蒲生氏郷が造ったとされる東北地方最古の野面積み石垣は貴重です。
登城日は小雨が降ったりやんだりの天気でしたが、霞ヶ城の別名にふさわしく山頂からは霧がかった風景を眺めることができました。
たまにはこういった天気での登城も雰囲気があってよいものでした。
登城記
1. 千人溜・箕輪門・三の丸周辺
千人溜
二本松少年隊群像と母の像
箕輪門と二階櫓
箕輪門正面
箕輪門裏面
箕輪門枡形
塀重門跡
三の丸
・千人溜(せんにんだめ)
箕輪門の下に広がる平場で、かつては藩兵の集合場所となっており、現在は二本松少年隊群像が設置されています。
二本松少年隊は慶応4年(1868)7月の戊辰戦争の最中、兵力不足の状況をみて出陣嘆願した少年兵たちです。
12歳から17歳まで、62名が出陣し7月29日に城下の大壇口で戦いましたが、正午ごろ二本松城は落城しました。
少年兵の背後には出陣服の肩印(けんいん)を縫う母の像が設置されています。
・箕輪門と二階櫓
二本松城の大手門で、丹羽光重による改修時に城下の箕輪村から伐採した樫を主材として建てられました。
現在の建物は戊辰戦争で焼失したものを昭和57年(1982)に復興したものです。
門前は枡形というには狭く、外門も持たないため石垣で固められていながらも中世城郭らしさを残しています。
二階櫓については当時は存在しなかったと考えられています。
・塀重門跡
箕輪門から三の丸へ向かう場所にあり、門を立てるための石垣が残っていますが、実際に門は建てられませんでした。
・三の丸
塀重門跡の通路を抜けると城内最大級の曲輪である三の丸があります。
三の丸は丹羽氏が居住した御殿跡で、加藤氏による改修で上下二段構造の曲輪になりました。
南面の高石垣も同時期に盛土面に築かれたため、廃水処理のため地下に幅1メートルの石積み排水口や集水桝などが施設されました。
2. 三の丸から本丸へ至るまでの遺構
城内路
日影の井戸
本丸への登城路
蔵屋敷跡
・城内路
一見すると空堀に見えますが、会津領時代に城代がおかれた松森館と新城館との連絡通路です。
虎口状の遺構が残っていて、中世畠山氏時代から使用されていた可能性が高いです。
・日影の井戸
千葉県印西市の「月影の井」、鎌倉市の「星影の井」と並び「日本三井」の一つに数えられる井戸です。
井戸の深さは約16メートルあり、今でも豊富な湧き水を溜めています。
・蔵屋敷跡
乙森の東下方の平場で会津領時代や丹羽氏時代の絵図には「蔵(倉)屋敷」と記されています。
見張り台として使用された掘立柱の櫓と塀跡や、礎石立ちの屏風折れの塀跡などが確認されました。
本丸へ続く城内路に面した平場であり、防御上重要な役割を果たしていたようです。
3. 本丸下南面大石垣
大石垣と本丸石垣
本丸下南面大石垣
本丸周囲には時期の異なる多くの種類の石垣を見ることができます。
本丸下南面のこの石垣は二本松城に残る最も古い石垣のひとつで、慶長初期ごろに蒲生氏郷によって築かれた石垣です。
野面積みで勾配は直線的で緩やか、天端付近には積み直された形跡があり、本来はさらに数段高い石垣であったと考えられています。
横目地の通った布積みのようにも見えますが、ところどころ目地が通らない「布積み崩し」と呼ばれる技法のようです。
4. 本丸周辺
本丸石垣その一
本丸虎口その一
本丸虎口その二
天守台その一
天守台その二
本丸東櫓台
本丸石垣その二
天守台旧石垣
二本松城本丸は変形四角形で、三隅に西櫓台、天守台、東櫓台があり、東櫓台に隣接して幅広の食い違い虎口が設けられています。
廃城後本丸には宗教団体の天文台などが建てられていましたが、平成に入り霞ヶ城公園整備計画により撤去がされ、発掘調査が行われました。
この発掘調査ではじめて本丸の形状と規模が判明し、すでに崩壊し消失したと考えられていた石垣の遺構も検出され、慶長期の「穴太積み」や元和・寛永期の各様式のほか、江戸後半期の様式が確認されました。
この結果に基づき、平成5年(1993)から平成7年(1995)にかけて本丸石垣の修復などの復元工事がなされ、天守台や本丸石垣が整備されました。
その際に発掘調査で検出された天守台付近の慶長初期の「穴太積み」石垣は二本松城最古の石垣ですが、痛みが激しく整備後の石垣重量に耐えられないため、近くに移築され現在も見ることができます。
5. 東櫓台からの眺望
東櫓台からの眺望
二本松城本丸は標高345メートルほどの独立丘陵の頂上にあり、周囲を一望できます。
西には日本百名山に数えられる安達太良山を望み、東から南にかけては二本松の市街地を見下ろせます。
写真のほぼ中央で市街地を分断するのが観音丘陵です。この丘陵の向こう側が現在のJR二本松駅周辺で徒歩での登城の場合はこの丘陵を超えることになります。
6. 天守台下西面二段石垣
天守台下西面二段石垣その一
天守台下西面二段石垣その二
天守台の西に位置するこの石垣は以前から一部が露出していましたが、平成6年(1994)11月に本丸石垣の整備工事とあわせ発掘調査が実施されました。
石垣は、斜面上に上・下の二段で構築され、その間は幅約1.6メートルの犬走りを設けています。また、上・下段ともに天端左側の一部が欠落していました。
築石は自然石を主体とし一部荒割石が用いられ、積み方は古式の穴太積みです。
構造は本丸下南面大石垣と類似しており、同時期に築かれた二本松城で最も古い石垣のひとつです。
7. その他城内各所
丹羽神社
洗心亭
霞池
洗心滝
・丹羽神社
丹羽氏の歴代藩主が祀られています。
・洗心亭
城内に唯一残る江戸時代の建物です。
城内にあった茶室の一つで、天保8年(1837)の山崩れにより、阿武隈川畔の地蔵河原に移築され藩主の釣茶屋として使用されていました。
明治40年(1907)に元の場所であるここに再移築されました。
茶室下には霞池、近くには洗心滝があり庭園を構成しています。
福島県下に残る数少ない大名茶室で、県指定重要文化財となっています。
城の地図
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