小田原 歴史的町名碑めぐり その五

小田原 歴史的町名碑めぐり その四の続きです。

これまでの小田原 歴史的町名碑めぐりは以下をご覧ください。
小田原 歴史的町名碑めぐり その一
小田原 歴史的町名碑めぐり その二
小田原 歴史的町名碑めぐり その三
小田原 歴史的町名碑めぐり その四

063-01 弁財天(べざいてん)2018/03/18撮影
063-02 弁財天(べざいてん)2018/03/18撮影
「江戸時代初期、この地を「弁財天曲輪」と呼んでいた。しかし、元禄十年(一六九七)に蓮池の南側にあった「評定曲輪」を「弁財天曲輪」と名称を変えたため、ここを単に「弁財天」と呼ぶようになった。幕末にはこの地に六・七軒ほどの中堅藩士屋敷があった。」

063-01-01_弁財天
063-01-01_弁財天
063-01-02_弁財天
063-01-02_弁財天
063-02-01_弁財天
063-02-01_弁財天
063-02-02_弁財天
063-02-02_弁財天

064 元蔵(もとぐら)2018/03/18撮影
「小田原城主が稲葉氏であった江戸時代前期、小田原城外の北方に新しく米蔵が建設され、これを「新蔵」と呼んだ。そのため以前から三の丸の弁財天曲輪にあった米蔵は「元蔵」と読んで区別したらしい。元蔵は江戸時代後期廃止され、五軒ほどの藩士屋敷に分割された。やがてその地名も「弁財天」に含まれるようになった。」

064-01-01_元蔵
064-01-01_元蔵
064-01-02_元蔵
064-01-02_元蔵

065 天守裏(てんしゅうら)2018/03/18撮影
「この地は、もと小田原城の天守台の裏手に直接続いていたのでこの地名がある。現代に入り東海道線の開削工事によって東西に分断された。ここは「八幡山古郭群」と呼ばれる小田原城創始期の城跡の残る地域に続き、小田原城の核心部として重要な地域であったことが知られる。」

065-01-01_天守裏
065-01-01_天守裏
065-01-02_天守裏
065-01-02_天守裏

066 小峰畑(こみねばた)2018/03/18撮影
「この盆地状の土地は、古くは城の要害として利用されたと考えられ、江戸時代には、この地の土砂を小田原城の低地部の改修用に運び出したという伝承もある。また、相模湾岸などの警備が重視される幕末のころ、ここには「小峰畑調練場」となり、小田原藩兵の軍事訓練が行われた。」
現在ここには小田原競輪場がありますが、競輪場の地形は盆地状になっています。幕末の小田原城絵図「文久図」を見るとやはりこの競輪場の場所が調練場だったようです。

066-01-01_小峰畑
066-01-01_小峰畑
066-01-02_小峰畑
066-01-02_小峰畑
066-01-03_小峰畑
066-01-03_小峰畑

067 小峰(こみね)2018/03/18撮影
「小峰と呼ばれていた地域はかなり広く、また時代によってその範囲が著しく伸縮したが、武家屋敷としての小峰はこのあたりを指し、江戸時代中期ごろには藩の重臣屋敷が並んでいた。」

067-01-01_小峰
067-01-01_小峰
067-01-02_小峰
067-01-02_小峰

068 天神山(てんじんやま)2018/03/18撮影
「地名の由来は、この地の南側中腹に天神社が祀られていたので、この名があると考えられる。この社には室町時代の天神画像が伝えられており、この地名の古いことがわかる。なお、天神山には社の背後に小田原北条氏時代の三の丸の空堀が東西に伸びていた。」

068-01-01_天神山
068-01-01_天神山
068-01-02_天神山
068-01-02_天神山
068-01-03_天神山
068-01-03_天神山

069-01 新道(しんみち)2018/03/18撮影
069-02 新道(しんみち)2018/03/18撮影
「この道は、小田原城三の丸堀沿いの道で、文化十四年(一八一七)小田原の大火のとき逃げ道がなくて多数の焼死者が出たことから新たに造られたので新道といった。西の出口は箱根口へ、東は宮前町高札場(こうさつば・幕府の法令などを掲示する場所)の北側に通じている。」

069-01-01_新道
069-01-01_新道
069-01-02_新道
069-01-02_新道
069-02-01_新道
069-02-01_新道
069-02-02_新道
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070 隅屋敷(すみやしき)2018/03/18撮影
「小田原城の二の丸と三の丸の堀に挟まれた場所は、江戸時代には藩の重臣たちの、長方形の区画の屋敷が並んでいた。しかし、南西角のこの地だけは、三の丸の堀が曲折するため方形にならず三角形の土地になり、屋敷地としては軽視された。そのため稲葉氏が城主の頃には細分して足軽の住む割屋敷とした。大久保氏時代の文政年間(一八一八~二九年)には五軒ほどの藩士の住まいがあった。」

070-01-01_隅屋敷
070-01-01_隅屋敷
070-01-02_隅屋敷
070-01-02_隅屋敷

071 御用所(ごようしょ)2018/03/18撮影
「地名の由来は、この地に藩の御用所があったのでこの名がついた。御用所とは、藩士の執務所で、始め(元禄の頃)箱根口門の東隣にあったが、その後(文政の頃)この地に移された。幕末には母屋(おもや)を囲んで敷地内に六棟の建物があった。」
現在ここはお堀端通りとなっており、小田原観光のメインストリートとなっています。石碑の目の前には小田原公共職業安定所があります。この建物もなかなか古い建物で、昭和レトロの趣があります。

071-01-01_御用所
071-01-01_御用所
071-01-02_御用所
071-01-02_御用所
071-01-03_御用所
071-01-03_御用所

072-01 大手前(おおてまえ)2018/03/18撮影
072-02 大手前(おおてまえ)2018/03/18撮影
「町名の由来は、ここが小田原城大手門に通じていたためといわれ、当時は重臣屋敷が並んでいた。大手前から東に走る道路は、甲州道と交差し、そこには柵門(大手先黒門)があり、その先は唐人町に通じていた。」
現在ここには箱根駅伝で有名な国道1号線、小田原のクランクがあり、突き当りには小田原市民会館が建っています。

072-01-01_大手前
072-01-01_大手前
072-01-02_大手前
072-01-02_大手前
072-02-01_大手前
072-02-01_大手前
072-02-02_大手前
072-02-02_大手前
072-02-03_大手前
072-02-03_大手前

073-01 一丁田町(いっちょうだちょう)2018/03/18撮影
073-02 一丁田町(いっちょうだちょう)2018/03/18撮影
「この町は、商人町の色が濃く、郷宿(ごうやど・公用で藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)も数軒あった。町内の東北部に誓願町という小町があるが、この名は、誓願寺の門前にあったためといわれている。」

073-01-01_一丁田町
073-01-01_一丁田町
073-01-02_一丁田町
073-01-02_一丁田町
073-02-01_一丁田町
073-02-01_一丁田町
073-02-02_一丁田町
073-02-02_一丁田町

074 林学小路(りんがくこうじ)2018/03/18撮影
「林学小路は、小田原城三の丸堀端から一丁田町と台宿町の境とを東西に結ぶ小路をいう。この地名は、小田原北条氏時代からの住人であった渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものといわれている。」

074-01-01_林学小路
074-01-01_林学小路
074-01-02_林学小路
074-01-02_林学小路

075 林学横町(りんがくよこちょう)2018/03/18撮影
「この地名は、小田原北条氏時代からの住人であった渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものといわれている。林学横町は、大工町から林学小路まで南北に走る横町をいう。」

075-01-01_林学横町
075-01-01_林学横町
075-01-02_林学横町
075-01-02_林学横町

076-01 林学(りんがく)2018/03/18撮影
076-02 林学(りんがく)2018/03/18撮影
「この地名は、小田原北条氏時代からの住人であった渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものといわれている。なお、この地は「林角」や「林岳」とも表記された。」

076-01-01_林学
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076-01-02_林学
076-01-02_林学
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076-02-01_林学
076-02-02_林学
076-02-02_林学

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